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人類最後の職業はなんなのか

技術革新は職業人を淘汰する

人類最初の職業は売春婦だった、とよくいわれる。では、ぎゃくに人類最後の職業はなんだろう?

タイピストや電話交換手は、時代とともに消え去った。その他、現在進行形で消えつつある職業もある。10年後になくなる職業、といった予測記事を目にしたことはないだろうか? AIやロボットの台頭で、今後、受付嬢や小売店の販売員などは必要なくなる――とされている(危機感を煽る記事ほどよく燃える)。

時代に添わなくなった職業は、すべて駆逐されていく。あらゆる職業が機械化され、AIで代替されるようになる遠い未来、最後まで残る職業は、いったいなんだろう?

答えは小説家だ――と、ぼくは考えている。


人類の大半の職業はすでに機械化が可能になっている

IBMが開発したチェス専用スーパーコンピュータ、ディープ・ブルーがチェス王者ガルリ・カスパロフを破ったのが1997年。その二十年後、2017年には将棋ソフトPonanzaが佐藤天彦名人に二連勝を果たしている。これは単にゲームにおける人類の敗北を意味しない。頭脳の格闘技といわれ、知能の尺度として名高い二人零和有限確定完全情報ゲームの分野においてコンピュータが人類を凌駕したということは、とりもなおさずチェスや将棋以外の分野においてももはや人類はAIに勝てない、ということを意味する。「兄は頭が悪いから東大に行った。おれは頭がいいから将棋指しになった」とは米長邦雄永世棋聖の至言だが、理論的にいえばAIは人類の大部分の職業をすでに代替できるし、しかもそうであるなら人間よりずっとうまくやれる――ということである。

薬剤師なんかがいい例で、薬品の調合などは今後AIにやらせたほうが正確になるのはまちがいない。実際、MRはもはや必要のない職種となっている。医師の診断にしても、血糖値やγ-GTP、白血球数などの数値を基にするというなら、これもAIにやらせたほうがいいだろう。一般事務や経理事務なんて、いまだに人間がやっているのが不思議なぐらいだし、公認会計士や税理士でさえ無用の長物になる未来はそう遠くない。過去の判例データを抜からずインプットすれば弁護士や裁判官よりも機械のほうが公正な判決を、しかもごく短時間で導き出せるのは間違いないだろう。株の売買しかり、会社の経営だってもはやコンピュータに任せたほうが社員も安心ではないか。人間がやるべき仕事は、もはやクリエイティブの分野しか残されていない。


クリエイティブ分野でのAIの躍進

しかし、クリエイティブの難易度についても、序列がある。比較的難易度が低い音楽の分野では、すでに二十世紀半ばにコンピュータによる自動作曲が試みられていることは、賢明な読者諸氏ならご存じだろう。イリノイ大学のコンピュータILLIAC Iを使った「イリアック組曲」(1957年)である。音楽の構成要素である和音の数は限られているし、その組み合わせパターンも過去の名曲からすでに明らかになっている(これをマルコフチェインと呼ぶ)。だから、音楽はコンピュータによる代替が比較的容易な分野なのである。

21世紀にはさらに驚くべき事案が発生している。2016年にAIがレンブラントの新作を発表したのである。レンブラントの画風をAIに覚えこませ、新作を描かせるという神をも恐れぬ暴挙だが、一見してその成果物をレンブラントの絵と区別をつけられる美術評論家はいないだろう。さらに、2018年のニューヨークではAIが描いた肖像画が43万2500ドルで落札された事例もある。これらAIによる画像生成はディープフェイクと呼ばれ、音楽に続きすでに実用段階だ。絵画と音楽の自動生成ができるなら、組み合わせれば今後は動画の自動生成も……というのは、当然、考えられるところだろう。

さらに、あまり言及したくない話だが、商業デザインの分野にもAIが目下、侵攻中。2020年、カルビーがポテトチップスのパッケージリニューアルにデザインAIを活用、売上を1.3倍に増やした事例もある。webデザインを自動化させるAIも、すでに実用段階だ。デザイン分野も歴史が長いため、色彩理論等が明確に確立されているし、webについてはデータサンプルの収集も容易である。そのため、AIでの応用と相性がいいのである。現段階ではまだ補助的な役割に留まっているものの、デザイナーがより進化したデザインAIに仕事を奪われる未来も、そう遠くはないのかもしれない(もちろん、そうならないよう必死に努力はするとして)。


AI進出が唯一失敗した分野

クリエイターにとって寒気のする話が続いたが、人類にとって唯一の希望がある。2012年、はこだて未来大学が人工知能にショートショートを書かせるプロジェクトを発足させたことは記憶に新しい。星新一のショートショートをコンピュータに解析させ、新作を自動生成する、という試みだ。

たいへん野心的なプロジェクトだが、結果としては失敗に終わっている。実用化できた技術はかろうじて、自然な日本語の文章を生成するのみに留まり、ストーリー生成や肝心要の作品としてのおもしろさを評価させることはAIにはできない、という結果になったのだ。当然ながら、自然な日本語の文章と、小説や文学は別物である。小説や文学は文章表現を究めるということなのだから。ショートショートのような、原稿用紙10枚以内のごく短い小説でさえ、AIはついに生成できなかった。そして、今後それができる一抹の見込みさえもない。

文学という分野は、きわめて複雑で困難だ。ぼくも大手出版社の新人賞に応募し、最終候補まで残ったり入賞文庫化した経験があるからいえる。人間の営みのなかで、文学こそが最も奥深い。言葉と言葉、文章の組み合わせパターンは無限に等しい。指し手が限定されている将棋や和音の数が限られる音楽よりも、遥かに難解なのは自明の理だ。さらに文章にストーリーや演出を有機的かつ複雑に絡め、その奥に深淵なテーマ性まで構築させなければならない。なによりも、人間を描くこと、人間心理に肉薄することが、果たして機械にできるだろうか? 永遠にできまい。それができたら、それはもはや機械ではなく――おそらく神と呼ぶべきものだろう。

始めに言葉ありき。最後に言葉あらむ。

まちがいなく、人類最後の職業は小説家である。このご時勢に文学部に進むような学生は、先見の明があるとさえいえる。それが人間に残された最後の仕事なのだから。

太宰治やオスカー・ワイルド。スタインベックやサリンジャー。カフカ、カミュ、デュマ、ヴェルヌ、ウエルズ、アシモフ、ブラッドベリ、ディック、ヴォネガット。かれらのような天才がAIに取って代わられる未来は、未来永劫、訪れることはない。機械がドストエフスキーの新作を書くなんて悪夢だけは、永遠に起こることがないのである。


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