【短編小説】枯花のドリップ【月刊アートPJ】
『珈琲 みさき』――こみ上げる苦い痛みが俺の足を止めた。
蝉の声が耳に痛い。汗をぬぐい、じりじりとした太陽に照らされる手書きの看板を見上げる。その古民家カフェは、果てしなく続くような田舎道にポツンと佇んでいた。
いいじゃないか。雰囲気がある。
と評価してみたものの、ほとんど店も無いような県道においてはまさに地獄に仏。四の五の言わず、入ってしまいたい。
躊躇するのには理由がある。大学時代、共にバリスタを目指していた『美咲先輩』との苦い別れを彷彿とさせるからだ。
今では都内の大手広告代理店に勤務し、中堅社員としてバリバリ働く俺にもバリスタなんぞを目指すキラキラした青春があったものだ。懐かしく思い出しながら、カフェの古びた扉をガラガラと引き開けた。
「いらっしゃいませ」
明るい声に出迎えられる。赤いエプロンをしたその女性の顔を見て、俺は凍り付いた。
「美咲先輩?」
電気が消えるように笑顔が消える。女性――美咲先輩――は口元をわずかに開けたまま俺を見つめていた。
「美咲先輩じゃないですか」
俺は構わず歩み寄る。先輩は弾かれたように一歩引いて、ためらいがちにほほ笑んだ。
彼女は学生時代から背が高く細身でスポーティーな体型だったが、十年ちょっと経ってもほとんど変わっていない。化粧っ気のない顔は、むしろ、少し痩せたようだ。彼女は後頭部の高い位置でセミロングの髪を結い、動きやすそうな白いシャツとジーンズ、赤いサロンエプロンを巻いている。
「あ、ああ。ええと……」
もしかして、俺を忘れてしまったのだろうか?
そこで俺は、もはや体に染みついたような動作で彼女に名刺を渡した。『株式会社エヌメディア 営業部・アカウントマネージャー 高浜 善』と書いてある。
その名前を白い指でなぞり、彼女は目を細める。
「善君。ずいぶん出世したのね」
「いや、それほどでも。今日だって泥臭い営業で外回りですよ。美咲先輩こそ、こんなところで古民家カフェですか? いいですね」
俺は心からの羨望を込めて言った。学生時代彼女と共にバリスタを目指していた俺は、最後には安定を選んで就職活動に邁進した。バリスタ修行に赴いた彼女とは道が分かれてしまったが、少しだけ後悔している。
先輩は俺の顔をしばらく眺め、名刺を手の中で弄んだ。
「亡くなった祖母の家を改装したのよ」
彼女は短く言った後、手振りで俺にテーブル席を勧める。店内にはレトロなテーブルとイスが並び、俺以外に客はいないようだった。
俺はありがたく席に座り、彼女が出してくれたお冷を飲んで喉を鳴らす。ああ、天国だ。
「珈琲、飲むでしょ?」
俺のがぶ飲みを見て小さく笑みを浮かべながら彼女が尋ねる。俺はもちろん頷いた。バリスタを目指していた俺は今でも趣味でカフェ巡りを楽しんでおり、どれだけ暑くてもホットで飲む。氷を入れたらもう珈琲ではない。
彼女が珈琲を入れてくれている間、俺は静かに回想を始めた……。
***
学生時代、俺は真面目で純粋、夢に満ち溢れた青年だったと思う。美咲先輩とはゼミで出会い、お互い夢がバリスタだということですぐに意気投合した。最終的には「いつか一緒にカフェが開けたらいいね」なんて話したりして。今思えば、人生で一番キラキラしていた時期だった。
裏切ったのは俺だ。
先に卒業していく彼女はバリスタ修行をすると心に決めていたが、俺はと言えば周囲が次々と就職を決めていく中、新卒カードを失ってまで高収入や安定と程遠いバリスタを目指すことがどんどん不安になっていった。
そして、彼女に内緒で就職活動を始め、それが彼女にバレてしまって口論になった。最後に口にした言葉を今でも覚えている。
『珈琲の味も分からない先輩に俺の気持ちが分かるのかよ』
ひたすら自惚れと甘えから出た一言だった。
俺は当時、かなり味に細かく、繊細な舌を誇っていた。豆のわずかな雑味や舌ざわりまで感じ取れることで天狗になっていたのだ。お互いに珈琲を入れると、必ず俺から彼女に改善点を伝える。彼女はそれを気にして一人で練習を重ねていた。
だから、それはいわゆる『絶対に言ってはいけない一言』だったのだろう。謝る機会もなく、それからほどなくして彼女はイタリアへバリスタ修行に旅立ち、それっきりだった。
***
とそこまで思い出したところで、彼女がカップをそっと俺のテーブルに置いてくれた。
「ごゆっくり」
どこか影のある笑みを浮かべ、彼女はカウンターの方へ立ち去る。
確かに、ひどい別れ方だったからな。未だに引きずっていてもおかしくはない。どこかのタイミングで謝罪できれば良いのだが。
それにしても、彼女はなぜ、こんな所で古民家カフェをやっているのだろう? 古民家カフェが悪い訳ではないが、わざわざイタリアのミラノで修行していたはずなのに。
分からないが、この珈琲は何かを語るはずだ。そう思いながら、カップを傾けてその液体を味わった。
――俺は思わず顔をしかめた。
かつて美咲先輩が淹れてくれた珈琲は、豆の焙煎度合いによって酸味と苦味のバランスが絶妙で、一杯ごとに違う顔を見せてくれたものだ。しかし、今目の前にある珈琲は、ただ苦いだけで雑味しかない。
なんだこれは。豆に対する冒とくじゃないか。
軽い怒りを覚え、背を向けて洗い物をしている彼女を睨みつけた。しかし……俺に怒る権利なんてないだろう。もしかして、最後に投げつけた『珈琲の味も分からない』という一言に対する腹いせだろうか。
「先輩」
俺はぐいと珈琲を飲み干すと席を立ち、スーツのジャケットを椅子に掛け、カウンターの方へ踏み出した。
「久々に俺も淹れますよ。その……昔のお詫びもかねて」
俺は頭を掻きながら、気まずい笑みを浮かべる。しかし彼女は振り向きながら、やや明るすぎる笑みを浮かべていた。
「それは嬉しいけど。お詫びって何のこと?」
10年経ってもまだ怒っているのだろうか? 俺は当時、彼女を本当に傷つけてしまったのかもしれない。
「ハハ……キツイな」
腕まくりした俺は、贖罪の気持ちを胸に精魂込めてうまい珈琲を入れようと試みる。
豆を挽く音が静寂を破り、粉が細かくなるにつれて、香りが一層豊かに広がる。挽きたての珈琲粉をドリッパーにセットし、温めた湯を静かに注ぐ。お湯が粉の上を滑るように広がり、まるで生き物のように膨らむ。
立ち上る湯気とともに、深いアロマが空間を満たしていく至福。カップに注がれていく珈琲は、艶やかな色合いだった。最後の一滴まで丁寧に注いだ珈琲は、まるで一杯の芸術品だ。
しかしカップを受け取り、ゆっくりと傾けて口に含んだ彼女はたちまち細い眉を寄せた。
「……苦すぎる」
彼女は冷笑としか呼べないものを口元に漂わせて一言、断じた。
そんな馬鹿な。
俺は彼女からカップを受け取って自分でも口に含んだ。豊かな香りが立ち上る芳醇な味わい。舌が喜ぶとはこのことだ。
俺は眉を上げて先輩の顔を見つめた。彼女は今、別人のように暗い顔をしている。
「先輩?」
彼女の瞳は俺を見ているようで違う。どこか存在しない虚に気を取られているようだった。背筋を伝う冷たい汗を感じながら言葉も無く見つめていると、彼女はほとんど唇を動かさずに続けた。
「過去をなかったことにはできない」
***
その後、どうやって帰社したのか記憶になかった。後輩が俺を呼び止めて『高浜さん、顔がガリガリ君みたいな色になってますよ。そんな時は小説でも漫画でもとにかく創作がはかどりますよ』などとよく分からないことを言われたぐらいだった。
とにかく、彼女に何かあったに違いない。尋常な様子ではなかった。
その日は無理せず定時で帰宅したものの、家でくつろいでいても美咲先輩のことが頭から離れない。
そこで俺は次の週末を利用して、再び『珈琲 みさき』を訪れた。ちょっとしつこいかなとも思うが、とにかく、誰かが気にかけているという態度が彼女にとって何らかの救いになるかもしれない。
しかし、入り口のドアには『Closed』と書かれたプレートが掛かっていた。がっかりした気持ちと安堵の複雑な味が駆け巡る。一縷の望みをかけて中を覗き込もうとしたが、店内は暗く、美咲先輩の姿は無かった。
「関わらん方がエェぞ」
突然背後から声を掛けられ、心臓が止まりそうになる。勢いよく振り向くと、いつの間にか背中の曲がった小柄な老婆がポツンと道の向こうに佇んでいた。あまりにも突然の出現に何も言えずにいると、老婆は俺の顔を見て目を細め、皺の寄った唇をうごめかせた。
「ちじゃあ。あらわしい」
「はい?」
「あらわしい、あらわしい」
老婆は俺の声が聞こえているのかいないのか、ブツブツと首を振りながらどこかに歩き去っていく。俺はゾッとするものを感じた。けたたましい蝉の声がいやに目立ち、急に一人でここに立っているのがひどく忌まわしい。
俺はしばらくそこに立って息を整えた後、人影のないさびれた県道を離れる。黙々と歩き、駅前について多少人の気配を感じると、ようやく生きているような心地がした。
俺はポツンと立っている小さな文房具店に入り、適当につかんだボールペンを買いしなに店主に尋ねる。
「すみません。『珈琲 みさき』という店、定休日とかあるんですか?」
50代くらいの気難しそうな藪睨みの店主は、胡乱そうに俺を見る。
「さぁ……誰も行かんからな」
俺は戸惑い、お釣りを財布に戻す手を止めた。
「それはまた、何で」
店主は首を振った。
「数年前に妙なよそ者が住み着いて、勝手に店をやっとるんだ」
「待ってください。ここは彼女の故郷だと思っていたんですが。あの古民家はおばあさんから譲り受けたと聞きました」
「そんな訳ない。あの家は俺のばあさまが相続したのを、処分に困ってタダ同然に売ったんだ」
どういうことなんだ? なんで彼女は嘘を……?
「この辺であの女の言うことをまともに聞くやつはいないよ」
店主は犬を追い払うように手を振った。強い拒絶の空気に何も言えず、俺はすごすごと立ち去るより他なかった。
***
その後も俺は調査を続けた。『珈琲 みさき』の電話番号が分からなかったので彼女と直接連絡を取ることも出来ず、また閉店していてはかなわないので、事情を知っていそうな知り合いを当たる。
結果、大学時代の伝手をたどり、なんとか彼女の実家の電話番号を入手することに成功した。ある休日の午後、俺は緊張しながらスマホを耳に当てた。
『はい、磯崎です』
神経質そうな女性の声だった。俺は唾を飲み、姿勢を正す。
「突然すみません。私は美咲さんの大学時代の友人で、高浜と申します。失礼ですが美咲さんのお母様ですか……?」
数秒間沈黙が落ちたが、ついに『……えェ、そうです』と返事があった。心臓がバクバクとうるさく胸を叩き始める。
「先日、『珈琲 みさき』という店で娘さんと再会しまして」
言葉を切ってみたが、電話の向こうからかすかにため息をつくような音が響くだけだった。気まずく思いながらも、仕方なく続ける。
「様子がおかしかったので彼女に何があったのかと……」
『なぜお知りになりたいんです?』
淡々とした声の中に、深い諦念がにじんでいるようだった。俺はひりつくような緊張を感じ、唾を飲んだ。
「その。娘さんとは喧嘩別れして、それっきりだったので。今更ですが、何か力になれればと」
沈黙が痛い。耳に触れるディスプレイからほとんど物理的な重みを感じる。
もう一度、ため息が響いた。
『……美咲は大学を卒業した後、イタリアに向かう途中の飛行機で事故に遭いました』
事故だって?
彼女の姿を思い浮かべたが、特に重いケガの跡は見受けられなかった。思いもよらない事実だった。
『……ひどい事故でした。美咲は頭をひどく打って、障害が』
でも、彼女の様子は普通に見えたのに。
しかし、お世辞にもうまいとは言えない珈琲や彼女の様子を思い返すと、不穏な予感がみぞおちに溜まっていく。まさか、彼女は……?
『あの子は……細かい味が分からなくなって――』
『もう珈琲の味も分からない――』
『――そして、記憶がもう――』
『――気持ちが分かるのか?』
『ショックで、現実が何か――』
『――それが全てだったのに――』
『過去をなかったことにはできない』
***
気が付くと、自宅のベッドに横たわり、激しく胸を上下させていた。
手元を見ると、電話はすでに切れている。
目元が重く、触れると乾いた涙の跡がパラパラと落ちた。
それが真実だと言うのか?
まるで俺が呪いをかけたみたいだ。喧嘩別れした後、彼女が皮肉にも本当に珈琲の味が分からなくなったなんて。
そして今、彼女は幻想と現実の区別もつかず、あの珈琲店で来ない客をずっと待ちながら過ごしているのだろうか。
あの時、あんなことを言わなければ俺は彼女のそばに居て、事故の後遺症を乗り越える手伝いが出来たかもしれないのに。俺は一番の親友だった彼女を裏切り、忘れ、今までのうのうと過ごしてきたんだ。
言ったことを取り消すことはできない。
彼女が今までどんな気持ちで過ごし、そして今、過ごしているのかも分からなかった。
彼女が淹れてくれたあの雑味だらけの珈琲のように、ただ苦い後悔だけが舌先に残る。
***
数日後、覚悟を決めた俺は再び『珈琲 みさき』の前に立っていた。
『Open』の札が掛かっていることにホッとしつつ、扉を引き開ける。
「いらっしゃいませ」
笑顔で出迎えてくれた彼女に、俺は手に持っていた紙袋を差し出した。
「もし良かったら」
ずっしりと重いその紙袋の中には、俺がチョイスしたコーヒー豆が入っている。昔彼女が好きだったものだ。
彼女はそれを受け取ると、中を覗き込んで目元を和らげた。恥ずかしそうに笑う。
「ああ、業者さんですね。ごめんなさい、忘れっぽくて」
俺のことを覚えていないのか。
少しがっかりするが、まぁ、それでも構わない。何度でも自己紹介して初対面を繰り返せばいいんだ。
もう一人にはしない。これからは、できる限り彼女のそばにいるつもりだ。
「実は、私も珈琲を淹れるのが得意なんですよ。良かったら一緒にどうでしょう?」
美咲先輩は嬉しそうに優しく微笑んだ。
「それは嬉しいです! 私ももっと練習しないといけないと思ってるんですよ。練習しないとお客様に失礼ですもの。でも、美味しい珈琲を淹れるのは難しいですね」
「お気持ち分かります」
深く同意して頷くと、彼女の目元が緩み、線のように細くなっていく。
「まぁ、私の気持ちが分かるなんてさすがです」
そう口にする彼女の唇が、三日月のように歪んだ。
そこから先の記憶は無い。
※ちなみに、彼女は実は全て覚えているのでしょうか? どこまでが本当なのでしょうか? ご見解をお待ちしています!😊
最後までお読みいただき、ありがとうございます! あなたのあたたかい応援が励みです😊