心の病気は対話だけで解決できるもんでもないと思ってる
Yahoo!ニュースからいい記事を見つけました。ぜひ心の病気をお持ちの方は一読いただければと思います。
恐山の禅僧、南さんが心の病気に対しての考え方について語っています。
以下、上記記事の夏休み読書感想文です。今の僕に夏休みなんてないんだけどさ…。
まず、全体を通して仰ることはほぼ同意。この道を究めればここまで語ることができるのかとびっくりしました。
面白い表現されるなと思ったお話の部分。自己決定で生まれてきたわけじゃないという表現が凄く新鮮。今後パクらせていただきます(笑)
もちろん、前向きになるか後ろ向きになるかは人それぞれあって否定もされるべきでもないとは思いますが、人の生から人の考え方を導いてくるのが斬新でした。
これよなぁ。辛くても吐きだす相手がいない。いや、居たとしてもその人にまで迷惑をかけてしまうんじゃないかという恐れ。相手に迷惑をかけてしまうんじゃないかみたいな。
僕なんかはそれを超えてしまって、誰にでもメンヘラLINEを送りまくった結果、残ってくれた人もいるけど、多くの友達を失いまくった。すると加速度的に不安が沸きあがってきて、いよいよ自分はこの世から見捨てられたみたいな感情になりまして。LINEやTwitterのアカウントを消してみたり、突然「死にてえ」みたいな電話をしてみたりと無茶苦茶でした。
ちなみに僕から「死にてえ」って言われた友達に後日どう思ったって聞きました。
そしたら「本当に死ぬやつは電話もせずにある日突然死ぬ。だからきっとやずたかは死なない。やずたかは生きたいと思ってるからわざわざ電話をかけてきた。俺がやずたかにできることは正直なくて、そのとき俺は話を聞いただけ」との話でした。いいやつじゃん…
文章を読んでいただくと分かるんですが、SNSは「吐き場所」であって、対話ではない。よって心の問題解決にはならないという南さんの主張です。
これ自体はまさに仰るとおりでして、僕がnoteを始めた理由でした。今もあんまり変わってません。南さんが仰るSNSはXやFacebook、Instagramあたりを指してると思います。刺すか刺されるかのXや、(仮初であってもいい)映えを求めるインスタなんかに比べて、noteは毛色が違う感がありますけど、まあまあ大きく外れているところでもないかと。
ここ。これがあくまで個人的な考え方なんですが、僕とは違うと思ったところです。
南さんは「心の病気に対峙するためには、人と現実に会って対話をする必要がある。そして弱音を吐くことが必要だ。そのためにはちょっと距離感がある人を相手に選びなさい」との主張です。
けどね、ここは僕の考えと一致しない。何故なら僕はそれをやってきて、全然解決しなかったから(笑)
淡い関係。叔父や、中学校からの友人たちがまさにそれで、距離感もあるし、まあまあ僕のことを知っている。でも、病気をやらかして、僕がメンヘラ対応してたら、(叔父は諦めずに繋がってくれてますが)中学校の友達とは縁が全部切れました。今は誰とも連絡を取れません。
まず、弱音を吐いて解決がするのかって話です。南さんは弱音を吐いたうえで対話することで心を整えると言います。
でも僕は違った。弱音を吐いてもまず何も変わらない。加えて弱音の吐き先が実在する人だろうが、SNSだろうが、変わんなかったです。
そもそも南さんが仰る「淡い関係」がSNSと何が違うんだと思います。僕は淡い関係である相手に対して「死にたい」なんて言わないし、思い切っていったところで相手も相手で所詮僕とは深くもない「淡い関係」でしかなくて、ロクな返事なんて出来るはずないじゃないですか。
え、それってSNSの端っこで不満を叫ぶ一人壁打ちと何が違うの?むしろ、聞かされてる人の方がつらくねえかって思わざるを得ないです。
もう一つ。
僕の場合、うつに罹ってた時は対話なんてしたいと思ってませんでした。
とにかくこの苦しい今の自分を救ってもらう解がほしい、そのために何をすればいいのかという答え、もしくはもっというなら直接的な救いが欲しかったんだと思ってます。
すっごい喋ったもん。特に叔父とは凄く時間をかけたと思う。有難いです。でも叔父が2点において僕と決定的に違うところがありました。
叔父を否定するつもりはないです。単純に今までお互いが歩んできた人生の差だと思う。
僕は叔父と喋っていても何も変わらなかったし、解決も見いだせなかった。最終的には「遊びに来い」と言われても返事をしなくなってしまったこともあります。
なにより、最後には「とにかく頑張って耐えるんだ」と言われたときの脱力感たるや。いやもう、これ以上何を耐えるんだと。
対話というのはディスカッションであり、人の意見を交換することです。うつ病の人間にそんな体力なんてあるはずもなくて、とにかく今の辛い現状を述べるのが精いっぱい。あとは逃げ場所を探すしかない状況です。
だから僕は半年以上寝込んでたわけじゃないっすか。もう考えることさえも諦めてさ。これが最終的な僕の逃げ場所でした。そういう状況になるなかで人と対話しても僕は意味はそこまでないと思ってます。
人によって意見はあるでしょうが、僕が思う精神疾患への対処は、運動をしろとか、毎日正しい食生活をしろみたいな意見には否定的です。社会復帰には必要だけどね。
僕は、病気の原因をどう具体的にクリアするかを、自身の力もしくは他人の力借りてでも行うことしかないと思ってます。そのためのあくまで手段としてのひとつとして対話があるなら理解します。
他人からの意見をもらって何が変わるのか?同じことを繰り返し申し上げてしまい申し訳ないのですが、色んなひとに話をしても状況も環境も変わりません。
僕は叔父だけじゃない、友人にも何度も相談しました。
でも延々としゃべったあとに残ったものは何?結局自分がなんとかするしかないじゃんって僕は何度思ったか。所詮そんなもんです。だって相手だって僕のことを全て知ってるわけじゃないし、ましてや鬱みたいな病気に理解があるわけでもないし。
もちろん、他人と喋るなかで自分のマインドが切り替わったり、違う方向性を見出したりすることができるなら、それによって心の病気は解決に向かう可能性は十分あると思います。もしくはどこかで妥協点を見いだせるかどうかみたいなとこですかね。
それでも変わらないことだってあります。
僕の場合、友達と喋ってもただただ自分の辛さを聞いてもらうだけの状況で何がかわるのかっていう話でした。
結局なんも変わらない日常の中で、自ら決断も出来ず、辛い仕事に向かいながら、「昨日の会話は何だったんだろう」という憂鬱な気持ちになりました。なんか自分が相手に対して一方的な意見を押し付けただけのパワハラチックな話だけでしかない、その嫌な感情(むしろ申し訳なさ?)が残るだけでした。
ちなみに今の僕はマシになってきてるじゃん、それはどうなのっていう話があるかと思います。
いや、今の仕事とはさっさとサヨナラしようと決意したこと、あとは単純に問題となるコミュ障と物理的に距離が離れた、この2点で心が一旦落ち着いただけです。よってある程度妥協がついただけ。こういう解決案もありっちゃーありと考えてます。
それでもしゃーない、僕はそういう人生しか選択できなくなってしまったから。コレが以前と同じような状況になったら、絶対に再発すると思ってます。
ということで、対話は確かに心の病気の対策への一案ではあるけれども、それでも救われない人だっているだろう(主に僕とか)と思った、というのがこの記事への感想でした。
一点だけ南さんと僕とは異なる考えがありましたので、そこをフォーカスさせていただきましたが、全体的には「なるほど」の理解。
最後の言葉は中々しびれました。
恐れ入りました。
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