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ゆるく、ぜんぶ好き「はじめに」(エッセイ)

 推し、この言葉は完全に市民権を得た。個人的には宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」が芥川賞を受賞した事が幅広い世代への認知に繋がったと思う。あれから四年、メディアでも推し活は大きく取り上げられ、今や100円ショップにも推し活グッズが並んでいる。
 推し活だけでなく、推し事という言葉も出てきた。活動という言葉は任意の意味合いを感じられるが、仕事となると義務感が与えられる。
 私には推しがいるので無職ではない。しかし、推し具合はひどくゆるい。仕事に例えたら週五回、八時間働いている正社員には程遠い。実家の仕事を気が向いた時に手伝う店番小僧みたいなレベルで、働いていると言っていいか微妙なラインだ。
 推し事の対象はもはや人だけではない気がする。サウナやキャンプといった趣味も徹底的かつ本格的に楽しむことが良しとされている風潮だ。どんな趣味でもSNSを覗けば必ず有名なアカウントが一つはあるし、「マツコの知らない世界」「熱狂マニアさん!」「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」など、一芸に秀でた一般人が登場するテレビ番組はゴールデンタイムに放送される。
 誤解しないでほしいのだが、私はこの手の番組がけっこう好きだ。一つの事柄に時間やお金を惜しげもなく使う人々、その知識に感心し熱意に憧れ、ブッ飛んだ生き方に羨望の眼差しを送る。中高生の頃は漫画に夢中になっていたが、今の自分は一つのことに熱中できない。熱意が一瞬沸騰したとしても、すぐにお風呂の温度くらいの適温に落ち着いてしまうのだ。
 そんな自分が少し嫌になったこともあった。周りの友人を見ると、水泳、ヨガ、鉄道、ゲーム、映画、グルメ、観劇など皆がこれといった趣味を持っているように見えた。核となるものを持っていないことが何となく寂しいのだ。
 しかし、そんな寂しささえも長続きしなかった。バランスよく適度に生きるようになり二十余年、そんな自分もいいと思うようになった。のめり込まないということはリスクが少ないということだ。飽きた時や出来なくなった時の喪失感や戸惑い、金銭的な後悔も無い。お釈迦様も極端を避けるよう中庸を説いていたのだし。
 私が中高生の頃はオタクは蔑まれる存在だったのに、今やオタクである方が望ましいようになるとは皮肉なものだ。いつも肩身が狭い方にいる。「一億総オタク社会」への抵抗として、広く浅い私の推し事について書いてみることにした。
 

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