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打ち上げ花火、上から見るか下から見るか

おはようございます。

夜灯です。

全く変換に出てこない名前なので、いつもポチポチ打ってます。笑

今回は自己肯定感のお話です。

(いつもと少し文体変えています。)


私よりも遥かに出来の良い知り合いの人が「自分はいつも周回遅れで…」と嘆いていて、それが少し不思議な気もするけど解るなと思っていた。

しかし、その判然としなかった理解が私の中でハッキリとした瞬間があった。

私も世間的には出来る部類に入るのだろうが、自覚としてそうはあまり思えない。

世間を通した自認を自己の内部から押し寄せてくる自認が凌駕し、「今のままではダメ」と烙印を押す。

君の1番の味方でいてあげるべきは君なのに。


恐らく、努力すればする程そういった思考の落とし穴にハマっていくのだろう。

上に行けば行くほど、手慣らしの問題は転がっていないし、自分と小競り合いをできるような相手はいない。

多種多様な分野で輝いている人ばかりだ。

景色は原っぱから突然拓けた海のようになる。

これからは寝っ転がってはいられない。

銛を持って突き進んでいくしかないのだ。


私もまた休職期間が半年を過ぎ、焦りがある。

休職開始後直ぐの病的とも言える焦りではないので、かなり身体には休んでもらえているようで良かった。

ただ、将来を描き直しているがなかなか見定まらないことや、どんどん社歴という点で遅れを取っていることに対する焦燥感がぼんやり浮かんでいる。

しかし、この日々に充実感を感じているのもまた事実で、空虚な日々も多かったがそれもまた必要な日々だったと思うし、空虚なはずなのに何故か充実していると感じるのだ。

これは何とも形容し難い感覚なのだけれど。


昔、「打ち上げ花火下から見るか?横から見るか?」という作品が流行っていた。

結局、パラレルワールドもの?という位の事しか知らないが、ずっと気になっていた。

この手の人の興味関心を一瞬にして捉え、一身に受けるようなタイトルが思いつくこと自体が才能だと思う。

作品は知らないものの、タイトルと本の表紙だったかのイラストがずっと記憶の片隅を占拠している。

花火は下から見ても横から見ても、球体だから同じなのだろうか?

思うに、花火は散っていくもの故、散り様を下から見上げたのと横から見下ろしたのでは全く異なるだろう。

「私に降りかかる光」と「手元を離れ降り注いでいく光」とでは。


何故、自己肯定感の話でこの作品の話を取り上げたのかと言うと、自己肯定感もまた見る視点によって変わってくるからだ。当たり前だけれども。

自分より下(敢えて分かりやすく表現すると)の人達は無視して上の人達ばかり見ていたら、いつだって自分は下になってしまって自分を適切に認められない。

一方で、自分より下の人達ばかり見ていると、幸せに生きられるかもしれないが、分不相応な自己肯定感を振りかざしてしまうこともあるだろう。

詰まるところ、大事なのは複数視点から自己を捉えて、それらを否定しないバランス感覚だなと思う。

自分より上の人達を見ては「頑張るぞ」と意気込み、成長できたらきちんと自分を褒める。落ち込んだら、世間全体を捉えて「でもここまで頑張ってこれたよね」と認めて、落ち込みすぎないようにする。

自分の考えすぎてしまうところが嫌いという訳ではないし、同じように考えすぎてしまう人に感じる独特の味が私は好きだが、やはり辛くなる前にそういうバランス感覚を思い出すようにしたい。

そう考えるのと同時に、そういった人を見かけた時にあまり苦しまないでほしいと願う。


そんな方に届くようにこの記事を置いておきます。

では、素敵な夜を。

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