SPECIAL MONOLOGUE “太陽と深海”
-prologue [Out of the DEEP SEA] -
[回想]
あの日から、どれだけの時をここで重ねてきただろう——。
具体的に “あの日” を明示しようとすると枚挙に暇がないが、これまでlivedoor Blogやnoteにて幾度も書き連ねてきたように、2011年に始まり2012年の夏にかけての中学生前半にあたる期間は私の人生における黄金期であり、紛れもない栄光の日々(=“GLORY DAYS”)である。
たくさんの大切な仲間とともにその時代を過ごせたことは一生涯の誇りであり、その後自らに襲い来る数々の艱難に堪え忍び、乗り越えることができたのも当時の思い出が私を支えてくれたから…といっても決して大袈裟ではないだろう。
「SPECIAL MONOLOGUE “太陽と深海”」と題したこのエッセイは、そんな輝かしい日々の記憶を今一度浮かび上がらせ、改めて記録として克明に残しておきたいと思い立ったことからじっくりと書き上げたものである。
私が音楽鑑賞に本格的にのめり込む直前の時期にして、人生の大きな岐路を前に青春を謳歌した若き日の物語をぜひご覧ください。
2023年4月 やたろ
#01. 君への主題歌
[2011/02 中学入試を終えて]
2011年2月上旬。前々年より準備を進め、複数の中高一貫校に挑んだ入学試験を無事に終えた私は、小学生としての最後の日々を噛みしめるように過ごしていた。当時クラスで連載していた自作漫画の作成に勤しんだり、寒空の下で鬼ごっこを楽しむなど、勉強が一段落ついて無邪気な日々が戻ってきた喜びに浸る一方で、一貫校に進学するためこの春をもって6年間を共にした級友たちと離れなくてはならない寂しさも募った。
そんな中、大好きなコブクロのニューシングル『Blue Bird』がリリースされる。新しい季節への期待や不安が投影されたような、表題曲の優しいメロディーとスケール感のあるサウンドにとても背中を押された。
それに留まらず、C/Wの「君への主題歌」はより心を動かされた楽曲である。人生を一本の映画に例えた歌詞に、ここまで自分を育ててくれた家族やお世話になった小学校・塾の友達と先生方の顔や、その思い出が走馬灯のように浮かんできて、たまらない気持ちになったのだ。今もなお、私の人生の主題歌はきっとこの曲なのだろうなと感じている。
ところが、そんな感慨に浸る間もなく日本を揺るがす大災害が発生する。
#02. 友達の唄
[2011/03 東日本大震災]
3月11日。小学校での午後の授業中にその瞬間は訪れた。完成間近だった図工の作品を仕上げている最中、ズドンと大きな揺れが校舎に響いた。そのままジェットコースターに乗っているかのような気持ちの悪い揺れが続き、咄嗟に潜った机の下で皆と不安を共有したが、クラスメイトの皆は案外冷静なものでとても頼もしかったと記憶している。関東大震災がついに来てしまったのかという私の予想とは裏腹に、なんと震源は東北だという。只事ではない。
すぐに校庭に避難したのち、集団下校して家に着くと停電していて水道と電気が使えない。両親が湯船に溜めてくれていた水で一晩を凌げると見越し、すぐさま近所のコンビニで食料を確保し、車のアナログテレビで被災地の惨状を目の当たりにすることとなった。
その日の混沌とした空気感、灯りのつかない夕暮れのマンションの不気味な佇まい、まだ寒い3月に寝袋にくるまって過ごした一晩…一生忘れられない出来事である。
暗がりの中、地震の情報が伝えられる防災ラジオから不意に流れてきたのはBUMP OF CHICKENの新曲「友達の唄」だった。なんだか聴き入ってしまい、曲が終わる頃には身震いしていた。《信じたままで 会えないままで どんどん僕は大人になる それでも君と笑っているよ ずっと友達でしょう》というフレーズから、遠き被災者の心情を想起してしまうだけでなく、間もなく卒業を控える私の心境にも不思議と重なり、忘れられない1曲となった。
その翌週くらいに別のラジオからコブクロの「YELL~エール~」が流れてきた記憶や、良くも悪くも強烈な印象として刻まれたACジャパンの数々のCMなどもセットで思い出される。
#03. 旅立ちの日に
[2011/03 小学校卒業]
震災の傷痕も生々しい3月下旬、とうとう小学校の卒業式の日がやってきた。地震が発生して以降、楽しみにしていた給食がストップし、余震に怯えながらの毎日ではあったが皆と過ごす最後の日々を刻んだ。
卒業式当日は、連載漫画の最終回をコピーしてクラスの皆に感謝の気持ちを込めて配布したのだが、その際にクラスメイトのお母さんが私のもとに駆け寄ってきて「やたろ君ありがとう!!」と握手してくださり…忘れられない一幕だ。
地震の影響も最小限に恙無く行われた卒業式で合唱した「旅立ちの日に」の感動も然り、6年間の重みと感謝を存分に感じられ、自らの “旅立ち” をも後押ししてくれる最高の1日となった。
そこから数年間は地元の夏祭りで級友たちと年に一度のペースで再会したほか、一部の友人とは今も深い交流が続いているが、いつかまた皆と会える機会があることを願う。
#04. あとひとつ
[2011/04~06 中学校入学, 体育祭]
新年度に晴れて中高一貫校へ進学した私は、中学受験塾時代の仲間たちとの再会や現在まで付き合いのある新たな友人たちとの出逢いに恵まれ、順風満帆のスタートを切った。中学受験時代の教訓から体力(持久力)の重要性を強く意識したことと、スイミングスクールの経験を有していたため水泳の部活動を迷わず選び、5月に入部した。
土曜日限定の学食、ピロティの自販機、先輩と後輩の概念、中間/期末試験、文化祭、体育祭 etc. 何もかもが私にとって新しいことだらけだったので、当然ながら不安もあり、学校生活に慣れるまでにそれなりの時間を要したことを覚えているが、その分ワクワク感とやる気も大いに湧いた。
6月の文化祭は基本的に高校生がホストであり、中学生…特に我々1年生は出し物が無いためクラスメイトの皆とともにひたすら校内を回り、飲食やアトラクションを楽しむ形で案外あっさりと終わった。
しかし、それ以上に印象的なのが同月半ばの体育祭だ。校庭での入念な練習期間を経て初夏の太陽の下、埼玉県某所のグラウンドを貸し切って丸1日行われた一大イベントだった。AAA「PARADISE」に乗せた集団演技(ダンス)、クラス対抗の選択競技である輪投げと縄跳びに全力を懸け、皆で団結し好成績で終えられた時の達成感。プログラム終盤、日も暮れかかった空に鮮やかに映えたFUNKY MONKEY BABYS「あとひとつ」の旋律。入学して早々、鮮烈な思い出として心に深く刻まれた。
体育祭明けの登校日の昼、担任の先生の粋な計らいでクラス全員に「お前らよく頑張った!」とアイスをご馳走してくれたことも嬉しいサプライズだった。そうして得たパワーでもって、我々は初めての期末試験を駆け抜けた。気づけば梅雨が明け、夏休みが迫っていた。
#05. 夏への扉 -The Door Into Summer-
[2011/05~08 中学1年・夏の記憶]
少し遡り、5月。初夏の匂いに包まれたプール棟では、初めての大会に向けた部活の練習が行われた。我が水泳部には、某有名選手のライバルと謳われた元日本記録保持者の顧問のもと、全国大会にも出場した超人的な先輩が居たほか、私たち新入部員も大会にまで出場するほどの熟練者として入部した者、かつての経験はあるがブランクがある者、まったくの初心者…といった具合にスタート地点は各々で異なった。
最初はこれが厳しく、いくらコース別とはいえ練習についていくことすらも容易ではなかったが、毎日のメニューを真剣にこなしていく中で次第に慣れていった。
さいたま市で行われた初めての大会は大変に緊張したが、大舞台で競技を行う感覚も徐々に身に付いていき、これがやがて楽しく達成感のあるものへと変わってゆくこととなる。
先輩との上下関係の中に生まれる信頼関係や、後にも先にもないほどに個性豊かな11人の男子水泳部員の絆も、こうして練習や大会を重ねる毎に強固なものになった。
一方プライベートでは、カーステレオから流れる山下達郎『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』をBGMに、家族と一緒にホテルニューオータニのプールで思い切り遊ばせてもらったり、埼玉県は熊谷にある「ホテルヘリテイジ」で夕陽を眺めながら温泉に浸かったり、後に恒例となる羽田空港での旅客機ウォッチングを楽しんだりとこちらも充実した夏休みを過ごすことができた。
#06. あの太陽が、この世界を照らし続けるように。
[2011/08/21 KOBUKURO LIVE TOUR 2011 “あの太陽が、この世界を照らし続けるように。” at さいたまスーパーアリーナ]
夏休みも終盤に差し掛かった8月21日。この日は家族とともに、待ちに待ったコブクロのライブツアーを鑑賞するためにさいたまスーパーアリーナへと足を運んだ。
曇天の日曜日、開場時間までさいたま新都心駅前のけやきひろばにてライブに向けた話題に花が咲き、私は私で中学校の友人たちにガラケーで他愛もないメールを送ったりしながら時間を潰す。この何気ない時間の尊さは後になってから痛感するものである。
夕方、いざ会場に入り紙チケットに記載された「アリーナ A4ブロック」を辿って座席を探すと、なんとステージと至近距離の前方席だったのだ(今にしてみれば一目瞭然で迷うことすらもないのだが…)。
「本当にこの席でいいの!?」と興奮気味に呟く我々に、「その席でいいんですよ!!」と声を掛けてくださったコブクロファンの方の優しい眼差しを一生忘れない。
ライブ本編については下記ブログの記事に詳しいためここでは割愛するが、本公演は私にとっての生涯のベストライブであり、ありふれた言い回しをすれば “伝説の夜” だ。
この日に感じたさまざまな想い -とても一言では表せないような深淵なる感動- が今も心の奥深くに残り続けているからこそきっと、後年に他のどんな音楽を山のように聴いても、いつまで経っても一番大切でそれゆえに縋ってしまう記憶なのだろう。
1週間後、コブクロはツアーファイナルの札幌の地で活動休止を宣言した。もう歌えないかもしれない——。メンバーの間ではそんな危機感もあったというが、未熟な時分には事の重大さを認識することはできなかった。
私がこれを最後に長きに渡りライブ鑑賞から離れてしまったこともそうだが、小渕さんやサポートの桜井正宏さんを襲い、私自身もやがて味わうことになるジストニアの病魔という背景が、今となればこのライブを伝説たらしめているところは少なからずあるのかもしれない。
#07. ボーイズ・オン・ザ・ラン
[2011/08 校外学習 at 箱根]
8月23日、伝説的なコブクロのライブから2日後に私は中学校の校外学習で箱根を訪れた。正直なところ、あのライブで感じたもの -衝撃にも似た言葉を失うほどの圧倒的な感覚- があまりにも大きすぎてこのイベントに関する記憶がやや薄い。道中のバスでカラオケやアニメ映画の視聴などのお楽しみが用意されたり、夜には宿泊施設にてクラス全員で担任の先生とともにアイスクリームを食べながら雑談する至福の時間を過ごせたことなど、本分以外での思い出が印象的なのも確かだ。ただし事後学習として、2023年現在の大好きなTV番組『ブラタモリ』にも通ずるような地質学的アプローチでの箱根の研究を班の皆とともに行い、発表資料のうち私の手掛けたまとめの文章を班の皆や先生に褒めてもらえたこと、これがとびきり嬉しかった。
また脱線話としては、校外学習から帰ってきた日にJR上尾駅前の「ぎょうざの満洲」で家族とともにいただいた極上の餃子定食の味や、駅直結の「丸広百貨店」の書店にて購入した重松清氏の名作小説『送り火』をきっかけに芽生えたノスタルジーという概念など、このときに得た感動が現在の生活の一部を形作っているというのも些細なことながら、見逃せないトピックである。
#08. キミがいる
[2011/10 水上高原ホテル200]
2011年10月初頭、私たち家族/親戚一同は過去最大級のビッグイベントを群馬県の「水上高原ホテル200」にて敢行した。
こうした規模での旅行は2007年に祖父母の銀婚式を神奈川県の「観音崎京急ホテル」で行って以来で、1泊2日のリゾートホテル滞在という点も共通した部分だ。
この「水上高原ホテル200」は高原にある避暑地として豊富なアクティビティを楽しめる充実した施設が素晴らしく、ウィンターシーズンはスキーリゾートに様変わりする。
当日、関越自動車道を降りて山道を往くと堂々たるホテル棟が目印となり、その駐車場で全員が集合した。冬季限定で稼動する暖炉や木目調のシックな色合いが随所に目立つホテル内だが、ファミリー層をターゲットとした『ポケットモンスター』のキャラクターが至るところに見られるのも面白い。
チェックイン後、白樺の林が窓越しに見えるダイニングでビュッフェ形式の豪華なディナー、ガラス越しに壮大な山々を望む大規模な温泉、PCが完備されたライブラリーなどホテルの施設を隅々まで堪能させていただいたが、中学1年生の私を虜にするには充分すぎるほどのワクワク感を醸し出す、まさに魅惑のホテルである。
翌日も日が暮れるまでテニスやゴルフ、ツリートレッキングといった刺激的なアクティビティの数々を皆で楽しめたことは一生涯の思い出となったが、この日の帰りにはさらなる音楽体験が私を待ち受けていた。
夜の関越自動車道を走行中、ふいにカーステレオから流れてきたいきものがかりの「キミがいる」。高速沿いのラブホのネオンが目立つ夜の関越道というシチュエーションで、管弦アレンジがゴージャスでいて仄かに寂しげな余韻を残すこの曲にとてつもない衝撃を受け、釘付けとなってしまったのだ。
なぜこのとき惹かれたのかは未だにわからないが、10年以上経った今も強烈に記憶に残っているだけあってとてつもない音楽体験だったことは確かだろう。
この瞬間に得た感覚は、夜にロマンチックな音楽を聴く習慣であるとか、華やかでノスタルジックな曲を好んだりする原点となり、現在の音楽嗜好にも大きく結び付いている。
多感な中学時代の記憶の中でも、屈指の衝撃度を誇る印象深いひとときがここにあったのである。
#09. 光の誓いが聴こえた日
[2011/10~11 中学1年・秋の記憶]
水上高原の旅行から帰ってきてすぐに、私は今シーズン最後となる水泳部の大会を控えていた。中学1年の秋というと、練習が次第にレベルアップしていく中で自らのタイムはなかなか縮まらず、気付けば50m自由形では部内でも最下位に近い成績となってしまったため、内心穏やかではなかった。
心優しい先輩に悩みを打ち明けると「やたろはこの先まだまだ伸びるよ」と言っていただいたことがとても励みになったが、それでも部活を続けることが少しイヤになりかけた時期でもあったため、大会の記録も記憶も決して良いものではなかった。そんな時、コブクロの「光の誓いが聴こえた日」に救われた。
力強いロックサウンドと2人の歌声、そして全編を引用したくなるような歌詞のメッセージ性。練習や大会の当日、買ってもらったばかりのWALKMANでこの曲を聴き、思わず足がすくんでしまうような緊張が少しずつほぐれていく自分に気付く。私はこの曲のおかげで水泳部を継続することができたのだ。
一方、学業のほうは非常に充実していたといえる。今さら自慢するつもりも無いのだが、定期試験や模試では常にクラス内で指折り上位の成績をキープし、絵を描くことが好きだったため美術の授業でも担当の先生に褒めていただけるほどの作品を残すことができた。
合唱コンクールで皆と歌った「Tomorrow」もひときわ印象的で、文字通り明日への希望に満ち溢れた当時の象徴的な1曲として私の心に刻み込まれている。
#10. アイデンティティ
[2011/10~2012/03 “イイタイコトをつかむ!” ]
ここまで書いてきたように中学1年の時の記憶というのは甚だ色濃いものだが、とりわけ学業面において印象的な出来事となると、この項で記す「イイタイコトをつかむ!」が真っ先に思い起こされる。これは当時の国語の授業に端を発するエピソードだ。
授業では不定期でプロジェクターが用いられ、不意にさまざまなJ-ROCKの楽曲のMVを流すと、その歌詞が載ったプリントを配布し我々生徒に要旨(“イイタイコト”)を纏めさせる…というなかなかにぶっ飛んだ内容である。
無類のロックファンである担当教師の手で独自に企画されたアクティブ・ラーニングの一環…いや、ある種のお楽しみコーナーという方が正確かもしれない。
だが侮ってはいけない。この企画でサカナクションなどのバンドを知った我々にとっては、休み時間に皆でふざけながら「アイデンティティ」や「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」を歌って盛り上がるなど、クラスのさらなる結束にも繋がるほどの一大出来事だったのだ。
そんな中学1年の終盤には、“イイタイコト” の集大成として1人ずつ自分の好きな邦楽を選んで要約発表せよ…という課題が出された。クラスの面々が嵐やAKB48、いきものがかり、サカナクションなどの歌詞を吟味し発表する中で、私はコブクロの中でも一際マイナーな「この指とまれ!」という楽曲をセレクト。発表中に教室で流したこの曲にはなかなかの反響があり、中学時代を通じて “やたろといえばコブクロ” というイメージの定着や、現在まで付き合いのある親友と互いの好きな曲を一緒に聴き合うなど、同級生の皆と楽しみを共有できたことがとても嬉しかった。
また余談ではあるが、私が同時期より音楽を本格的に聴くようになった一因がこの授業にあるということはもはや言うまでもないだろう。
#11. 心に笑みを
[2011/11~12 中学1年・冬の記憶]
入学から7ヶ月が過ぎると、それまでのスランプが嘘のように水泳の部活に身が入るようになり、自ら取り組む練習量に比例してメニューをこなす体力・技術を物にしていった。年末は大会や記録会が無かったので具体的な数値として実感するのは少し後の話になるが、ある時を境に練習中にバテることが少なくなり、着実に向上しつつあった腕力・脚力でもってグイグイと泳ぎ進められる自分に気付いていた。
練習が楽しくて仕方がない。泳ぐのが気持ちいい-- そう、この感覚だよ。これこそがキツい部活を頑張れる原動力であり、続けていく楽しみなんだよな。
この時に得たものとは-。地道な努力が形になって表れるというありふれた文言を自ら体現できた自信であり、日々の練習がもたらした持久力と根性、そして何よりプール棟で過ごした部員たちとの得難い思い出だ。
思い出というものはどうしても脳内で美化されがちなところはあるが、この頃の私は誇張なしにほとんど幸せな記憶しか無かったのではないだろうか。
- 遅くまで続いた部活動の帰り、JR大宮駅まで母と遊びに来ていた祖母が迎えに来てくれたこと。
- バスケットボールの球技大会ではディフェンスでチームに貢献し、小学校時代のトラウマを払拭できたこと。
- マラソン大会で訪れた指扇にて、走りながら思わず息を呑んだ「大宮レパーズグランド」の絶景。
- 冬休みには自主練…という名の遊びで東京体育館の温水プールにて部員の皆とともに泳ぎ、温泉とサウナに入り、帰りに新宿のマクドナルドでお昼を食べたこと。
- 寒空の下、皆と別れた帰り道で缶コーヒーを飲みながら1人で聴いたコブクロの曲。
ここからの半年ほどは、勉強も部活も学校生活もプライベートも、何から何まで毎日が楽しくて仕方なかった。それは環境がそうさせたのか、あるいは自ら切り拓いた世界だったのか。どちらにせよ、生涯の財産としてこの先もずっと心に残り続けていく記憶であることは疑いようがない。
#12. Last Christmas
[2011/12 クリスマスの思い出]
2011年12月下旬、待ちに待ったクリスマスシーズン。私は幼少期から現在に至るまで、1年間のうちで最も好きなイベントのひとつがクリスマスなのだが、特にこの2011年末のワクワク感たるや尋常ではなかった。
まず、冬休みに入る直前の英語の授業ではまたもポピュラー音楽を題材とした特別企画が用意された。それは洋楽ポップスの名曲を和訳してみようというもので、クラスメイトの一人が「英語版 “イイタイコト”」と形容していたのを今も覚えている。題材はBackstreet Boys「I Want It That Way」とWham!「Last Christmas」だったと記憶しているが、比較的平易な歌詞とはいえ歌のニュアンスはこれまでに習ってきた英文法と異なる要素も多いと学び、楽曲とともに非常に印象深い授業回となった。このときクラスメイトとも洋楽の話題で盛り上がり、私がBilly Joelを聴いて育った旨を話すと、友人たちからは口々にQueenやMichael Jackson、The Beatlesなどの名前が挙がり、今となればとても贅沢な会話が繰り広げられていたことを懐かしく思う。
程なく中学校が冬休みに入り、クラスの皆としばらく会えないことに名残惜しい気持ちはあったが、待ちに待ったクリスマスは例年よりも特別感を増して私たちの前に現れた。12月24,25日の1泊2日で、家族で羽田空港に滞在しようというアイディアが実現したのだ。空港第2ターミナルに所在する「羽田エクセルホテル東急」に泊まり、そこを拠点にショッピングやグルメ、航空機ウォッチングを心ゆくまで楽しもうという趣旨であった。たかが空港、されど空港であり、宿泊という手段を用いるだけで羽田をこんなに隅々まで楽しみ尽くせるのか…と家族揃って満悦至極。以後、断続的とはいえ1泊2日での羽田滞在が我が家の恒例行事となったことがその衝撃度を物語る。展望デッキにて就航したばかりのボーイング787をお目にかかれたことも、佐藤直紀の名曲「Departure」を空港職員による生演奏で聴けたことも、家族揃っていただいた「たか福」の極上のすき焼きの味も、すべて私の中に新鮮に刻み込まれている。かねてより飛行機が好きだった私の希望を叶えてくれ、思い出という最高のクリスマスプレゼントを届けてくれた親には感謝しかない。
#13. 石コロDays
[2012/01~03 中学1年終盤の記憶]
年明け早々、中学校の入試期間に伴う連休を利用して私たち家族は海外へ飛んだ。サイパンへの弾丸旅行である。母が忙しい日々の合間を縫って計画してくれて、直ぐにスケジュールが決まったのだが、これが新鮮味に溢れた刺激的な旅でとても楽しかった。ハワイやグアムに比肩するリゾート地とは言い難いが、成田空港からの久しぶりの飛行機搭乗、現地のローカルな雰囲気、海辺の煌めきや不気味なほどの満天の星空、アメリカでありながら日本統治時代の面影が残るオリエンタルな雰囲気など、非常に趣のある景色を堪能できた4日間だったのだ。最も多感な時期になかなか他では味わえない海外旅行を経験できたことは、後年思い返すほどに貴重だと感じられる。
翌月には前述の「水上高原ホテル200」を家族・親戚で再訪し、久しぶりのスキーに精を出したことも思い出深いが、JR上毛高原駅からホテルまでのシャトルバスの車窓から眺めた雪景色は、私の原風景のひとつと言っても差し支えないほど心深くに焼き付いたものだった。このホテルもこれを最後に10年以上訪れていないため、願わくばまたいつか行ってみたいものである。
スキーから帰ってきた翌週、私は久々となる水泳部の記録会を控えていた。先述のように練習の積み重ねによる体力と技術の向上を実感していたため、その成果を確かめられる日が楽しみで仕方なかった。結果的に競技中は緊張も少なく、50m自由形で自己ベストタイムを更新できた時の喜びは今も忘れられない。顧問やコーチからも思わず「おおっ」と声が漏れ、同学年の11人中ほぼ最下位だった記録はその真ん中辺りまで伸ばすことができたのだ。これによりますます日々の練習にも燃え、私の水泳部時代のピークが訪れることとなった。
学業も上々で、とても楽しかった中学1年のフィナーレに担任から「頑張っているなぁ、先生は嬉しいよ!」と文武両道を体現できた私の1年間をしみじみと称えていただいた時、涙が出そうになったのはここだけの話である。
また余談となるが、春休みには水泳部のメンバーでカラオケに行く機会があり、Mr.Childrenの「HANABI」を歌う私の姿を盗撮(?)し部内に広めた友人がいたのだが、そのおかげで「やたろ君、歌上手いんだね〜」と女子の先輩に褒めてもらえたのも嬉しい思い出だ。
かくして、大充実の中学1年次は最高潮に達したまま幕を閉じた。
#14. Yesterday and Tomorrow
[2012/04~07 中学2年の記憶]
晴れて中学2年に進級した私は、前年度の好成績が認められて特進クラスへと上がることができた。担任はなんと水泳部で常々お世話になっている顧問であり、正直なところ緊張感も強かったのだが、あたたかな眼差しで私の学業と部活動をとてもよく見ていただいたことに今でも感謝の念が尽きない。新たなクラスには顔馴染みの友人がほぼおらず、勉強も一気にレベルアップしたことでのし掛かる焦燥感とプレッシャーは相当なものだったが、しばらくは試行錯誤しつつも楽しい日々を送れていた。この年度において印象に残っているトピックはいくつも存在するが、やはり真っ先に挙がるのは初夏の学園祭だ。
まず、トップバッターとなる文化祭は合唱コンクールも兼ねて開催された。練習を重ねてきた課題曲「この地球のどこかで」の合唱後、担任兼顧問による労いでクラス全員にジュースをご馳走していただいたことが昨日のことのように思い出される。またこの日は中1からの親友が結成したバンドによるライブも行われたが、当日のステージを観たのはもちろん、親友の計らいで練習時にスタジオに誘ってくれて候補曲やリハーサルの様子を垣間見ることができた。彼とはつい先日(2023年4月某日)も会って長々とお話しさせてもらったが、やはりこの当時の思い出話で持ち切りになることが何よりも嬉しいなと感じる。
続く体育祭でのエピソードはというと、選択制のクラス対抗種目として2年連続で担当した障害物競走(輪投げ)が印象深い。当日、偶然のいたずらにより水泳部の仲間たちと競うというプレッシャー極まる状況下で、一発で投輪を決めてクラスの得点に貢献すると、担当兼顧問が駆け寄ってきて褒めてくださったことが何よりも忘れられない思い出である。直後に集団演技で踊った嵐「ワイルド アット ハート」もその高揚感に比例するかのように、楽しく爽快感に溢れた一幕となり、大盛況のまま中学2年の学園祭が幕を下ろした。中学1年次や部活の親友たちと雑談しながら帰路につき、心地よい疲れに浸りながらその足で地元の夏祭りに参加したのも鮮やかな記憶として残っており、再会した小学校時代の盟友たちや初恋の人と過ごすひとときもまた私にとっての青春の1ページだ。
さらにしばらくすると1学期の授業が終わり、7月下旬に京都・奈良にて敢行された大規模な校外学習をもって、私個人としての中学生活の集大成を迎えることとなる。ようやくクラスメイトたちと仲良くなったタイミングで、未踏の地であった京都や奈良を班行動で観光するという行程そのものが実に新鮮な経験であり、至る所で別の班の友人たちと遭遇し時間を共にするのも面白かった。
この校外学習は一生モノというべき刺激的なアクティブ・ラーニングだったことには違いないが、新年度より次第にレベルアップした勉強や部活動、友人の少ない新たな環境…といった数々のストレス因子は徐々に私の心身へ負荷を掛けていき、この一大イベントを終えると何かが燃え尽きたかのようにあらゆる物事へ向かう気力が消え失せた。
-epilogue [Welcome to the DEEP SEA]-
[回想 Ⅱ]
2012年9月下旬。いつものように授業を終え、疲れた身体で部活へ向かおうとする私を、激しい頭痛が襲った。
担任兼顧問には久しぶりに部活を欠席する旨をお伝えし、帰宅するとそのまま倒れ込むように眠りについた。
翌朝。どうやっても起きられない。この日は仕方なく学校を休んだが、何日経ってもなにもする気力が湧かず、昏々と眠ることしかできなくなってしまったのだ。
2週間が経ち、久しぶりに学校へ行けるようになるも1日居続けるエネルギーが無い。
数週間前まで毎日通学していたのが嘘のような疲労感に打ちのめされ、病院に通いながら登校と欠席を繰り返す日々が2年近くも続く。
高校1年の秋に適応障害と診断され、翌2015年3月には4年間お世話になった中高一貫校を中退せざるを得なくなった。
悲しい。悔しい。孤独だ。やっと治療に専念できる。いろんな感情が渦巻いたが、大学入試という大きな壁が立ちはだかる中では歩みを止めることが許されなかった。
闘病しながらほとんど機能していない脳みそで勉強に向かう日々は、何年にもわたってこれまでに味わったことのない絶望感に覆い尽くされていった。
時間の経過とともに適応障害は治癒したが、ようやく大学に入学できたのは3年間浪人した末の2020年だった。
正直、コロナ禍の閉塞感も相まって心も身体もボロボロだった。でもこれからの日々のために前を向こうと決め、新たな一歩を踏み出した。
bonus:四半世紀へのエントランス
[現在、そして未来へと]
2023年4月4日。大学4年次の始業を控え、このエッセイを書き終えようとしている私には、25歳になる今年のうちにどうしても成し遂げたいことがある。
『 “四半世紀へのエントランス” を掲げ、これまでお世話になった人たちと自分との25年間を共有したい』
何ともささやかな事柄だが、私は中2の秋に体調を崩してから今に至るまで、とにかく沢山の仲間たちに支えられてきた。
それは家族や友人、恩師、先輩、Twitterのフォロワーの皆さまに至るまで、本当にさまざまな人たちだ。
全ての方に一生の恩を感じている。
そんな私の歴史に欠かせない皆とともに、これからも楽しく人生を歩んでいきたい。私の抱く願いはそれだけなのだ。
この先もきっと平坦な日々ではないだろう。
それでもここまで苦汁を味わいながらも鍛えられてきた自らの心身を信じて、悠々と乗り越えていけるような自然体の毎日を送っていけたら--。
この言葉を絞り出すためには、一度これまでの記憶を総ざらいする必要があったのだ。
この超大作エッセイは、こうして再び自分が前を向くために記したようなものといっても過言ではない。
ひたすら長い上に全体を通してイイタイコトがまとまらない駄文となってしまいましたが、ここまで読んでくださった全ての皆さまに今一度感謝を申し上げたいと思います。
2023年4月4日 やたろ
(完)