見出し画像

スノードーム・テラリウム(公募落ち作品)


 僕はその時、まだ大学の修士の研究生でした。僕は、教授に連れられ、二人で、最近連絡が取れないという教授のご友人の研究者の元に、ご健在であるか確認するために伺いました。辿り着いた場所は、海辺の、断崖の上の研究所でした。ご友人は、教授より大分若い、学派の後輩に当たる方で、僕の教授が准教授になる頃までは、同じ研究室で互いに切磋琢磨しておられたそうです。

「さて」

 教授は立ち止まり、目の前に聳える建物を眺めて呟きました。このご友人のいらっしゃるという建物は、植物園の温室のように、透明なアクリル板で全体が覆われていて、中に育つ緑の植物たちが透けて見えていました。

 教授は、建物の前で立ち止まった後、何の前触れもなしに、温室の扉へと進んでいきました。
「教授」
 僕は、とりあえず玄関のチャイムを押して、教授の側へ駆け寄りました。教授は、すでに扉に手を掛けています。

「おや。」

 教授が取っ手を引くと、扉は簡単に横に開きました。

「鈴木君、邪魔するよ。」
 そう言うと、教授は建物の中に入っていきました。僕は、このまま入って良いものかとおろおろしながらも、置いていかれる訳にはいかないと、教授の後ろを、腰を低くしながら付いて行きました。思えば、教授はすでに嫌な予感を感じていたのかもしれません。

 中は、少し荒れた様子でした。大きく育った木が、通路の邪魔をしています。しかし、それは完全に通路を塞ぎきっている訳ではなく、しばらく手を入れられていなくて、主を求めるように、人間の通り道に枝を広げているのでした。さやさやと流れる川の音がしてきます。温室の中はすこぶる快適で、外と違って、清々しい心地がしました。

「やっぱり、おかしいな。」
 教授は、緑の枝を跨ぎながら言います。

「鈴木くんはマメな人間だ。ここまで研究所を放ったらかしにしておくわけがない。」

「はあ。」

 僕は、気の抜けた返事をしました。鈴木さんがそんな方だったとして、僕には知りようがありません。なんせ、初めてお会いすることになる相手ですから。

 教授が行く方向に進んでいくと、次の部屋に一本の大樹と、その足元にガラスのドームが見えました。それを確認してか、教授は足を速めます。教授はとても足が速いのです。僕は、南国の植物の枝を避けて歩くのに、それほどは急げません。教授は先に行って、ガラスドームの前で立ち止まっていました。

 僕は、こんな所にまで付いて来ることになった自分の人の良さと、立場の弱さを恨みながら、樹木の根を越えて、扉を潜り、教授の横に立ちました。そして、その光景に、唖然としたのです。

「鈴木くん…。」

 教授は、呆然と呟きました。
 鈴木博士は、ガラスドームの中にいました。助けを求めるように、ガラスの壁に両手をつけた状態で、棒立ちしたまま動きません。その半開きの口の加減と、顔の皮膚のハリと全体の動きの無さから、僕は鈴木博士が亡くなっておられるのだと判断しました。それは、異様に美しい光景でした。ガラスドームの中では、何やら白い粒子が、サーキュレータで循環する白い羽根と一緒に、朝の光に反射してキラキラと舞っていました。中には、細い木の枝が立て掛けてあり、その上にコウノトリのような鳥が一羽、巣を掛けて蹲っています。こちらも、動きません。鳥の巣の下には、巣箱のようなものも見えます。地面にもガラスが張ってありますが、苔が透けていて、その上に羽根が積もり、まるで模型の入ったスノードームのように幻想的でした。鈴木博士までが、風景の一部になってしまったように、静かに佇み、ドームの中の情景に溶け込んでいました。

 教授は、しばらく動きませんでした。僕の目は、あまりの光景にガラスドームに釘付けになっていました。十分、十五分、体感だとそれぐらいでしょうか。眺めていると、教授が視線を下ろしました。そして、首を振って、その部屋を出て行きました。僕は、責任感から付いて行きます。

 教授は首を振り続け、手前の部屋の、通路と花壇の境の庭石に腰掛けました。僕は、距離を開けずその横に座りました。衝撃的な光景だったため、掛ける言葉が見つかりません。
「鈴木君…ああ」
 教授は、また首を振って、今度は俯きました。僕は、あのガラスドームが何なのか分からず、それを尋ねようとしました。すると、教授が口を開きました。

「僕らはね、同じ研究室で、同志だった。でも、いつからか仲を違えてしまって。それでも、連絡は取り続けていたし、年に二度は会っていたのだが。」

 そうして、教授は語り出したのでした。

 教授は、さる国立大学の生物学科の研究室で、助手をされていました。その時に研究室に入ってきたのが、鈴木博士でした。教授は、……田丸教授は、鈴木博士と、一助手と一学生として、普通に接していたのだと言います。転機があったのは、大学と企業が密接に結びつき、金になる研究を進めようとし始めた頃でした。

 当時田丸教授が居た大学も、内陸にありましたが、流行りに乗り、効率よく海の魚を養殖するための研究所を建てようとしました。そこで、別大学から研究者が呼ばれたのでした。

 田丸教授は、最初からその養殖業の運用には反対でした。海にいるはずの魚を、最低限必要なミネラルと水を混ぜた人工海水の中で飼う。これは、もし何世代も続けたら、魚体にどんな影響があるか分からない。食用とするには危険かもしれない。或いは、魚体が抵抗を減らされた結果、変化して、危ない生物が生まれるのではないか、と田丸教授は考えたのでした。そこで意見が合ったのが、鈴木博士でした。そこから意気投合した二人は、地道に反対活動を始めました。しかし、儲け話に聡い教授陣や、目先の研究に熱心な学生からは支持を得られず、反対するのは殆ど二人だけでした。それでも、二人は反対の根拠を集めるため、文献を漁り、そして事業提携大学を何度も訪問しました。その内陸養殖業の先進大学が言うには、そこの魚は繁殖させての養殖をしてはいない、危ないことは根から断てば良いということでした。反論の余地もなく、これでは、当時の研究室の教授も、学生たちも流されてしまうはずです。鈴木博士も、その時訪問した大学で最新研究に触れ、危うく流されてしまいそうになったと言います。待てと、田丸教授は鈴木博士を止めました。

「これがもし人間に応用されて、最低限の環境で培養される人間ができたらどうする。考えてもみろ。」
 たしかに、と鈴木博士は頷いたみたいです。でも、こうも言いました。
「そうしたら、宇宙に行ける人間が増えるかもしれませんね。」

 この言葉に、田丸教授はなるほどと得心させられたそうですが、これを言い放った鈴木博士は、宇宙移住には反対の学生でした。田丸教授も、どちらかと言うとそうでした。そもそも、地球以外に生物が適応できる環境なんてない、地球外で環境を整えるより、あくまで地球で環境変化に適応するための技術を磨いた方が良いと、二人とも思っていました。しかし、段々と心変わりしていく田丸教授に対し、鈴木博士は頑固な姿勢を保ち続けたそうです。その後、鈴木博士は、博士課程で別の大学へと進学したのでした。時を同じくして、田丸教授も准教授の採用が決まり、その国立大学を離れました。しかし、二人は分野が同じです。学会で会っては、お互い議論を深め、たまにお互いの研究所を訪問しては、喧々諤々と語り合ったそうです。

 教授は、話し終えて、ふと、我に返ったように、顔を上げました。そして、また首を振って、俯いてしまいました。僕の中では、深く疑問に思ったことが、まだ解消されないままに残っていました。

「教授。お二人の関係は分かりましたが、それが、あのスノードームとどんな関係があるのです?」
 教授は、思いつめたように唇を結び直し、それからまた口を開いてくれました。

「彼はね、その実験を、海水ではなく空気にして、小さな箱庭を作りたいと言い出したんだ。わざとおかしな変調が現れる結果を出し、それをまとめて発表することで、そこから先の実験で起こるだろう、所謂『失敗』を予め明らかにしようとした。」

 教授はそう言いながら、僕の目を見つめました。その目には、どこか真の籠もった、純粋な悲哀と事の大きさが表れているようでした。

 もう一つ、僕には疑問に思ったことがありました。

「教授、教授は、何故それを手伝わなかったのですか?」

「僕は、もう環境調整実験と内陸養殖業に反対じゃなかったのさ。最低限の空気で生きる、実験結果に出会ったから。」

 僕は首を傾げました。教授は笑います。

「宇宙飛行士だよ。彼らは、宇宙で最低限の空気、濾過機を循環させた水、宇宙食で生き延び、更に子供も作っている。彼らに会った時、僕の意見は変わってしまったね。」
 教授は、そして、思い出したようにまた首を振りました。

「鈴木くんにも、会わせたかった。彼は、偏った思考のまま、実験と研究を続けていた。」

 そして、目を涙で潤ませました。僕は、もう一つ疑問に思ったことを聞きたいと思いました。

「それで、大学には、内陸養殖業の施設ができたのですか?」

 教授は、その質問とは関係のない涙を、ポツンと落としました。

「そうだね、結局出来上がったんだよ。企業との繋がりでね、着工したと思ったら、すぐに出来上がった。」

 教授は立ち上がり、気を逸らすように、ガラスドームとは反対側に歩き始めました。僕はその横を付いて行きます。

「それはねぇ、壮観だった。魚が入ったら、魚市場みたいなにおいがしたがね。」

 僕らは、温室の中を、ゆったりと巡りました。本当に、植物園にある温室のようでした。ガジュマルがあったり、食虫植物があったり、サボテンがあったり。この温室は、放っておいたら緑に包まれてしまうな、と僕は思いました。

 いくつかの部屋を巡ると、温室の真ん中の、机と二台のパソコンの置いてある、研究室のような場所に出ました。そこには、観葉植物が飾られ、給湯器があり、デスクチェアには白衣が掛かっていたので、鈴木博士は普段ここに居たのでしょう。

 教授は、机の上に散らばるプリント用紙の何枚かに目を通し、顎を撫でました。僕は、パソコン画面を見つめました。
 電源は、切れていて、うっすら埃を被っていました。白衣の横には、コーヒーの跡が染み付いたマグカップがあり、ゴミ箱には、空のカップ麺の容器が捨ててありました。白衣の掛かっていない席の前のパソコンは、もう一台よりずっと埃まみれだったので、長い間使われていないようでした。予測するに、鈴木博士はここで、たった一人で何らかの研究を進めていたのです。
 教授は、パソコンのキーボードに触れる僕の隣に来て、パソコンラックから紙の束の綴じられたファイルを取り出し、読み始めました。僕は、さっきの鈴木教授の死に様がまだ頭の中に残っていて、憂鬱な気分でした。ここにある研究成果に手を出す気分にもなれず、手持ち無沙汰にパソコンの塵を掬って、指を弾いてそれを飛ばしました。教授は、曇った空から差し込む光を、アクリル板越しに受けながら、ファイルの中身を捲っています。

「ふうむ……興味深い。この研究結果は、失くすには惜しい。君、悪いが、この研究室に残って、鈴木くんの研究を引き継いではくれないか。」

 僕は、「えっ」と体を硬直させました。正直、思ってもみない嫌な頼まれ事でした。

「必要な経費は出すよ。この研究は、将来に絶対繋がる。下手に死体を処理してしまって、警察の手が入ると良くない。その前に、研究成果を引き継がないと。君、修士論文のための実験、あまり良い結果が出ていなかっただろう。これで書くと良いよ。」

 僕は、心の中で悲鳴を上げました。こんな言い方をされては、断れません。何せ、僕にとって、修士論文は目下の悩み事でしたから。僕は頷きました。

「わかりました。」

「じゃあ、頼むよ。横には鈴木君の家もあるし、この道を下ればコンビニもあったし。何でも良いから、成果を持ち帰ってくれ。」

 そう言うが早いか、教授はこの研究室を出て行こうとします。

「先生、どこへ。」

「ここは君に任せるよ。二日、三日後にまた、経過を聞きに来るよ。」

 そう言って、教授はさっさと出て行ってしまいました。
 僕は、温室の前まで追い掛けましたが、足の速い教授には追いつけません。温室を出ると、わっと夏の熱気と、息苦しく重い空気が僕の身を襲いました。教授は、もう車に乗って、運転席から手を振ります。僕は、目を細めながら、教授が去って行くのを見つめました。教授が車ごと去ると、少し呆然としましたが、僕はすぐ温室の中に戻りました。外と違い、ここは環境が整っています。息をするのも楽でした。

「はあ…」
 しばし立ち尽くしました。なんたって、帰る手段を奪われてしまいましたから。この外の熱気の中、買い出しに行くのも億劫です。僕はまず、温室の中で食料を探しました。一番に、パソコンとデスクのある研究室を探ります。探し物はすぐに見つかりました。少しのお菓子と、七つのカップ麺と、レトルトのご飯とカレーが一セット。これで、教授が次に訪ねて来るまでは、待てると思いました。賞味期限も全く以て大丈夫です。水道を捻れば、水が出ます。鈴木博士の嗜好品だったのだろう、インスタントコーヒーと紅茶のティーバッグもありました。これで、この部屋の環境は、大学の研究室とそう変わりません。僕は、修士論文が書けるならと、落ち着いてデスクチェアに座り、鈴木博士の研究書類を端から読み始めました。まず先程教授の読んでいたファイルから手を伸ばしたのですが、そこには、この温室とあのガラスドームの環境について書かれていました。曰く、ここにあるものは、カビ類が繁殖するには空気中に混ざるものが少なく、腐ったり劣化したりしにくい、と。この温室の中は、有機物や大気に混ざる重いガスが、極力取り除かれているそうなのです。だから、鈴木博士の遺体の心配をせず、教授は帰ってしまったんだ。僕は納得しました。土にも工夫がしてあるようです。そのファイルに一通り目を通すと、ラックからレポート用紙を見つけて、メモを取りました。試しにパソコンを点けると、普通に点きました。ロックも掛かっていなかったので、僕は中のファイルを見たり、ソリティアをしたりして遊んで、時間を潰しました。残念ながら、パソコンはインターネットには繋がらず、頼みのスマートフォンも、この時代ではありえないことに、圏外でした。遅い昼には、カップ麺を食べました。日が暮れるのと共に、温室は暗くなります。僕は、その頃まで、資料収集に熱中しました。暗くなると、研究室の電気のスイッチを探して、研究室にだけ灯りを灯しました。しかし、それでも温室は暗く、僕は資料収集を途中で諦めました。そして、用を足しに行きました。トイレだけは、隣家の鈴木博士の家に抉り込む形で、付いていました。トイレに入ると、外気がむわっと襲ってきて、僕は、あの室内が如何に良い環境かをまた感じました。

 そして、研究室に戻ると、椅子の一つに畳んで置いてあった膝掛けを引っ張り出して、床に横たわり、眠ってしまいました。とても心地良く、すぐにぐっすりと夢の中へ入っていったのでした。

 翌日、僕は早くに起き出し、お湯を沸かしながら、また資料を読み進めました。このまま行けば、新しい研究成果を、修士論文として仕上げられそうです。そうは言っても、研究を自分のものにするためには、実験と考察の繰り返しが必要そうです。しかしながら、ここには鈴木博士の用意したガラスドームもありますから、僕は自信を持って勉強を続けました。パソコンファイルを色々探っていると、鈴木博士の試行錯誤の痕跡と、まだこの世に出ていない論文が見つかりました。僕は、これを自分の名前にして出してしまおうかと一瞬迷いましたが、素直に教授に渡そうと、いつも保存用に持ち歩いていたUSBメモリにデータを移しました。環境のデータには、鈴木博士の長年の試行錯誤の成果が見て取れました。何度も温室を建て増し、建て替え、最終的にあのガラスドームに行き着いたようです。あのガラスドームの中では、コウノトリとマウスが飼われていて、掃除をするために、一日に一度、人の手が入れられていたようです。論文の共著に書かれていた名前がありましたから、助手は居たのでしょうが、なぜかその人がこの部屋に居た形跡がありません。

 大方のデータを頭に入れた僕は、何の研究から始めようかと、手持ち無沙汰にファイルを一冊取り出して、温室内の散歩に出ました。

 まず、木々と土の状態をチェックしていきます。ここの土は、広い面積が苔で覆われています。この苔にも浄化作用があるらしく、僕は、映画の世界にあった未来世界のテラリウムを思い出しました。手持ちのファイルの、マニュアルをチェックして、この温室内の環境を保つための作業を、今日から始めようとしていました。土の次は、川の濾過フィルター。さやさやと流れる細い川は、よく見ると小さな魚が泳いでいます。水草の影も見えました。鈴木博士の研究書類曰く、川の水はなるべく高純度で精製したものを使います。糞などのごみは、フィルターに掛けて、外で焼却するようです。川を覗くと、魚が水面に口を付けてパクパクと食べ物を要求してきました。そうだ、餌も居る。そう思いながら、僕はマニュアルに後から消せる筆記具でメモを取りました。温室の中を一部屋ずつ回ったのですが、鈴木博士の居るガラスドームの部屋には、正直入る気になれませんでした。僕は、研究者としてあの姿が恐ろしいのです。ガラスドームの部屋を迂回して、他の部屋を全部見て行きました。土の様子から見るに、少し湿気が足りていないようです。そこから、僕の仕事が始まりました。まず、温室の環境を、鈴木博士が手を入れていた時まで戻す。そして、実験を引き継ぐ。それは、そんなに難しいことではありませんでした。僕の手でも、三日あれば万全に整いました。その間、ガラスドームには触れずにいました。鈴木博士は、ガラスドームに両手を付けて立ったままです。でも、とうとう他の仕事がなくなって、あと手を付けるべきはそこだけになってしまいました。

 その日の午前、僕が思案しながら書類を読んでいると、玄関のチャイムが押されました。僕は、慌てました。ここは、鈴木博士の研究所です。博士以外の人間が出ても良いものか…。僕は、意を決して、助手のふりをして玄関に出ていくことにしました。
「はい」

 扉を開けると、田丸教授がそこに居ました。付き添いの学生はいないようです。

「やあ、君、引き継ぎは進んでいるかね?」

 教授の腕には、コンビニの白いビニール袋が掛かっていました。すっかり忘れていましたが、今日は教授の立ち寄る日でした。

 教授は、僕と話しながら、温室の真ん中の研究室には向かわず、あのガラスドームの部屋へ進んで行きました。僕も付いて行きます。教授は、ガラスドームの前まで来ると、手を合わせ、ブツブツとお経を上げ始めました。僕は、体の前で手を重ね、黙ってそれに付き添っていました。
「鈴木君、君の無念は、きっと私たちが晴らすから。」
 そう言って、教授は僕のほうに向き直りました。

「君、風呂は入っているかね?えらく体臭が濃いぞ。」
 そう言われ、僕は自分の体を見て、匂いを嗅ぎました。確かに、そうかもしれない。僕は、急に恥ずかしくなって、体のあちこちを嗅ぎ回りました。

「銭湯にでも行くかね。」

 僕は、慌てて手を振ります。
「いや、教授、それは必要ありません。それよりも、僕は研究に集中したいので、飲み物や食料をたっぷり欲しいんですが。」

 そう言うと、教授は白衣のポケットから財布を取り出しました。
「いくら要るかね?」
「いや、いやいや、お金が欲しいのではなく、僕はここで過ごしたいのです。」

 僕はまた手を振りました。教授は、眼鏡の上からじっと僕を見ます。

「いけないね。環境が整えられているとはいえ、ここは実験室だから、外の空気を吸った方がいい。」

 僕は落胆しました。どうにか、この環境に居られる方法を考えます。

「それでは、鈴木博士のお宅の風呂をお借りすることにします。」

「それがいい。じゃあ、仕方がない、僕は君に食料を買ってきてあげよう。」

 そう言うと、教授はあの早足で温室の出口へと向かいました。僕は、この温室の外に出るのが憂鬱で、ちょっと二の足を踏みましたが、仕方なく、温室を出て、隣の鈴木博士の家を訪れることにしました。

 温室を出ると、またウワッと重く、熱く、息苦しい空気が襲ってきます。きっと温室は気圧まで調節されているのでしょう。僕は苦しくなりながらも、隣の、煉瓦造り風の鈴木博士の家を訪ねました。慣れてくると、空気は重くなくなりました。その代わり、夏の虫の大合唱が、僕の鼓膜をつんざきます。僕は、鈴木博士の家の扉に手を掛けました。中は電気が消されていて真っ暗です。やはり、鍵は掛かっていました。ノックをして、チャイムも押してみました。家族の人も、いないのか。僕は肩を落としました。きっと、独りだったから、鈴木博士は今でもガラスドームの中なんだ、と思いました。

 それにしても、暑い中で、僕の汗の匂いが気になります。僕は、仕方なくすごすごと温室へ帰っていきました。
 温室の中は、すごく開放的でした。柔らかい空気に、心まで軽くなります。僕は、鈴木博士の鞄と、鍵を探すことにしました。研究室に戻り、ロッカーや、デスクの下を探ります。ここに無いとしたら、鈴木博士は、鍵や鞄を持ち歩いていたということになります。
 僕は、恐る恐る鈴木博士のまだおられるガラスドームの部屋へやってきました。ガラスドームは、今日もキラキラと輝いています。これは、ガラスドームの中で生成された細かい水滴が、光を受けて輝いているそうです。ガラスドームの周りには、鞄は落ちていません。
 仕方なく、鈴木博士の遺体から鍵を失敬するために、僕はガラスドームの扉を、マニュアルにあった手順通り開きました。開いた二重扉の、奥の扉に手を伸ばします。気圧が変わるのか、少し重かったですが、その中は、素晴らしい環境でした。

 鳥の羽根はにおいましたが、春のうららかな陽気もかくありなん、というほど心地よく、肌に水の細かい粒が当たり、柔らかい空気が僕を包みました。僕はすっかり目的を忘れてしまいましたが、気になる影を見ました。扉を開けた影響で、コウノトリの羽根が舞い上がり、地面にマウスの死体とノートが落ちていることが分かったのです。僕は、羽根を避け、ノートを掻き出しました。「雑記」と書かれたそれは、鈴木博士の日記のようでした。驚いたことに、それは、僕と教授が初めてここを訪れた二週間前まで続いているのでした。

―――×月×日 曇りのち晴れ
コウノトリが卵を産んだ。とても嬉しい。ガラスドーム・テラリウムの中で、生育が出来るのだろうか。兎に角嬉しい。マウスも、赤ちゃんが育って、もうすぐ巣穴から顔を覗かせてくれるだろう。

―――×月△日 雨
コウノトリのベビーが生まれた。だが、様子がおかしい。オスのコウノトリが死んでしまった。前から弱っていたが、原因は何だ。今日低気圧が迫っていて、ガラスドーム内も不安定になっているせいだろうか。ベビーをこのまま死なせたくはない。環境を調節する。

―――×月○日 晴れ
ベビーが死んだ。他の卵は孵る様子がない。私は、一体何を目指しているんだ?

 その後ろに、太文字の殴り書きで「気」の字が書かれていました。何のことでしょう。僕は、多幸感に包まれていました。顔を上げると、鈴木博士が、ショルダーバッグを肩に下げておられました。ハッ、と思い出すことができました。僕は、鈴木博士の家に入るための、鍵を借りに来たのでした。しかし、何だか立ちくらみがします。フラフラになりながら、博士のショルダーバッグのファスナーを開けました。しかし、中に手を突っ込むことはありませんでした。僕は、その場に片膝を付いて、巡ってくる最近の思い出に身を預けました。

 この温室は、先進の研究です。この研究を進めれば、いずれは宇宙空間や人工衛星の中での人々の生活に直結するでしょう、という旨を話して、修士論文発表を締めくくろうと考えていました。僕は、田丸教授や鈴木博士とは違いますから、他惑星移住に反対なんてしません。

資料を集めている内に、外の世界は、なんて過酷で苦しいんだろう、と思うようになりました。願わくは、この温室のような空間が、外に無限に広がることを望みます。

 そして、僕は、まぶたを閉じました。眠ってしまったのです。教授が、買い出しからいつ帰ってきてくれたのか、ついぞ知ることもなく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?