「誰か」のためにを「自分」のためにへ。変えたら起きたこと。
37歳まで「誰か」のためにとがむしゃらに動いていた私。それが当たり前だった。
「誰か」とは、家族、友人、患者さん。大好きな人や大切な人、その人たちのために全力で動き回っていた。
これは私の愛情表現。大好きだからこそ、大切だからこそ、その人たちのために動く。そんな感じだ。つまり、好きだからゆえの行動だ。
物心ついたときから目の前にいた両親や一緒に暮らしていた祖父母も私と同じ「誰か」のためにがむしゃらになって動いていた人。身近にいる存在がそっちのタイプだから、私も自然とそうなる。当たり前が受け継がれるように見事になっている。
長年「誰か」のためにをしていた私が違和感を感じ始めたのは、子育てがスタートしてからだ。
これは何だかおかしいぞ…
居心地が悪い…
何度も何度も違和感を感じ始めた私がいた。
今までのスタイルで子育てを続けていると、自分が何だかカラカラになっていくのを感じた。やってもやっても成果がでないその状況にやる気がなくなり、ため息も自然と増えていった。元気で前向きなのが取り柄だったことを忘れてしまうくらいだった。
満たされない…
そんな言葉がまさにピッタリだった。
こうなったら、やり方を変えようとシンプルにそう感じた。「誰か」のためにスタイルを長く続けられないのはどこかでわかっていたし、もう無理だと感じていた。このままではいけはいと気づいた瞬間だった。
「自分」のためにがむしゃらになる。対象を自分に変えるというとってもシンプルなもの。それをやると決めた。がむしゃらは得意だ。
今まで見向きもしなかった「自分」のことを知るたびに、こんなこともあるのかと毎日毎日発見の連続で高揚感がハンパなかった。セルフケアを通して、変化していく自分が何とも愛おしくおもしろくもあった。
それと同時に「不調」を抱えたまま子育てや家事、仕事をアクセル全開に踏んでやっていたことを知り、その生き方をものすごく反省した。
「自分を大切にする」という言葉をよく耳にしていたし、そこに気づいてから自分ではやっていた。
でも、自分の手で女性器をほぐすというセルフケアをしてからというもの今までやってきたものは、「自分を大切にしているつもり」だったことを痛感した。根本から改善したそんな感覚がそこにはあった。
大切な自分のデリケートゾーン、そこのケアを「誰か」のためでもなく「自分」のためにするということは、まさに自分を大切にすることの核であると感じている。
「自分」のためにするセルフケアは、まぎれもなく自分が1番に満たされる。何だか満たされない…と感じていたあのときの私はいまはどこかにいってしまった。
満たされる感覚をカラダでも心でも感じられるセルフケア、ぜひとも「自分」のために一歩踏み出して欲しい。
そう感じる私がいまここにいる。
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