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戦争や殺人はどう防げるか〜制裁と人の行動を制御するということ〜 #ウクライナ侵攻


戦争が始まった。

その定義は、様々だが、国家の意思決定で殺人が意図的に行われるという意味で、戦争は社会における意義が大きい。

ただ、その意味では、クリミア危機からすれば、もうここ8年くらい起きているのだが。そして、世界各国の国家レベルの紛争であれば、ずっと起きていることでもある。。

戦争が非難されるのは、それが人の生命を奪うからであり、かつそれが、国家という社会で正当な権力を持った主体の意思決定であるからだ。つまり、社会とは複数人の集団からなるわけだが、国家レベルの意思決定はその成員の合意がなされているということだ。

国家よりはミクロなレベルで考えるとどうだろう。民間人による殺人ももちろん、非難されるものである。

では、この両レベルにおける「殺人」はどう防げるのだろうか。

ロシアはなぜウクライナに侵攻し、人殺しを行うのか?

それは、そのリターンが被るマイナスより大きいからだ。

国際社会は、過去の経験から、国家レベルでの人殺しが起きないように、それをした場合の「マイナス」を築いてきたわけだ。しかし、それが十分でなかったのだ。

プーチンの考えはわからないが、一部他国と持ちつ持たれつの関係にあるロシアが、過激な行動をしても、行使される制裁は限定的だと考えたのだろうか?

だとすれば、完全に国交をなくすりょうな制裁があると信じさせることができれば、これは抑止できたのか?

ロシアくらいの大国であれば、鎖国してもサバイブすることはできるかもしれない(混乱はあるし、生活水準は落ちるだろうが)。

この問題は突き詰めると「人の行動をどう制御するか」という議論に行き着く。

今日はこれについて考えてみたい。

1.「暴力」で人の行動を制御する

まず、一番シンプルなのは、暴力で人の行動を制御することだ。

中国が犯罪者を死刑にするというのがわかりやすい例だ。

社会に害を及ぼした人間に、暴力で制裁を加えることで、それを抑止するわけだ。

そして、この路線でいくなら、「制裁」を機械的に徹底したものにしないと意味がない。

今回のウクライナ侵攻のように、制裁がそこまで痛くないと判断されれば、社会的な「悪」行為がなされることになる。

たしかに制裁を徹底すれば、悪行為は抑止できるだろうが、その場合、次のような弊害がある。

①冤罪があれば、取り返しがつかない。推定無罪の原則があったとしても、この制度を用いて、冤罪が起きてしまうことがあるだろう。ブロックチェーンなど使っても、本当の真理というものはつかめない。

②社会が萎縮する。①も絡むが、やばいことをしたら、殺されると思ったらみんな表現や行動の自由を謳歌できない。

③殺人を刑罰に使うと、命が軽く扱われる。国家が殺人を合法的に行えば、命を奪うことが制度の中に組み込まれているという事実ができてしまう。そうなれば、命は理由があれば奪っていいものだという考えが蔓延る。

④為政者の思うままになってしまう。為政者が社会の構成員一人ひとりの実存に目を向ける可能性は低い。

2.洗脳で人の行動を制御する

次にあるのは洗脳だ。

宗教やイデオロギーを帯びる思想。

世界の見方など、そもそも人が自らの経験で築き上げるものだが、それを他社が言語的に与えるものが洗脳といえる。

洗脳というと、洗脳する側が一方的に利益を得るようなイメージがあるが、そうでもない。

社会全体のためを思って行われる洗脳もある。

キリスト教やイスラム教だって、社会秩序を保つためというのが中心課題だと思う。

宗教の欠点は、その最終根拠が「物語」であることだ。

誰もが確認することができず、エイヤで決められた物語だから、信用できる人とできない人がうまれる。

中途半端だ。

やるなら、人類至上最高に理詰めで考えた理念から出発した社会思想でやるべきだ。現象学の方法で社会理論を作り、それを普及されることが一つの希望となる。

この場合のデメリットは何か。

論理的に、わからせるには人々にリテラシーが必要になる。

これが普及するには絶え間ない浸透の努力が必要になるはず。

この場合、洗脳と本質は変わらないが、もう少しよい言葉で表現いてもいいと思う。

3.インセンティブで人の行動を制御する

最後は、インセンティブで行動を促したり、抑止するという考えだ。

最近のSDGsなどがそうだろう。

ヘッジファンドが社会性のある取り組みにしか投資ないようになれば、企業のクリーンな行動をするようになると見込まれる。

これは、2の洗脳に比べて、即効性が高いと思われる。

しかし、表面的な行動様式にしか影響を与えられない。

所詮、人参をぶら下げられての行動なので、それがなくなれば、野蛮な状態に戻ってしまう。

ただし、こうした行動を繰り返すうちに、その主体に根付いた行動様式(エートス)も変える可能性もあるだろう。

最善策

以上から考えると、暴力ベースでは、社会の構成員全てがハッピーになれる可能性が低い。抑圧された自由のない社会になってしまう。

理念からの洗脳がよさそうだが、これは絶え間ない努力が必要。インセンティブは、即効性あるが、行動様式(エートス)までは変えない。

結論、長期的には、理詰めで考えた洗脳で社会の構成員のエートスを社会性あるものにする。まずは、まずは、インセンティブベースで人々の表面的な行動を変える、というのがいい筋なのではないか。

無敵の人をどうするか

昨今、「無敵の人」という言葉がある。

失うものがなく、自身の命を失うことも恐れない、自暴自棄の人間のことだ。通り魔殺人やテロを起こすような人間だ。

こういう人は、いくら制裁を強めようが、やりたいと思ったことはやる。

でも一人でできることは限られる。

そいつに協力して、行為を大事にするような人間が一人でも少なくなる状態が必要だ。

つまり、制裁が全ての人に機能する状態を作ることが必要になる。

国家レベルでの無敵の人がでないようにする営みだ。

また、無敵の人が、やばいボタンを持った権力者だった場合は特に気をつける必要がある。

核を持つロシアには、われれれは、何もできない。

我々意識の拡大と限界

エートスを変えるには、人間の感性に訴えかえる必要がある。

90年代に既に議論はしつくされている。ロールズから、サンデルの話だ。

我々意識が世界中に広がればよいが、現実はそうでもない。

あいつのためになんで俺が税金を負担しなければいけないんだ?

その我々意識を直視するべきだ。

アリストテレスは、それが2万人を限度とした。

2万人なら、まだ、人づてや一定の時間経過から、われわれ意識を保てる。

これは人間の身体性に根ざす。

本はなぜ、数百ページなのか。なぜかばんはこの大きさなのか。

これと同様に、我々意識も適切なサイズがある。

人の顔や人生を想像できる範囲は限度がある。

その小さなユニットで、我々意識を育てるしかない。

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まずは、周囲の日々接する人々に対して、最善を尽くした生き方をしよう。


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