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フローや幸福は最終目標ではないという話

ハンガリー出身のアメリカの心理学者であるミハイ・チクセントミハ(Mihaly Csikszentmihalyi)さんが、2021年10月20日になくなったようだ。1934年生まれなので、87歳くらい。ご冥福をお祈りします。

私は、彼の著書『フロー体験:喜びの現象学』(今村浩明訳、世界思想社、1996年)を何度読み、フローという概念に影響を受けた。(自分の会社名やサービス名もフロー体験に由来している)

なぜ、フローという体験に興味を持ったかというと、この主観的な生における、「よい状態」とは何なのかをずっと探求していたからだ。幸福や快楽と言われるものもあるが、もっと良い状態はないのか、など中学生みたいな好奇心で考えていたことがある。

フローの核心的な本質は、やっていること自体が報酬になるということだ。

普通、何事かを行うのは、何かしらの報酬のためだ。それは金銭的な報酬だけでなく、気持ちいいとか、快感とか、幸福とか。

フローは、それが最終的なよい状態であり、その先はない。

そう言われれば、幸福(幸せ)も同じではある。

実際、幸福もフローもどっちでもいい。

私がその後に考えが変わった。

当時の私の考えは、最高によい主観的な状態とはどういうものか?というもので、それを突き止めれば、それを再現することが人間にとって最高なのではないか、と考えていた。というのも、社会が目標にしている経済指標などでは、実存レベルと関係が薄いから。

その後、現象学の哲学を学び、考え方が変わった。

そもそも、われわれの生の構造は、常に何かの可能性を念頭に、あらゆる対象が認識されて、進行する、というものなのだ。これ以上、深い構造はない。

そこで、幸福やフローなどの状態は、その可能性としてよい目標になるが、その状態自体がよいのではなく、可能性を与えてくれて、「今」に意味をもたらすことが重要なのである。

何か、最高によい状態を手に入れても、また次の可能性をめがけて生きる存在が、われわれの生なのである。

未来のよい状態を考える上で、幸福や、フロー、さらに最近言われているウェルビーイングは重要であるが、その本質は可能性を与えて今の生に意味を与えてくれる点にあることを理解しよう。

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