われわれは、何を言うかをどう決めているのか〜村上春樹の地下室
何かを言うとは何か?
目の前に見える景色というインプット情報から、脳が主語と述語という型を持ちだし、主語には一番注目している対象が入り、述語にその説明が入る、
というようなメカニズムでは、
全くない。
気づいたら、何かを言っているし、それを分析してみれば何かしらの文法ルールに則っている。
例えば、中国語ではいくつかの文の種類を習う。動詞述語文、形容詞述語文、名詞述語文など。或いは主述関係のない非述語文というカテゴリもある。
どっから言うことの型が決まってくるのか?
外国語(例えば中国語)を話そうとすると、
STEP1、まずは日本語で文を作る
STEP2、それを中国語に変換する
STEP3、変換した中国語を発話する
という3ステップになる。
では、母国語はどいうか?
STEP1で、母国語(日本語)の前段階に何かふわふわした意味のまとまりがあり、STEP2でそれを日本語化して、STEP3で発話する?
そんなことにはならない。
やはり、
例えば、今私はカフェにいて目の前に人がいる。
「眼の前でおじさんがパソコンで作業している」
「おじさんがパソコンをいじっている」
「私の注意は目の前のおじさんに向いている」
など「いま、ここ」で知覚していることを、様々な言葉でいうことができる。
しかし、反省的にそれらを見ると、描かれている対象は近しいが、それぞれ文法や表現形式が異なる。
そもそも今、3つの違う表現で目の前の対象を捉えてみたが、どうやってそれをやったかはわからない。あと数パターンくらいは言うことができるだろうが、それをひねり出すやり方もわからない。
程度の異なる話ではあるが、村上春樹は創作活動についてのこのような謎について記述していた。
「人間の存在というのは、二階建ての家だと僕は思っているわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本を読んだり、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。(…)その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。ただ何か拍子にフッと入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。(…) その中入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。」(『夢を見るために・・・』、98頁)
ここまで深い話ではないが、私が目の前の出来事をどう表現するかも、このようなこの次元の話だと思う。
一つ言えることは、
自分の内側にある記憶、そのもととなる経験や体験が形つくるということだ。
人間、分からないことが沢山ある。
何を問題として語りたいのかわからない文章だが、とりあえずざっくりした問題提起として。
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