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大学生のレポート:そもそも論文とは?+論文関連の悩み・ぼやき

これは、ゼミの先生に向けたお手紙というかお悩み相談みたいなレポートです。これで提出しました本当に。論文を書いている他の大学生、昔書いていた社会人の人、多くの人に共感してもらえるかな?という内容なので、楽しんで頂けたら嬉しいです。

ちょっと言葉遣いが硬いですが、「アカデミック」ぽくなさすぎると、それだけで、大学でちゃんと受け取って貰えなさそうな気がするので、いつもちょっと普段よりわざと硬めの文章を書いていました(笑)今は大学を卒業したので、しばらくはそんな読みにくい文章は書いていません。

でも、今回のこの「大学生のレポートシリーズ」は、昔書いた自分の文章を読む+勉強した内容をすぐに引き出せる・思い出せるようにやっているので、そのまま懐かしい「無駄にアカデミックぶった文章」そのままで残しておこうと思います。では、どうぞ!


論文とは

卒論のテーマ設定にあたって、論文とはなにか、という壁にぶつかった。壮大過ぎるテーマでは、問題の本質に触れる事なく文字数を超えてしまう。卒業論文という形を取ることの意義は、普段書く期末レポートとは段違いに、内容を深堀り出来る点にある。その際に問題の本質的な部分に対して、明確な答えを返したい

東郷雄二『文科系必修研究生活術』によれば、論文とは、特定の学問上の問題について、十分な論拠をもとにして、主張や証明を行なう、論理的に構成された著作のことだ。

ここでの「主張や証明」の解釈は難しく、レポートでも卒論でも、明確な答えや着地点がないと意味はないのか、新しい説を立証しないといけないのかなどと考えた。

だが、明確な答えを一つに示すことは危険で、二元論で議論全体が終わってしまう。「多角的に物事を捉えて、常に問い続ける必要がある」、これは、この学部(国際関係)での授業のよくある結論だと思う。

学説の役割

世の中には、たくさんの複雑な二項対立が存在している。学説などを用いての分析は、数多く存在する2つの対になる意見や解釈のうちの一部に注目しながら、それらを見比べているに過ぎない。

国際関係学のリアリズム(現実主義)やリベラリズム(理想主義)などと言った学説、あるいは考え方それぞれは、それ自身で完結しない。学説もあくまでも各状況にあてがって使う道具のようなものであって、絶対的な答えへと導いてくれる性質のものではないということだ。カメラで言えばレンズを交換して撮影するように、それぞれの学説の視点を借りて、分析をするイメージがより適切だ。

だからこそ、論文というものは一つの大きな主張をするにあたって反駁意見を含めて構成されるのだと思う。ただ、一つの観点からある主張をしても、それを真横から見つめた時に空っぽな印象を人に与えてしまうのであれば主張に重みはない。主張の密度を高めて、補強していく意味合いで、色々な論点を取り扱う事には意義がある。これが、先に述べた二元論の危険性の裏返しだ。

普遍的な答えと独自性

繰り返しにはなるが、論文の本質である、「自分の主張を行う事」において論理性は重要だ。この論理性の意味するところとしては、論拠を用いて自分の主張をしっかりと下支えする事だ。

しかしながら、大学の学部生がする主張は、誰かがもうすでに考えているアイデアの組み合わせの範疇を超えられない。完全に新しいことを提唱して、証明しようとしても、世の中にはもう既にそのような発想をして、文章の形にしている人がいるのだと思う。

この前提が正しければ、一個人が論文を書くにあたって、「どんな論拠をどのように並べて自らの主張に説得力を持たせるのか」が、最も重要な要素になるはずだ。既成の考え方や学説をどう掛け算していくかの過程自体が全く同じになる可能性はほぼゼロだ。ということは、この掛け算の過程が、個人が書く論文での中核となる。

この前提でいけば、「よくある結論」に落ち着くことは決して悪くない。ここでいう「よくある結論」として想定しているのは、「当事者意識をどうやって持つのか」といった問題意識を提示するようなまとめ、「時と場合によって正解が異なるから、その時々で最善の決断を繰り返していくことに努めよう」、「大きな変化のためには、個人が変わっていくしか無い」のような締め括りだ。

これらは、構造的格差、少数者の尊重、環境問題のような広範な性格を持つ社会問題に関しての全てのレポートにおいて、共通の結論になり得る。どんな課題に対してでもある程度通用する。この着地点に異議がある人は恐らく少なく、過程は違ったとしても、共通見解として多くの人に理解されると考える。

だが、「では具体的にどうすればいいのか」という問いに対しての答えを提示することは出来ていない。ただ、現状を説明するだけの論文に意義はあるのか、という「非理想論」の議論が始まる。この論は、「正義論は理想的な正義の構想を語るだけで、具体的な解決策を提示できていない」との批判を展開する。理想的条件が揃っていない環境下での正義、そしてその実現方法について議論する必要があると主張する。現実問題に対してどう働きかけていけるのかを提示することの重要性を訴えている。

文章の意義と気迷い

大学生でレポートというものを数多く書いてきたが、未だにレポートを書くことを通して何が本当に求められているのかはわからない。

一つの大きな役割として、授業の理解度を計る意味合いがある。教授の言ったことをなぞればいい成績が貰える部分があるのも事実で、講義内での先生の主張に忠実に書くことが全てなのか、とも感じてしまう。

だが、ただ単にそれだけのために文章を書くのだとすると、もったいないと感じる。人に伝える手段としての文章である以上、それを読む人に何かを提供出来るに越したことはない。

しかしながら、多くの人がやりがちな事として、現状の事実関係について調べてそれをまとめる作業がある。これも、ある意味では読者に現状の理解を促して、考えてもらうきっかけを生み出す。

だが、「非理想論」が示すように、現状に対して具体的にどう行動すればいいのかを、主張・証明することが確実に求められている中で、その需要には答えられていない。

一学部生が書く卒業論文に、論文としての存在意義や価値を追い求めすぎる事は、自分が卒業論文のハードルを上げすぎている行為だとはわかっていても、どうせ書くのであれば何か有益な内容にしたいと思うのが正直な気持ちだ。

有益かどうかでいえば、現状をわかりやすく自分なりの観点から解説する文章にも当然価値があるとは思うが、具体的行動指針を含まない事が許容されるのかどうかが、本当にわからない。このような自分の頭の中のモヤモヤと、どう折り合いをつけていけばいいのか悩んでいる。

先程言及した、皆が辿り着くゴールのようなもの自体で独自性を示せない場合に、「どのような道筋を通ってそのゴールに辿り着くか自体が評価されるのか」という大きな疑問がある。圧倒的な知識不足でありながら、非常に漠然とした問題意識が自分の中にある。

それが原因で、どんな話題と向き合っても、自分なりの普遍的な答えのようなものに行き着いてしまう。これが果たして良いことなのか悪いことなのか、明確にする必要も無いのかも知れないが、今の自分はその答えが見つからずに右往左往している気がする。必ずしも解決方法を提示できなくても、もっと議論されるべき内容について提案して論文を終わらせるというのも一つ有効な手段なのではないかと思ったが、わからない。

逆に狭い視野

なににつけても俯瞰して全体像を把握したがる最近の自分の悪い癖に関して自覚はある。国際関係学部の授業をずっと受け続けて、国際関係学部の友達と多くの時間を過ごしてきた結果として、逆に「国際的、多角的な視点」に凝り固まってしまっている感覚がある。

結局、手の届く範囲のローカルな話まで落とし込んでいかないと実感がわかないのはわかっていながらも、「本質」という言葉に過剰に惹かれてしまう。

大学の先生方も同じような悩みを持っていたのかも知れないが、引いて見る発想を頭の片隅に置きながら、目の前の事象や分野に集中しているように見える。

視点の切り替えが出来なくなっている感覚が強い。一歩引いて傍観者の立場からしか物事を考えられなくなってしまっているようで、少し恐ろしくもある。しかし、井の中の蛙にならずに済んでいるという意味では自信を持っても良いのかも知れない。俯瞰することは、感情論にばかり走らないための予防策でもある。自分の考え方が、全体を見渡した上でどこに位置しているのかを把握することは重要だと思っている。

そのための手段として、留学がある。外から国内を見てみて、それを踏まえてまた国内に戻ってみると確実に見え方が変わるのだろう。ここで重要なのは、問題の細部について考える時に、一旦広く見た上で、また細部にまで目を向けることだ。


最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

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