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「美」について

この文章で、一番の伝えたいメッセージとしては、「美」それ自体は、思った以上に揺らぎがあり、はっきりしない、多義的な概念であるということだ。

※今回の記事は、11ヶ月前(2021年7月末)に大学四年の夏休み前に芸術関連の授業のレポートを書かなければならなかった時に遡ります。「そうだ、noteの画面で文章を書けば、趣味の時間を楽しむかのようにレポートが提出できそうだな」と思いついたのがきっかけで、ここに文章を書いていました。「noteの画面」の力を借り、「これは課題じゃなくてただnoteで文章を楽しく書いているだけだ」と自らを騙し続け、波に乗って勢いで終わらせる作戦でした。途中まではnote上で書いていて、その後全ての文章をコピペして、Word上で情報を加え、体裁を整えて提出しました。無事、この授業では良い成績を貰えて少し喜んでいた去年の秋を思い出しました。成績が良かったから、世に出しても恥ずかしくないなどと言うつもりではないのですが、読んでもらって、少しでも「面白いじゃん。こんな事考えたことなかった。」と感じてもらえれば嬉しいなとの思いで今回記事として公開することにしました。この段落は畏まって丁寧な口調で書いたのですが、またぶっきらぼうな、だ・である体に戻りますのでご容赦下さい!(2022年6月)

美は多種多様

美と言っても本当に千差満別で、曖昧な概念だ。人によって何を美しいと思うか、何を持って美とするかの基準がバラバラなのだから、画一的な美しさというのは存在しない。だが、世の中一般に「美しい」と言われるモノはたくさんある。雄大な山並み。ビルが立ち並ぶ都会の夜景。そこらへんに生えている花。植物園に展示されている植物。幻想的な光を捉えた写真。シンプルなカフェの内装。帰り道、ふと視線を上げるとそこにある夕暮れ時の空。いくつかパッと思い浮かんだものを列挙してみたが、これらはどれも笠井康弘の思う「美しい」の一部に過ぎない。「美しい」から連想するものの羅列には、無限のパターンがある。思い浮かべる順序、内容、具体性など、「差別化要素」が多過ぎる。Y字の枝分かれが、果てしなく掛け算されていくイメージだ。

美の普遍性

「一般的に美しいもの」の話に戻る。先に述べたように、この世に同じ美の観念を持った人は存在しないはずなのに、なぜか一般化された美しさがこの世にはある。それは、美の基準、認知のための指標が植え付けらるからだ。人は生まれた瞬間から、親を始めとする自分の周りの環境からその観念を学んでいく。尖った言い方をすれば、価値観を押し付けられる。お片付けがいい例だ。大人は大人の都合で部屋を「綺麗に」保ちたい。整然とモノを並べておきたいというのは、大人の都合だ。次にモノを使う時に取り出しやすいから、などといった「合理性」と美しさの一つである整っている状態には深い関係性がありそうだ。この観点から言えば、「美」には存在価値が間違いなくある。「美」があることによって人間の暮らしはより良く、豊かになっている。合理性の議論を続けると、効率に執着した冷淡な結論に辿り着いてしまいそうな気がするが。

美と人間の本能

美は精神面でも多大な影響力を持つ。美術館を訪れ、他人の美的価値観の理解に苦しみながらも、自分なりの解釈に落ち着くことができれば、最終的には刺激的な一日が過ごせて良かったと感じることが出来る。なぜこれで満足出来るのかという問いに答えるのはとても難しいが、強いて言うなら「視点が広がる」からだろう。画家による、自分では想像もしたことのなかった景色の描き方を見て、その視点を心得ることが出来れば、世界を楽しく見つめる方法が一つ増える。自分の手札が増えること、それが、芸術鑑賞の満足感の正体の一つだろう。人間は、知ることを楽しめる。知的好奇心に突き動かされて、生きていくために知識を仕入れる。脳内で「知ること」と「楽しさ」は紐付けられている。苦しまずとも、楽しみながら新しい情報を入手できるような脳内構造に進化してきたとも考えられる。今となれば街のどこでも簡単に食べ物が手に入るが、採集時代に遡れば、食べられる植物の分布や見た目などの知識がないと食べ物にはありつけなかった。情報はあればあるほど有利だ。道具で調理が出来るようになった時代でも、道具の使い方をたくさん知っていれば、より豊かに食事を楽しめる。これは、現代においても全く同じ理屈だ。アプリでもサイトでも、それらの情報収集手段を駆使することができれば、より美味しい食べ物に迷いなくありつける。視点が広がり、新しい情報に出会えるということに、人類は共通して胸をときめかせる。人間の動物としての「生きること」と「美」は最終的に結びつく。人類の生きる術としての「美」においての重要な要素として、左右対称などの「対称性」が挙げられる。生物の発達の異常は非対称性を伴うことから、個体の健康状態や若さと成熟度合いの指標とされる。生物の種の存続という観点において、「美」は一役買っている。

美と自己防衛

人間の生物的な本能と、美を結びつけて考えてみた。そう考えると、「美」とは、かなり普遍的で確立された概念のように思えるが、都合よく使われる概念でもある。目の前にそびえ立つ岩壁を思い浮かべて欲しい。目の前にある岩壁から換気される感情は、恐怖だ。だが、岩壁と言われて一般的に想像するのは、一歩引いた画だろう。そして、美しい自然として人間は解釈を加える。自分を圧倒するものへの恐怖を変換している。人間の力ではどうにもならないような、崇高な存在に「美」という概念を用いることで対処している。手に負えないようなモノと対面した時が、この手法の出番だ。ピカソの幾何学模様のような絵も、言ってしまえば、凡人の自分には理解が難しい極端な作品だ。だが、社会的な権威が付与されている、正当性のある美術として理解できないというのは実に都合が悪い。だから、これは「美」なのだと自らに言い聞かせる節があるのではないかと思う。なんの準備も無しにただ受け取った内容が、自分のキャパを超えて溢れ出てしまわないように、「美」というラベルをくっつけて、自分の中で再定義が行われる。受け止めきれないという状態になることに、人間は恐れを抱いているように思う。生物学的に合理的でなくても、調和がなくても、「美」として分類し、それで済ませる能力を人間は持ち合わせている。だから、物事に圧倒されずに済むのかも知れない。自己防衛の手段、あるいは困った時の万能な逃げ道としての役割を「美」は持っている。

美は後付け

顔の美しさなどの議論の際には、黄金比率が引き合いに出される事が多い。こうした比は、自然の摂理の中で生み出された方程式に、後から理論をくっつける形で生まれてきたはずだ。だが、ここで留意しなければならないのは、メディアなどによって描かれるイメージの影響を大きく受けているという部分だ。美しさにも変遷がある。昔の日本の女性における「美」は、のっぺりしていて、ほっぺが膨らんでいて、目が細くて、白いものだった。しかし、テレビが登場した時代に、外国人が理想とされ始めた。戦前や明治初期の美人の定義は、現在とは全く異なる。言ってしまえば、たった数十年間の間にも植え付け直されてしまうほど、「美」とはいい加減な価値観なのだ。価値が植え付けられるという文脈では、ブランド品と類似している。人は皆、美的な価値がわからないから、目利き代の代わりにブランドにお金を払う人が多くいるし、お宝鑑定番組が人気だ。美しい服にも壺にも、一定の基準は存在しない。人々は各分野の専門家たちの権威に頼りながら、たくさんある指標の中から自分が重視する要素を選び抜いて、それを土台として美的な価値を判断している。(提出した文章は、きっとここからまだ続いていたはずですが、ここまでにさせてもらいます。)

最後に

記事を公開する前に、一通り自分の1年前の文章を読んでみたのですが、「無駄にカッコつけている感じ(学術的な雰囲気を頑張って出している感じ)」がして、どこかソワソワしてしまいました笑 ですが、普段余り考える機会のない事について改めて考えさせられた気もします。自分の文章なのに、書いていた時の思考回路がどうなっていたのか、こんなに思い出せないだなんて、少し面白いです。この一年間、僕は留学していた事もあり、noteが全く更新できていませんでした。日本語で畏まった文章を書く機会もほぼありませんでした。今は、こちらでの学業が終わって、帰国前の休暇(旅行)の期間です。久しぶりに課題に追われることなくゆっくりとパソコンと向き合える時間が出来て、ふとnoteを開いた時に、この記事を発掘したというわけです。序盤の伏線回収(?)また、日本に戻ったら僕の趣味の一つとして、noteの執筆を再開したいと思っています。文字数を見ると、いつもの悪い癖で3700文字に近づいているので、ぶっきらぼうな締め方にはなりますが、ここで終わりにさせてもらいます。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています!

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。