養う女、養われる男日記(12)



手袋違い

養う女
2022/12/12


 この1つ前に投稿した、童話と実際にあったことをリンクさせようとして失敗した日記について書きます。
 素人は迂闊に引用を試みるものでないし、就活のグループワークでは軌道修正できる人が勝つ、という話です。

 養い日記の10投稿目で、私は「手袋を買いに」を引用しました。

 引用しようと思った理由は、なんといっても、T、改め田中くんに手袋を買ったから。連想です。それに加えて、昨今の情勢からウクライナの物語作品にスポットライトが当たっているため、ウクライナの作品を引用しようという思いもありました。時勢を抑えているアピールをしようという非常に恥ずかしい魂胆があった訳です。

 引用しようとさっそくあらすじを調べ、はて、と困ってしまいました。どうも記憶の片隅にあったあらすじと違っている。リンクさせる糸口が見つからなかったのです。手袋、小銭、子狐の手を人間の手に変えるお母さん狐の術、子狐の手の出し間違い、人間社会は本当に怖いか。私が拾ったキーとなるポイントはこのようなものでしたが、そのどれをどう田中くんのエピソードと結びつけて良いのか、困ってしまいました。そもそも結びつける必要がないのに、頭は結びつけることにばかり意識がいっていますから、そこをやめようという意識にならないのです。
 かつて出来の悪い文学部生だった私は、しょうもない論文がよくやる悪手、こじつけに走りました。そうして脳内で作った構図が、次のようなものでした。

手袋→田中くんが絵によって社会から得る評価
小銭→田中くんの絵
お母さん狐の術→私が田中くんに渡す金銭+物つまり手袋
子狐の手の出し間違い→田中くんが社会と渡り合う時に起きる摩擦
人間社会→出る杭を打つ才能を認めない社会

 このねじれ。誰の目にも明らかです。私は、手袋の出てくる物語を引用しておきながら、手袋と手袋を等式で結ばず、手袋を別のものに例える、という頓珍漢な図式を編み出したのでした。
 この構図を描きだした私が得意満面だったかと思うと、そうではありません。読書オタクの端くれですから、このいわば仮託(他の物事に借りて言い表すこと)の試みが、うまくいっていないことは勘づいていました。
 でも、走り出しているので止まれない。もう、土台がぐずぐずなのはわかっていたのですが、無理やりその土台の上に家建てちゃうんだ、だって物語を引用して、かっこよく見せたいしね、ふん、という訳です。
 友達だと思って勢いよく声をかけたけど、かけている途中で、あ、知らない人だった、と気づき、でも口は動いてしまっているので、最後まで挨拶を言い切ってしまう、その「わかってるけどやりきってしまう恥ずかしさ」に似ています。

 日記を投稿した翌朝、田中くんからのLINEを見た瞬間、即座に目が覚めました。
「昨日のさ」
「手袋を買いに行く以外に」
「手袋以外にメタ的な共通点あるん?」
 こじつけが、読んだ人に見逃される訳はありませんでした。
 物語を引用したい、という気持ちが先走り、書きたい内容を無理やりこじつけてしまった、非常に恥ずかしい失敗です。

 私はこれも大失敗に終わった就活のグループワークを思い出しました。
 5分間のテレビ番組をつくる、という課題でした。始まってすぐ、1人が、外国の人に日本に住んでもらってカルチャーのギャップを伝えてもらいたい!と言いました。
 もう1人が、関西に住んでもらおう!と言いました。かくして、「海外の人に関西に住んでもらって日本に住んで感じたカルチャーギャップを伝えてもらう」という番組案ができあがりました。
 このコンセプトのねじれは、関西だけで日本を代表させるのはいかがなものか、というひっかかりを無視しているところにあります。日本に住んだギャップを伝えてもらいたいなら、全国津々浦々に住んでもらう必要があるでしょう。そもそも、企画自体のつまらなさが群をぬいていました。
 それら諸々を無視して最初の案にこだわって進んだせいで、誰も後にひけなくなり、議論は紛糾しました。何もまとまらず、講評では一番揉めていた、と言われ、遠回しにいかによくなかったかを指摘されました。当然落ちました。

後日就活無双の友達にバッサリ、
「グループワークは、軌道修正できる能力があることを見せる場だよ」
と言われて愕然としました。

 その言葉が、今回の失敗でもよみがえってきました。日記もグループワークも、違和感を無視して最初の思いつきにこだわってしまったからこその失敗でした。
 グループワークに関してはそもそも話し合う時の各自のあり方を見られていたのですから、揉めているなんて論外です。
 何事も柔軟である必要がある、ということです。あと無理なことはしてはいけない。


 そしてこの日記を書いていて気がついたことがあります。
私は「手袋を買いに」でこの表紙を連想していました。



 この童話の生まれた国、ウクライナと結びつけて、私はしつこく「手袋」エピソードにこだわっていたわけです。
 ですが、これは「てぶくろ」です。

「てぶくろ」はウクライナの童話ですが、「手袋を買いに」は新美南吉の作品です。
圧倒的、日本の童話です。日記の冒頭で、新美南吉の〜と言いながら、ウクライナの童話と思って引用していたのです。
これは本当に怖い。
しかももしもウクライナの「てぶくろ」だったなら、より一層こじつけは破綻したものになっていたでしょう。(「てぶくろ」はおじいさんが落とした手袋に動物たちが集まってくる話。 
https://pictbook.info/ehon-list/isbn-9784834000504/

私は思いつきが途中で頓挫したどころか、最初の時点から勘違いをしていたのでした。
そもそもの目論見から大転倒している。
田中くんがその大転倒を真っ向から指摘してくれる人でよかったと、とにかくホッとしました。


養われる男
2022/12/11

今日は久しぶりに自分の服を買いに行った。
半年ぶりぐらいになんとなく服を買いに行こうと思い下北沢の古着屋さんを回ってみようと思った。
日曜の下北沢は人が半端なく多い上に、行ってから気がついたことはかなり高身長な自分が服をまとめ買いするなんて到底無理だと思った。
欲しいと思ったらサイズがない、サイズが合うと思えば大したデザインもしてないの連続。
モデル業をかじっていることもあり、知っている人に1人で買い物をしていることがバレるのが恥ずかしくて長居もできない。
「これだ!!」というものが見つかってもその場で帰るほどの決断力があるわけでもないのに、一回行ったお店に戻ることが店員に何か思われてそうだし、2回行ってしまうと何か買わないといけない気がしてこれまで何回も大して欲しくもない物を買ってきた。
自意識過剰と無駄な気にしすぎ精神があいまってロクな買い物もできない。
効率的に生きたい。服を悩む時間も無くしたい。
僕が一番好きな人はデイビットリンチで彼のようになりたくて、彼はいつも黒のセットアップに白のシャツを着ていてそれがすごくカッコいい上に効率的だと思った。
そんな感じの物を探していても、だんだん自分には似合わないような気がしてきて途中からただ人混みの少ない裏道を散歩しているだけだった。
ある程度の物は俯瞰で見える自信があるのだけど、自分の身に纏う物になると全く自信が湧いてこない。
鏡に映る自分を見ても似合っているかなんて判断も付かない。
大量にお洒落な人がいる下北沢。
そんな人が横を通り過ぎる度に、「お前は見た目だけだろ。俺は違うんだぞ。」となんの根拠もない捻くれた意見を胸の中で呟き、今机の上でパソコンと向かい合って日記を書く。
僕はそういう人間で、大好きな自分にさえ嫌がらせをされ生きにくさを感じることもある。
あそこに居た人たちも角度は違えど同じような生きにくさをどこかに感じている。
だから僕は特別でもなんでもなく、何が言いたいかもわからないけど…。
ぁあ。才能が欲しい。




養う女と養われる男で雑談するpodcastをやっています。2人の温度感が伝わるとうれしいです。
おひまな時にぜひ。



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