見出し画像

インターネットに文章を置いたら「つながり」が生まれた。

これまで長年、SNSやブログとは無縁の人生を送ってきました。理由はシンプルで、単に必要性を感じなかったから。誰かに用事のあるときは電話やメール、携帯メッセージで直接連絡を取ることで十分だったし、

不特定多数に向けて、自分の嗜好や日常を伝える(というより、むしろ前面でアピールする)という感覚がイマイチよく分からなかったんですね。生来の人見知りな性格が、そんなところにも無意識に出ていたのかも知れません。

だから、SNSやブログと無縁だった当時は、「Facebookで、あの有名な○○さんとつながってるんだよ!」という類の、周囲で時折耳にする言説が理解できなかった。

フォローする、フォローされる、といった言葉が指す内容ぐらいは知っていたけど、「それを『つながり』とは呼ばないだろう」と思ってました。

「つながり」というのは一定時間を共にして酸いも甘いも楽しいもしんどいも共有した先にあるもの、「絆」みたいな感覚で捉えてたんですね。

ぼくの場合だと、20代~30代前半にかけてのヨーロッパ駐在時代というのが仕事面で心身ともに本当に苦労の連続だったんですが、たまにやってくる休日も含めて現地で時間を共にした仕事仲間とは、今でも「絆」レベルでの「つながり」を感じます。

今は互いに転職して離れた場所に住んで、近況報告なんて特にしないから最近何をしているとか、互いにあまり知らないんだけど、それでも久しぶりに会えば、当時の時間を互いの関係性の中で瞬時に再現しながら今を過ごせる、そんな間柄です。

そういうものを「つながり」と呼ぶのだと思ってました。

 でも、つい数ヶ月前にnoteを始めて、この考え方は変わりました。結論から言ってしまうと、noteという場を借りてインターネットに文章を置くだけで、「つながり」は生まれるんだという発見があった。

note、というよりインターネットで文章を書こうと思ったきっかけは主に2つあって、

1つ目は、ぼく自身が必要性を感じるか否かに関わらず、これだけインターネットというものが普及した中で、水道や電気や道路や電車・バスといった移動手段が今や当たり前の社会インフラとして機能しているのと同じように、既にインターネットも空気のような当たり前の社会インフラになっていること。そこへの能動的な関わり方として、何かを発信するという行為が、今後当たり前のことになるんじゃないかと思ったこと。

2つ目は、そういった発信手段として、自分の好きな「書くこと」と「利き酒」「子育て」「海外」「多様性」などの関心事を組み合わせたら何が起こるんだろうと思ったこと(そういう探求心は子供時代からある)。

そうして、インターネットに文章を置いてみたら、ぼくの文章を読んでくれた方々がコメントをくれる。そのコメントを拝見して、ぼくの言いたかったこと、文章にした内容が真っ直ぐに届いたことが、こちらに伝わってくる。

noteに文章を書くときは、言葉を探すという作業、自分の中を覗くために自分の中に降りる・潜っていくような感覚があって、そこから出てきた言葉が誰かに真っ直ぐに届く。

互いに会ったこともなくどんな人かを知らない、顔もしゃべり方も雰囲気も分からない、でも言葉が届いたことだけはハッキリと確認できる。

自分の嬉しさや苦労してきたことや考えてきたこと、そういった主観的なものがピンポイントでしっかりとシェアされたことが確認できる。互いの「輪郭」を確認できたような爽やかな感覚と温かさが残る。

そういう「つながり」のあり方、そんな距離感も心地良いものだなという発見がありました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?