世末涼子の憂鬱 「スマホを忘れたオワターー!!と思うじゃん?」
いつも通りの朝のはずだった。
いつものようにシャワーを浴び、いつものように薄めの化粧で己の顔面を整え、いつものように仕事用の白シャツを着て、ようやく馴染んできたダークブラウンの革靴を履いた。
「よっしゃ、いってきまんもす」
すべては、いつも通り。いつも通り寒い挨拶。
電車に揺られながら、涼子はそう思った。
が、違和感はほどなく涼子を襲った。
「怠惰な我輩はたった二駅でも座っちゃうのだ」と自前のナレーションを脳内再生しつつ、習慣的な動作、即ち右ポケットを弄った…そのときだ。
あれ、ない。スマホがない。空気しかない。
涼子は目を瞑った。
涼子は見たくない現実が立ち現れたとき、よく目を瞑る。ギュッときつく瞑るんでなく、意外なほど安らかな表情でスッと瞑るので、仏の涼子と呼ばれている。
次の駅で、同僚の多恵子が乗り込んできた
「仏の涼子じゃん」
「ボンジュール」
「そういう小ボケはいいから。なにやってんの」
「幽体離脱。主に現実からの」
「なるほどね、スマホでも忘れた?」
アンタは千里眼か。話早くて助かるよ尺的に
そして横浜で電車乗り換え
「も〜サイアク…」
「まー…たまにはいいんじゃない?原始時代はスマホなんてなかったんだし」
「多恵子…何百万年前の話してる?」
「200万年前」
多恵子は歴史学科卒。
「でも気持ちわかるけどね。アタシもこの前忘れたから。なんかこう、むず痒いのよね」
「むず痒い?」
「ほら、ふと思い立ったことをツイートしようと思うでしょ?で、右ポッケに手を入れる。でもないのよ。スマホはいまごろ家のテーブルの上。…あの、むず痒さったらないわね」
「あ〜わかるわかる!うわっ金玉痒い〜!と思ってかこうと思ったら、あ、女だからないや、みたいなね」
「それは全然わからないけどね」
#2 ゆたかさってなんだろう?
オフィス内の食堂にて
涼子の上司で美人の美里がたらこパスタを持って現れた。
「あれ、涼子ちゃん。食堂にいるの珍しいね。いつも外で食べてるイメージだけど」
「実はスマホ忘れちゃいまして…」
「スマホ?」
涼子がスマホを忘れたことと、食堂でランチをすることに一体なんの因果関係があるのだろうか?という謎に支配される美里。
「連絡取れないし、あんまり遠くに行かない方がいいかなと思いまして…」
「ああ、そゆことね」
そりゃ災難ね、と美里は言いながら、涼子の向かいの席に座る。
「と、思ったんですけど…」
「けど?」
「…案外悪くないんですよ、これが」
「ほう、そりゃまた不思議なこと言うねぇ、涼子ちゃんは」
「いやぁ…」
涼子は誰も見たことがない昆虫でも発見した子どもみたいに笑った。一方美里は、笑う涼子を新種の昆虫でも見るように興味深く見ていた。
「スペシャル対談が行われまして」
「え!何の話?誰と誰の?」
「私と、私の」
「そりゃまあ随分と…哲学的ね」
涼子はロイヤルミルクティーをティースプーンでくるくるかき混ぜながら続ける。
「や、そんな大した話じゃないんですケド…。なんかこういう何でもない時間に、私は頭の中の私と話し合いをするんです。内省的な時間というか。いつもだったらスマホ見ちゃうんですけど、何もないとわかると、自然と物事を考えるようになって。あと、ロイヤルミルクティーの色合いとか、食器の模様とか…意外といままで見てなかったな…とか。いままで見えなかったものが見えてきだと言いますか。あと、SNSも見ないから…ほらあれって要は沢山の人の思考の海じゃないですか?スクロールで無限に見れるし、私けっこう溺れてたかもなって。一から自分で考える筋肉衰えてた原因かもなって。何万回もいいねとリツイートされてるツイートって、まるでそれが世論みたいな、とりあえず今の結論みたいに強くて、でもしばらくSNSから離れて1人で考えてみると、案外そうでもなくて。自分で考えてみたら、自分に自信が持てるようになったというか…答えはひとつじゃないと言いますか…そういうことを実感を持って体感できたんですよね」
美里はたらこパスタを絡めたまま静止していた
「ま、大したことじゃないですけど!」
「いや…!大したことだよ涼子ちゃん。私今誰と話してるのかと思ったもん」
「あれ、美里先輩と涼子?珍しい組み合わせですね〜あたしも混ぜて下さいよ〜!」
「あ、多恵子ちゃん!ねえ聞いてよ、涼子ちゃんが変なの」
「え?涼子は変ですよ?」
「え〜!ひどい」
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