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ぱっきり分かれた境界線と、こぼれ落ちたかけらを拾いに。

3月末にCompathのロングコースを終えてから、1ヶ月ほど東川を離れて、国内を転々と旅していました。

いつもは北海道東川町で旅を受け入れる側の私が、旅をしてみる側になってみて感じたこと。
それが、Compathを3年間やってみて感じている社会への課題意識と通ずるものがあったので、記録として残しておきます。

テーマは「効率化・明確化などに迫られ、ぱっきり境界線を引いてしまうことで、個人と社会からこぼれ落ちるもの」について。

旅と、私のかけら

今回の旅は、ちょっとの計画と、大半は衝動で、いま会いたい人にアポを取っていた。
なんとなく最近、自分の感受性が鈍くなっている危機感を感じていたのだと思います。これじゃいかん!と、今回の旅で、会いたい人に会って、土地の力も借りて、色々なものを受け取るためのうつわがほぐれた感じがした。

ただの旅リストですが、私にとっては眺めてると他面的なわたしが見えてくる大事なリスト。"私のかけら"を拾いにゆく旅になりました。

Compathのことを熱をこめて語ってる起業家としての私も勿論私だけど、

キャリアブレイク研究所とのコラボイベント@梅田にて(photo by まっくす)

長い付き合いの友人や家族といるときのくだらなくてゆるーい私も、ただのハロヲタとしてビール飲んで熱弁してる私も、

渋谷の火鍋の店にて。謎ポーズ

リクルートでのパリッとした私も、仕事の悩み相談をする後輩としての私も、

元職場は東京駅の高層ビル。懐かしのサウス41Fにて

Compath卒業生と話してるときのゆったりな私も、

Compath同窓会@東京は小伝馬町のHygge Cafe開催

どれも違うわたしで、どれもわたし。
久しぶりに自分が立体的になった感覚でした。

意識している方だと思うけど、それでも気づかぬうちに「Compath共同創業者」として期待される私に偏っていく。すると、出てこない方の私たちが奥にしまわれて錆びていく。このままでも生きてはゆけるのだけど、私のすべての命がいきいきと大事に生きている状態ではない。

「効率化・明確化などに迫られぱっきり分けることで、個人と社会からこぼれ落ちるもの」
奇しくもこれは、Compathを運営してて感じている社会の課題意識と通じるもので。

(photo by 畠田大詩)

Compathには、もらった命を大事に生きたいというひとたちが集う。

例えば、今の環境だと失われつつある自分のエネルギー感を取り戻したい。感性や創造性をもっと信じて生きたい。社会に生きづらさを感じる。生きていくことに希望が持てない。グラデーションはありつつも、同じ願いであり、叫びが、聴こえてくる。

Compathを運営しながら見えてきた「境界線がぱっきり分かれすぎていることで起こっている、社会の歪み」について、
特に「個人の境界線がぱっきり問題」「社会の境界線がぱっきり問題」に分けて、話してみたい。

「個人の境界線」がぱっきり問題

Compathには「〇〇のMEISHI(森のMEISHI、雪のMEISHI、味のMEISHIなど季節によって変わる)」という、どのコースでも共通する導入ワークショップがある。Compathには毎回15名の所属も年齢も違う人たちが集まってくる。知らない人たちどうしが集まると、放っておくと会社名か学校名+肩書きで自己紹介、しまいには名刺交換までしてしまうこともある。

(photo by 清水エリ)

それが予想以上にその後の場づくりに響くのだ。本人たちの想像以上に背後の情報をジャッジして勝手に受け取って、人間関係が固定化されたりする。

これをやらずに失敗したことが何回かあるので、まずはMEISHIを作ってもらい、肩書きなしで出会ってもらうことを大事にしている。連絡用グループもfacebookなど素性が調べやすいものでは作らない。
大人になってから、にんげんどうしで出会う機会ってなかなかないのだ。

(photo by れい)

わたしたちは無意識に人モノ事象にラベルを貼って、ジャッジながら生きている。あのひとはこういうひと。こういうことが起きたらこうすべき。
でもたまには剥がしてやらないと、はみ出したものたちが泣いている。

特に自分の能力に対するラベルは厄介で「私は〇〇ができない」と一度貼ってしまうと、だんだんそれを学習していって本来の力以上に無力化していってしまう。自身の特性や能力って、環境や関係性に大きく変動するから、ラベルを単純に貼れるほどシンプルなものではないはずなのに。

しかも、働く時間の比重が大きい日本社会において、特定の領域の特定の仕事上の能力あるなしだけで、自分や他者の価値評価が決まってくるように感じてしまう人たちは多い。それだけで、自分そのものの価値に対する効力感も、転がり落ちるように下がってしまう。

論理的思考力とかプレゼンテーション能力とかほどスマートに言語化される力ではないけれど、些細な、でも、大事なその人のかけがえのないちからって、ありますよね。
その人がいてくれるだけで、誰かを幸せにする、そんなちから。

(photo by れい)

明るいあの子と話してると悩みなんかどうでもよくなっちゃうとか、くだらないゲームを考えさせるとピカイチだったりとか、誰かの哀しみに深く寄り添えることとか、ノートの隅にちっちゃく書くイラストがキュートでとか、言葉の端々から感じる独特の感性とか。

(photo by れい)

忙しさの谷底に落として、忘れてしばらくして枯れかけてしまったものに、たまに水をやって、ふわふわふわっと起こしていく。自分の見え方がふんわり立体的になる。人生でたまにはそんな時間が必要。

「社会の境界線」がぱっきり問題

社会は、想像以上に分断しているみたいだ。

「Compathで今までの人生で関わることがなかった人たちとの対話が深い学びに繋がった」という言葉をよく聞く。それ以外の言葉だと、「異人種交流会」「未知との遭遇」「どうぶつの森」なんて表現した子もいる。笑

(photo by 畠田大詩)

「でもさ、Compathに共感して来てるんだから、だいぶ属性は似てるんじゃない?」と聞いてみたら、そうでもないらしい。
それだけ普段同質性の高いコミュニティにいるか。それとも、出会ってるけど「出会って」ないか。すなわち、異質なひとたちと価値観や背景まで含めた深い対話をする機会がないか。

「社会」

この言葉を聞いた時に、どれだけ多様な、そして手触りがある誰かを想像できますか。

経済合理上で考えると、同じ価値観の人たちで集まった組織の方が、早く成果が出しやすいのは理解できる。
けどその分「わたしたちに見えてる"社会"はこれだけでいいんだろうか」「"社会"とは誰なのか」と問う機会は作ってほしいと切に願う。

photo by 清水エリ

わたしたちは、どうしても、知ってる範囲でしか想像することができないのだから。そして、自分ひとりでは、ぜんぶの世界を知ることは一生できないのだから。必要なのは、いろいろな人たちに出会い、その人が見る世界を教えてもらうことだ。同じと違いを対話していくことだ。

わたしも、Compath参加者が見ている世界を通して、いろいろな世界を教えてもらった。私たちは「誰かのメガネをかけてみる」と呼んでいる。

最近、Compathスタッフまゆこが刺繍してくれた「Compath三種の神器」

LGBTQ+であるがゆえに感じる社会制度の不合理さも、ヴィーガンが日本で店を選ぶときの探しにくさも、摂食障害から回復までの葛藤とプロセスも、日本の休職やキャリアブレイク事情も、いまの大学生の就活へのリアリティも、あの子に聞くまでは、わかっているようで、わからなかった。

「知らない」の境界線が、ふやふやふやっと、ぼやかされていく。
ただのニュースが、喜怒哀楽が紐づいたニュースになっていく。
便利で効率的だけれども、ぱっきり分断された社会から、寛容で優しい社会へのちいさな一歩だと思うのです。

(photo by れい)

ぼやかしてゆけ。境界線を。

境界線のあいだに、アートが眠ってる。

photo by 畠田大詩

あいだからこぼれ落ちた、こんなに生き生きと素晴らしいものが、現代社会だと発揮できないのはなんだか悔しい。効率化・明確化などに迫られぱっきり分けることで、個人と社会からこぼれ落ちるもの。
それがあるのだとしたら、拾いにゆきたい。

photo by れい

境界線をぼかしたいんですよ、なんて言ってると、ますますCompathって何やってるのかわからない!って言われるのだろうか。笑

でも不思議と迷いはないのです。3年間Compathやってきて190人の人生に触れてきて、私の中には「わかりにくいけどそれが大事なのよ」と言ってくれるものたち(ひとたち)がふんだんに溜まっている。

話は変わるけど、先日、Forbes JAPANの「100通りの世界を救う希望『NEXT100』」に私とかおるを選んでいただいた。

錚々たるラインアップのなかで、北海道東川町の小さな取り組みを誰かが見つけてくれたんだ、と思うと嬉しくて、自信にもなって、やったー!ありがとうー!という気持ちが湧いてきた。

日本にフォルケホイスコーレをモデルに学校をつくるというのは、一筋縄でいかない壮大なプロジェクト。その想いが日に日に強まっている最近。

わたし自身も、これが日本で出来たら希望だな、と強く想う。

いまの自分達の手だけで実現できるほど小さなテーマではない。そういう意味だとCompathをつくるひとの境界線もぼやかしていきたい。

多様な人が集って、中心にあるのは問いだけ。
「どう社会を作りたい?」「Compathはどうありたい?」「わたしは何ができるだろう?」

焚き火を囲むように、いろんな人たちがあーだこーだ言いあって、東川町の人も卒業生もまぜこぜで、仕事でも遊びでもあるような雰囲気で、リサーチしてくれる多様な領域が混ざった研究者たちもいて、旅しながら数日滞在して教えてくれる先生もいたり、誰が先生なのか生徒なのか曖昧になったり、私も旅でたまにいなくなったりしてもいい。

ぼやかしてゆこ。

Special thanks!
文中の素敵な写真たちは町内の写真家/参加者が撮ってくれたものです。
トップ画像はphoto by 清水エリ、です:)
リンクはこちら→ 清水エリさん畠田大詩さん

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