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コロナ渦不染日記 #32

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七月十三日(月)

 ○朝から恐るべき寒さ。これが夏かと恐ろしくなる。

 ○駅前のマッサージ店でマッサージを受ける。「いい感じに整ってきましたね」とは、動物マッサージもできる担当スタッフの言である。言われてみれば、二足歩行のときでも、あごが引け、腰がぐっと腹側に入って、安定したような気がする。
「われわれ人間の姿勢が、そもそも動物の基準から外れているわけですね。だから、人間以外の動物のみなさんが、われわれの姿勢に合わせるのは大変で、そこでどうしてもつらさが出てしまうんです。サルから人類への進化の過程を強制的に行うことになるわけですから」
 担当スタッフの言葉を聞きながら、凝った部分の痛みに耐えて、店を出るときにはだいぶすっきりしている。また来週もマッサージを受けることにした。

 ○オカヤイヅミ『ものするひと』を読む。

 大学時代の後輩であり、私家翻訳プロジェクトでイラストを担当してもらっている「じゃすみん(仮)」から、「ポメラで書く小説家が出てくる」と話を聞き、興味を持って一巻だけ読んでみたら、あれよという間に全三巻を購入していた。
 この物語を通して語られるのは、「生活の不安と喜び」であり、「他者とともにあることのわずらわしさと暖かさ」である。一応の主人公である、小説家「スギウラ」は、孤独に生活する人物であり、そこには他者との距離感に対するわずらわしさを避ける反面、書いたものが思ったように評価されない不安がある。いっぽう、ひょんなことから彼と知り合い、興味を持つ女子大生の「ヨサノ」は、アイドル研究サークルでの活動や、不倫関係にわずらわしさを覚え、そうして生活していく以外に、喜びはないものかとぼんやり考えている。彼らは「ものする」(スギウラは小説を書くこと、ヨサノは他者と触れ合うこと)を通じて、そうした不安とわずらわしさと感じるが、同時に、「ものする」ことでしか、そうしたことを解消できないのだと、じょじょに知っていく。
 この「『ものする』ことで喜びを得て、暖かさを感じる」ことの象徴として、第一話から描かれるのは「たほいや」である。「参加者が知らなそうな、得意な響きの単語を辞典でしらべ、参加者に勝手に意味を想像してもらい、それが事実でなくとももっともらしく思われたら得点」という「言葉のゲーム」であるが、これはコミュニケーションを意味している。正しいもの、真実だけが「よきコミュニケーション」を導くのではなく、コミュニケーションは、すべからく不安と喜び、わずらわしさと暖かさを兼ね備えているということに気づくことが、不安を軽くし、わずらわしさを受け入れさせることになる。
 じゃすみん(仮)は、大学時代、ぼくが所属していた「言葉と遊ぶ会」の後輩である。このサークルが、この作品との縁を結んだのだろう。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、百十九人。


七月十四日(火)

 ○現場で、凄腕のスタッフを見た。
 どの仕事もそうだが、ぼくの仕事にも守秘義務があるので、ここはたとえを使って説明する。ぼくの仕事を、戦国時代の、雑賀衆の傭兵部隊とする。いろんな軍に銃を持ち込んで、使い方をレクチャーしたり、時には実際に部隊の一部として戦闘するのである。当然ながら、仕事の相手は武士、あるいは足軽など、前線で戦う戦士となる。ふだんは刀を中心に、槍、弓を使う。必ずしも銃でなくてもいいのである。部隊を率いる武将、その上にいる大名は、銃を使って戦果をあげたいと思うが、そこは戦国時代、銃といってもまだ先ごめ式の火縄銃である。使い勝手は槍や弓に及ばないし、接近戦に持ち込まれたら、刀相手にまともに戦うのはむずかしい、などの理由で、なかなか現場に普及しない。ところが、いるところにはいたものである。ある戦場で、かくしゃくとしてはいるものの、老境にさしかかった足軽が、火縄銃をよく使うところに遭遇した。
 その日は、前線が後退し、山すその林に入っての戦いとなった。戦場は広く分散し、ゲリラ戦の様相を呈している。ぼくは、ヤブや斜面を移動しては、背負った銃で迫る敵を一体ずつ狙撃し、味方の撤退をサポートしようとしてた。ある斜面まできたところで、敵を一体、撃ち倒し、太い木の後ろに身を隠した。銃身をさっと清掃した後、弾丸と調合した火薬をセットにした「早合」の蓋をとって、中身を銃身にこめる。再装填した銃をかまえ、木から半身を出して戦場を確認したとき、その人を見たのである。年老いた、小柄な足軽が、しかし身につけた鎧の重さを感じさせない軽やかな動きで、五人の敵を相手にしていた。足軽はまず、斜面をのぼると、生えている木の一本に、背中からよりかかって銃を撃った。五人の敵のうち、弓を持った一人が倒れた。すると、足軽は銃を捨て、腰の後ろに差した脇差しを抜き、敵の左に回りこんだ。敵の一人が、斜面の下から突き上げようと上むきに構えていた槍をもてあましたところに、すっと飛びこんで鎧のすきまを刺した。そして、ぐったりとなった敵を盾にしたまま、手から槍を奪うと、残る三人の敵を、槍の台尻を突き出して牽制しながら後退し、斜面をのぼった。銃を捨てたところまで来て、足軽は盾にしていた敵を蹴倒して、敵の一人にぶつけた。同時に、奪った槍を投げて、銃を拾うと、一度右手に斜面を下りてから、ヤブのひとつに身を隠し、たぶん再装填したのだろう、彼を見失ったらしい敵が、その場でもたもたしているところへ弾丸をぶち込んで倒した。残る二人は、背をむけて逃げ出した。
 逃げる敵へ、ぼくがダメ押しの一発を撃ったところで、足軽はぼくに気づいたようだった。「ああ、あんたでしたかい」と言って、陣笠のしたからにこりと微笑んで見せた。そして、腰に下げたもう一本の脇差しを抜くと、戦場に転がっている敵に、丁寧にとどめを刺していった。彼がそうしているのを見ながら、ぼくは自分の銃に再装填した。足軽は、敵の一人の脇差しを奪い、腰に下げたところで、ぼくの動作に気づき、「それはなんですかい」と聞いてきた。ぼくは早合のことを伝えた。「へえ、そいつは便利だ」と言って、足軽は笑った。
 その後、二人で本陣まで戻った。道すがら、ところどころで休憩しながら、足軽の話を聞いた。先々代の殿の頃から仕えていること、先代の殿になってから銃を使っていること、槍も刀も弓も使えるが、やはり銃はいちばん威力があるし、自分には合っていることなどを、にこにこ笑いながら話すのだった。そして、ぼくが早合について説明するのを聞くと、「作り方を教えてくださらんか」という。字が読めないので、口伝えでじゅうぶんだというので、飯を食べながら説明し、サンプルとして、五、六個を渡した。ふかぶかと頭を下げ、「次は使ってみますじゃ」と笑った。

 ○こういうことがあると、仕事は面白いものである。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、百四十三人。

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七月十五日(水)

 ○帰宅し、映画『妖怪大戦争』を見る。

 先週見た『妖怪百物語』から続く「妖怪シリーズ」の第二弾として、妖怪たちを主役に据えたところに特色がある。前作のように、妖怪が因果応報の担い手として、脅威とならなくなったかわりに、キャラクター化して、悪の妖怪と戦うといった趣向は、個人的には好悪混ざる印象だが、ビジネスとしては成功であったろう。
 それより、やはり今作の白眉は、キャラクター化した妖怪たちをたてるため、敵役として配された「古代バビロニアの魔神」吸血妖怪ダイモンである。

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序盤からその正体はあきらかで、日本の妖怪たちがなんど攻めてきたもこれを退ける姿は、まさに強敵の一言に尽きる。もちろん、そこまでの強敵だからこそ、最後に退散させられるところにカタルシスがあるのだが、そのカタルシスのためにこれでもかと強さ、しぶとさ、狡猾さを見せつけられると、悪の魅力を感じずにいられない。
 また、一九七三年の映画『エクソシスト』に先駆けて、「古代の魔神が悪霊となって甦り、破滅をもたらす」というビジョンは、『エクソシスト』のパズズと重なりながら、ゲーム『Wizardry』の日本語版において、敵モンスター「マイルフィック」のイメージソースのひとつになったのではないかと、個人的には考えている。それくらい、ダイモンは魅力あるキャラクターであった。

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 ○本日の、東京の新規感染者数は、百六十五人。


七月十六日(木)

 ○本日の、東京の新規感染者数は、二百八十六人。
 先週の二百四十三人を引き離す、これまでにない人数が発表された。

 ○これは、かねてより計画され、昨日、国土交通省観光庁から発表された、「Go To トラベル事業」に、強いむかい風となるだろう。

 このたびの災禍と、その「渦」に対応した、緊急事態宣言の発出によって、旅行産業は大きな打撃を受けたが、その窮状を支えるべく計画されたこの事業は、しかし、旧来の「旅行」の概念によったものである。つまり、「ふだん人が集まって暮らしているところの人が、ふだん人が集まらないところへいく」というものである。
 しかし、このたびの災禍は感染症であり、これは前述の「旧来の『旅行』の概念」と相性が悪い。感染症は人の集まるところで流行するものであり、そうして流行したところで生活している人が、ふだんは人の集まらないところへ移動することは、ほんらい流行のリスクの少ないところへ、わざわざ感染症を流行させにゆくものだからである。しかも、旅行産業は、交通機関や宿泊施設、各地の観光スポットや施設だけに留まらず、そうした一次的な業態を支える二次的な業態にも影響する。これもまた、「旅行」を含む、人類の文明が「他者との交流」を前提としていて、そここそが感染症の影響を受けやすいポイントであることと不可分ではない。
 だからといって、このままなにもしないでいては、旅行産業は窮状を打開できず、たとえ、今後、感染症の流行が収まったとしても、その頃には回復不可能な状況になっているだろうから、いま、なんとかしなければならないというのはわかる。とはいえ、この「Go To トラベル事業」が見越していたのは、関東や関西の大都市圏からの移動であったはずだ(さまざまなメディアで目にする、このキャンペーンを「新型コロナウイルス感染症の流行収束後の一定期間限定」と説明する文言が、まさか開始予定の七月二十二日には、感染の流行が収束しているであろうといった、甘っちょろい見通しに立脚していたのではないか、という考えは、この際おいておこう)。ここにきて、全国の各都市を大きく引き離して、東京でこれまにない人数の新規感染者が報告されたことは、これが感染流行の第二波かどうかは別として、この「コロナ」が新たなフェーズに入ったこと、そしてこれまでのやりかたでは対応しきれないことがはっきりしてきたことを示すものであろう。

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七月十七日(金)

 ○富沢義彦・ハム梟『レオナルド危機一髪[ザ・ピンチ]』を読む。

「伝説の大発明家レオナルド・ダ・ヴィンチの『孫』を名乗る男・レオナルドは、じしんも発明家であるうえに、『祖父』の遺稿を根拠に、現代文明を支えるあらゆるテクノロジー二関して特許を主張、ごくごくわずかな特許料をもらうことで、世界随一の富豪になった。そんな彼を亡き者にし、特許料の支払いをとめようとする者、じぶんこそ発明者であると主張したい者たちに命を狙われ、レオナルドの日常は危機[ピンチ]また危機[ピンチ]。彼の管財人にして、彼の命を狙う者たちとの「決闘」の受付を行う(そして殺害成功のあかつきには報酬をもらう予定)の美女・リザや、彼を殺しにきたものの、彼の発明に惚れこんで用心棒となった、凄腕の殺し屋にしてドライバー・文楽、そして彼のライバルである「プロメテウス企業」のヴィクターなど、個性豊かな面々が入り乱れる毎回の危機一髪[ザ・ピンチ]を、レオナルドの知恵と度胸と発明が打開していく」
 ……という物語は、間違いなく『○○ン三世』のパロディであるが、この作品がすぐれたパロディであるのは、『○○ン三世』のキャラクター配置やコンセプトを用いながら、その中身を巧みにすり替えることで、オリジナルな作品へと昇華しているからである。先週末に見た『シティハンター THE MOVIE』同様、元ネタと中身が有機的に結びついて、どちらがかけても成り立たないものになっているところに、真のオリジナリティがある。
 だから、第二巻収録の第八話「光ヶ沼の決闘」前後編は、ラストのレオナルドの「ある行動」が語られるにいたって、これが「7番目の橋が落ちるとき」であったと気づいても、その巧みさにうならされはしても、パクリだなどと騒ぎたてることはないのである。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、二百九十三人。



→「#33 呪いの渦」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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