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コロナ渦不染日記 #33

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七月十八日(土)

 ○午前中は日記を編集し、午後はニール・ゲイマン『サンドマン:夢の狩人』を読む。


 ○夜。以前から、オンライン上で不定期に、週末に集まって映画を同時再生する「週末電脳映画会(仮)」を行っているが、今回の作品は『呪怨:呪いの家』であった。

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 一話約三十分、全六話の、計三時間強という上映時間を、一気魅してしまう、これは大傑作であった。

 ○すでに多くの方が書いていることだが、この『呪怨:呪いの家』には、従来の「呪怨シリーズ」にはない特徴がある。それは、一九八八年にはじまり一九九七年に終わるこの物語が、「昭和-平成凶悪犯罪史」を扱う伝奇ドラマであることだ。
 山田風太郎の明治もの、あるいは関川夏央/谷口ジロー『坊ちゃんの時代』を引き合いに出して定義するならば、「伝奇」とは「史実としてはありえなかった、しかし事実としてはありえたかもしれない出来事を語る」ものである。『坊っちゃんの時代』で、森鴎外を訪ねて日本にやってきた、エリス嬢(「舞姫」のモデルとされる人物)が、幼い頃の長谷川伸に出会っていて、のちに戯曲「一本刀土俵入」のモチーフとした、というのは、「史実としてはありえなかった、しかし事実としてはありえたかもしれない出来事」なのだ。
 そして、この定義を解釈のめがねとして用いて『呪いの家』を見るならば、これは「昭和の終わりに巷を騒がせ、のちに日本のホラージャンル(特に映像作品)の制作や公開に多大な影響を与えた、凶悪犯罪者」という「史実」と、「いつからかそこにあり、いつまでそこにあるのかわからないが、『関われば呪われる』ということだけははっきりしている、凶悪な〈呪いの家〉」という「事実としてはありえたかもしれないもの」が接近し、互いに少なからぬ影響を与えていたかもしれない、という「事実としてはありえたかもしれない出来事」を語るもの、と見ることができる。これは、第一話に登場し、中盤ある重要な役割を果たす、柄本時生氏演じる、少女を車に乗せて連れまわす男に明らかだ。この男の役名、「M」という。
 そして、「一九八八年のM」以降、「呪怨シリーズ」の主役である〈呪いの家〉をめぐる物語と並行して、神戸の震災、地下鉄サリン事件、神戸連続児童殺傷事件など、昭和の終わりから平成の序盤を騒がせた、凶悪犯罪事件や巨大災害の存在が語られていくことになる。この、「伝奇」のスタイルこそ、長くシリーズ化されることで、ある意味では陳腐化し停滞していった「呪怨シリーズ」を復活させた、新機軸であろう。

 ○さらに言えば、この「伝奇」スタイルは、これまた従来の「呪怨シリーズ」にはない特徴を生み出しもする。前述の、既存作品から読み解く「伝奇」の定義に、さらに私見を交えるなら、伝奇とはそのように「史実に残らなかった(架空の)事実」を語ることで、「史実」という巨大な力に押しつぶされてなかったことにされてしまいがちな、弱っちくてちっぽけな「人間(のこころ)の存在証明」にもなる。
 我々は、一人ひとりにそれぞれのこころがあり、それぞれのつらく苦しい人生を歩んでいる。だのに、こと他人のこととなると、「その他大勢」としてしかとらえられず、互いのこころ、他人の存在にまでなかなか目をむけられない。だが、そうした「見えざるもの」は、確かにこの世に存在する(それは自分がこころを持っていると自分が感じられることで証明される)。だから、それを知る、感じることをしなければ、人のこころは慰められることがなく、孤立してしまう。その結果どうなるか。人は、人ではなくなってしまうのだ。
 この、「こころを理解されず、孤立して、人ではなくなってしまったもの」とは、つまり「おばけ」である。「呪怨シリーズ」に登場する、伽椰子と俊男をはじめとするおばけたちは、こうしたものであるし、その他多くの怪奇幻想/ホラー作品に登場するおばけたちも同様だ。なんなら悪魔や邪神といった存在も、そういうものとしてとらえることができる(『神曲』の氷付けのルシファーも、ルルイエにて夢見るままに待ち至るクトゥルーも、みな「史実」におしつぶされ、孤立したものたちである)。つまり、「おばけの出る話」とは、それだけで「伝奇」なのであるが、今回の『呪いの家』では、前述のような「伝奇」スタイルによって語られる「弱っちくてちっぽけな人間(のこころ)」が、これまで以上に際立っている。
 三人の主人公のひとりは、当初は直接〈呪いの家〉に関係のない、傍観者/記録者的な立ち位置かと思われたものの、中盤からじしんのルーツに〈呪いの家〉がかかわっていたことがわかってくる。残りの二人も、それぞれの人生に〈呪いの家〉がしこりとなって残り続ける以上、ひとつの解決を見ないことには、先へ進めなくなってしまっている。全六回をたっぷり使って、この三人のこころの物語は、たっぷりと語られることになる。
 もちろん、彼ら以外の、〈呪いの家〉に関わってしまったために恐ろしい目に遭っていく人々には、それぞれの人生があり、そこには喜びと悲しみ、怒りと苦しみが渦巻いている(どの被害者たちも、この家に引っ越してきた理由を問われると、異口同音に「家賃が安かったから」と言うのが、そうした「こころ」の発露のひとつとして印象的である)。彼らの物語もまた、三人の主人公と同様に、従来の「呪怨シリーズ」にはない時間的な余裕も含め、「伝奇」スタイルをとることで、より視聴者の身近に感じられる効果も期待されているだろう。
 そうして感じられる「こころ」は、〈呪いの家〉をめぐる物語の登場人物となったことで、はじめて人目にふれたものである。そうならなければ、彼らの悲喜こもごもは、「その他大勢」のそれとして、埋もれたままであったはずなのだ。

 ○特に、第一話から登場し、従来型の「呪いの家探索(巻き込まれ)パート」とも、今回の新機軸である「昭和-平成凶悪犯罪史」とも異なる、第三の物語と数えられる「堕ちていく少女の物語」は、いつ終わるともしれない転落の道行きをたっぷり時間をかけて見せていて、間違いなくこの『呪いの家』の主軸の一つである。
 このパートの主人公は、物語開始時は、母子家庭に暮らす女子高生であった。両親の離婚の際に母に引き取られ、転校した先で、〈呪いの家〉に関わることになる。しかし、彼女の人生はそれ以前から、それなりの速度で転落を始めていた。両親の離婚の原因は、母親の男癖が悪いこともあるだろうが、どうやら彼女も父親となんらかの関係にあったらしく(しかも相手から一方的に関係を持ってきた節がある)、この時点で彼女の心は深く傷ついている。
 このあと、〈呪いの家〉でレイプされ、自分を襲った相手と家を飛び出したところから、彼女の物語は〈呪いの家〉のそれと平行していくことになる。しかし、これは彼女の物語を「呪いの家」という「事実としてはありえたかもしれないもの」と交差させることで、伝奇の手法を喚起するもので、もしそうならなければ、ほんらいなら少女の人生は「よくある不幸」などとして見過ごされていたものである。他人から見れば「よくある」ものであったとしても、当人にとっては「自分の世界の一大事」であり、そういうことを目に見えるものとして提示するのが「伝奇」の役割でもあるのである。
 ちなみに、この少女には、「聖美[きよみ]」という名前が与えられている。

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 ○つまり、『呪怨:呪いの家』は、「旧来の怪談物語をJホラーに昇華させたエポックメイキング的作品」の現代版アップデートであり(従来の「呪怨シリーズ」の系譜)、同時に、「昭和-平成凶悪犯罪史」を語ることで、怪異と歴史の融合するところに知られざる人のこころを浮き彫りにしていく「伝奇ロマン」であり、さらにいえば犯罪を通じて堕ちていく人のこころを描いて人間存在の本質に迫る「ノワール」でもあり、それらすべてを「人の運命を狂わせる呪い」というテーマでくくる、コンセプトのまとまったすばらしい作品である。
 これを大傑作といわずしてなんといおう。

 ○そして、この映画を、現実のわれわれの生活にあてはめるならば、この災禍もまた、〈呪いの家〉と同じものである。
 オリジナルビデオ版『呪怨2』は、『呪怨』での「〈呪いの家〉に関わると死ぬ」=「〈呪いの家〉に関わらなければ死なない」というテーマをひっくり返したところが、エポックメイキングであった。「〈呪いの家〉の存在する世界」では、呪いは〈呪いの家〉にとどまらず、時と場所を選ばず人々に襲いかかるようになったのである。このように、本邦の、伝統的な「ルールと不可分な怪異」をいちどは描いてみせてからひっくり返すことで、偏在する、ルール無用の地雷のような怪異を描いてみせたことは、あるいはグローバル化した新時代にふさわしいパラダイムを提示したのであろう(オリジナルビデオ版二作が発売されたのは二〇〇〇年である)。それをさらにアップデートした『呪怨:呪いの家』では、このイメージが補強され、超自然の怪異だけでなく、「凶悪犯罪」や、「人の人生を『思い描いていたもの』とは違うものにしてしまう、避けられない運命のようなもの」もまた、「呪い」であるとした。
 つまり、家庭環境や、親子をはじめとする人間関係もまた、人の人生を狂わせる「呪い」となるのである。
 とすれば、この「コロナ」もまた、呪いである。そして、その呪いの渦中で、さまざまな「弱っちくてちっぽけな人間(のこころ)」が、いまもあちらこちらへ押し流され、誘導され、翻弄されているのである。

 ○本日の、東京の新規感染者数は、二百九十人。


七月十九日(日)

 ○昼過ぎから岬に出かけて服を買う。仕事に着ていく、ジャケット代わりのベストを買った。冬にはジャケットの下に着ていくことにする。

 ○その後、久々にラヴクラフト「Quest of Iranon」の翻訳をする。できれば今月中に第一稿をあげてしまいたい。

 ○夜はいつもの「魚正宗」さんで夕飯とする。エビがでかい。

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 ○本日の、東京の新規感染者数は、百八十八人。
 昨日に比べて減少したことを喜ぶべきかもしれないが、これとても一過性の「波」であり、根本的な対策が講じられているわけでもない以上、静観するしかないのはこれまでと変わらぬのであろう。
 今週頭に都の福祉局が発表した、モニタリング項目の分析と総括を見る限り、重症患者が増えていないのが救いと言えよう。


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→「#34 『うぬ』」



参考・引用文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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