見出し画像

絵本から見る現代中国ーー唐亜明講演@遇見書房イベントレポート

7月23日に、私と段書暁が顧問を務める早稲田の中国語図書室「遇見書房」にて、日本と中国を股にかける、著名な絵本の翻訳者、編集者である唐亜明先生をお迎えして、ご講演いただいた。司会と絵本の朗読は段書暁が担当した。


当日の会場の様子

二冊の絵本(『一杯水』、『ぐるんぱのようちえん』)を中心に、絵本文化の歴史、日本と中国の絵本に対する意識の違いについて話していただいた。

それは親にとって、子どもにとって絵本とは何か、どのように子どもに絵本を読み聞かせるべきかという実践的で、きわめて身近な感心に沿った内容の講演になったと同時に、中国の文化に興味を持つ者にとっては優れた中国文化論、ないし日中比較文化論でもあった。

まず、どのように子どもに絵本を読み聞かせるべきかについて、唐先生は極めて実践的なアドバイスを提供した。読み聞かせる際、過度にキャラクターになりきるのではなく、あくまで普段のママまたはパパとして読み聞かせることが重要である。なぜなら、普段とは異なる声と表情で読み聞かせると、子どもの集中力は絵本の内容ではなく、親の変化に向かってしまうからである。

子どもにとっての現実と異世界の関係は私たちが考えているほど断絶しているのではなく、連続しているのかもしれないと聞いていて思った。

次に、絵本に関する日中の姿勢の違いとそれぞれの特徴について、イベントで朗読された絵本の内容に沿って語られた。

唐先生が編集を担当した『一杯水』という絵本について。


一杯の水はただの水なのではなく、視点を変えること、それに対するアプローチの仕方次第で多様な世界が現れてくる。例えば、モノを入れると屈折すること、コップを叩くと心地よい音を出す楽器になること、動物の体内の水分比率、水中の微生物、水道水がどのように家まで届けられるかということ……実に無限の水に関する物語が提示されている。

唐先生が中国語版の翻訳を担当した『ぐるんぱのようちえん』について。


ぐるんぱという象の子どもがさまざまな職人についてモノの作り方を学んだが、いずれもその規格が大きすぎて、実際の使用に向かないということで否定され、職人のもとを追い出されてしまう。しかし、最後ぐるんぱの作ったさまざまなモノ(靴、ピアノ、お皿など)が子どもたちの遊び場へと読み替えられていき、ようちえんの設備として新たな意義を獲得した。

つまり、絵本とは「現実とはこういうものである」という決まりきった常識に別の視点、別の価値の可能性を自由に提示できるものであり、そこから単一な現実を超えて多様な世界が現れてくると唐先生はいう。

こういった多様性の受容は経済的な豊かさと直結していると唐先生は言う。日本は50、60年代には絵本というものの価値が理解されていなかったが、社会が豊かになっていくに連れて徐々に受け入れられていったという経緯がある。

中国も似たような経緯を辿っているという。唐先生は80年代から絵本の中国における普及に尽力してきたが、絵本はその情報量の少なさ、教育的なメッセージの希薄さによって中国ではなかなか受け入れられてこなった。中国の親たちにとって、本というものは多くの知識を提供するものであり、そして人生や社会に関する教育的なメッセージを含んでいなければならなかったのである。

しかしながら、近年、特に2010年代以降、社会の発展、経済的な豊かさの実現とともに、絵本というものは徐々に中国の親に受け入れられるようになった。

イベント後に唐先生と雑談している時に、その変化はより具体的にはやはり「80後」世代が親になったことと関連しているだろうという話になった。

さらに、私は2000年代以降の中国文化を研究しているのだが、絵本に対する意識の変化は、『三体』を代表とするサイエンス・フィクションの台頭とほぼ同時期に起こっているのである。

絵本がある種の多様化した世界の見方を肯定するジャンルだとすれば、それが受け入れられるようになったことと、現実の解体と多元化した現実像を打ち出すサイエンス・フィクションの台頭との同時性は単なる偶然ではないはずである。

この記事が参加している募集

イベントレポ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?