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横浜の街から失われた港情緒が、メリー伝説に与えた影響

拙著『白い孤影』の終盤で書いたように、彼女のイメージはなんども変遷しています。

そのひとつはいまでこそ「終戦後のパンパン」の生き残りのように語られる彼女ですが、80年代当初は「ミナトのマリー」と呼称された、ということです。つまり米兵ではなく、マドロス(外国人船員)相手の女だと捉えられており、文字通り「ミナトの女の伝説を生きる最後の一人だった」とイメージされていたのです。

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〈六十代とおぼしきそのおばさんは、白いロングドレスに白いストッキング、おしろいで顔も真白で、全身これ白ずくめ。横浜、伊勢佐木町界隈をあっちへフラフラ、こっちへヨロヨロする様はさながら幽霊のよう。そう、この人こそ横浜名物〝白装束幽霊おばさん〟なのである。なんでもこのおばさん、かつて外人マドロス相手の女性だったとかで、港町を徘徊しては昔をしのんでいるらしい〉(『週刊文春』1983年6月16日号「ニュース足報」より)

彼女の伝説から「ミナト」が消えたのは、横浜や神戸から国際港らしさが薄れたことと無縁ではないでしょう。

「夜な夜なマドロスを誘っている」と噂された彼女が、「米兵相手に戦後の焼け野原の頃から立っていたが、最後まで現役にこだわりつづけた」という風に大転換する形で語り直されている訳です。

逆に「ミナトの女」から「戦争の犠牲者」になることで、横浜というくびきから解放され全国区になったのかも知れません。昭和の昔ならいざ知らず、「ミナトの女」では感情移入しにくいですから、幅広い共感は得られなかったでしょう。

もう若い世代には、横浜の街とミナトについて感覚的にイメージしにくいのかもしれません。昔の横浜を知る方々ならしっくりくるのでしょうけれど、しかし「ヨコハマメリー」関係のイベント参加者の多くが60代、70代であることを考えると、「ミナトの女」から「基地の街の女」への書き換えは、前期高齢世代の間でも違和感なく進んでいるように思えます。

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