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「土方巽 1960 しずかな家」アーカイヴ

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2014年11/8〜9に横浜・黄金町界隈で行われた野外プロジェクト「土方巽 1960 しずかな家」のオンライン・アーカイヴです
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#横浜

土方巽 1960 しずかな家-8/27

日活が横浜を舞台にした「無国籍映画」を量産していた時代、横浜の夜と言えばきらびやかなナイトクラブであった。ナイト&デイ、ブルースカイ、クリフサイドをはじめ、たくさんのナイトクラブが覇を競っていた。その様子は語り草になっている。

じつは黄金町(正確には対岸の若葉町)にも、「おしどり」という美空ひばりの弟(小野透)が経営するナイトクラブがあった。ナイトクラブで踊っていた土方巽と黄金町を上手く連動させ

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土方巽 1960 しずかな家-9/27

「大岡川」(テキスト・朗読:檀原照和)

この川は天然の河川ではなく、関内地区の埋め立てによって誕生した運河である。河口に近いため、潮の満ち引きに応じて流れが逆行することで知られている。

この川の流域で積み重ねられてきたドラマは、興味深いものばかりだ。

音声再生指定地点(画像の撮影場所)の住所は横浜市中区日ノ出町2丁目。
#黄金町 #大岡川 #土方巽_1960_しずかな家 #横浜

土方巽 1960 しずかな家-10/27

「極細」(テキスト・朗読:檀原照和)

音声再生指定地点(画像の撮影場所)の住所は横浜市中区初音町2-42付近。
#土方巽_1960_しずかな家 #黄金町 #横浜

土方巽 1960 しずかな家-11/27



ペッチャリー・ ガーヨード殺人犯のアナン・カムピーラ(「神奈川新聞」2005年3月19日)

終戦直後からじつに 60 年間違法売春が行われていた黄金町。2005 年 1 月この町を警官隊が包囲し、黄金町の歴史は大きく転換した。

日本人は色めき立ったが、黄金町一帯のタイ社会内部で大きな混乱が起きたことに目をくれようともしなかった。頼母子講をめぐる金銭トラブルでタイ人娼

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土方巽 1960 しずかな家-12/27

成田 護出演シーン

「土方巽 1960 しずかな家」〜音楽とダンスの分離・再統合実験 より 〜ダンスにおける新たな音楽聴取を試みる=無音バージョン

宮城聰(SPAC‐静岡県舞台芸術センター芸術総監督)は「動き専門の役者」と「語り専門の役者」の二人一役で一人の人物を演じるという手法を編み出した。

この作品では「音楽と動きを分離させ、観客が指定された音源をmp3プレイヤーで再生する」という手法を

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土方巽 1960 しずかな家-13/27

成田 護出演シーン

「土方巽 1960 しずかな家」〜音楽とダンスの分離・再統合実験 より 〜ダンスにおける新たな音楽聴取を試みる=音ありバージョン

宮城聰(SPAC‐静岡県舞台芸術センター芸術総監督)は「動き専門の役者」と「語り専門の役者」の二人一役で一人の人物を演じるという手法を編み出した。

この作品では「音楽と動きを分離させ、観客が指定された音源をmp3プレイヤーで再生する」という手法

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土方巽 1960 しずかな家-15/27

「医者」(テキスト・朗読:檀原照和)

空襲で焼け野原になるまで、野毛〜黄金町(正確には赤英町)一帯は、医者や富豪が多く暮らすお屋敷町であった。黄金町について書いた本や記事などでは、まず触れられることのない歴史である。

音声再生指定地点(画像の撮影場所)の住所は横浜市西区東ヶ丘66-1。
#土方巽_1960_しずかな家 #黄金町 #野毛 #横浜 #空襲

土方巽 1960 しずかな家-18/27

前頁のテキストは土方巽夫人である元藤燁子の著書『土方巽とともに』(筑摩書房 1990)よりの引用である。

元藤の著作は、彼女独特の空想が入り込んでいるらしく、細部において不正確であることが研究者や第一世代の舞踏家たちの間で知られている。

この公演を制作するにあたり、私は黄金町時代の土方巽について調べた。その結果、元藤の著作では「豆腐屋」となっていたアパートの大家が、うどんの製麺業を営んでいたこ

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土方巽 1960 しずかな家-19/27

「鉄温泉」(テキスト・朗読:檀原照和)

黄金町には1980年代まで温泉宿があった。

参考:横浜の奥座敷、かつて西区にあった幻の温泉宿「鉄温泉」ってどんなところ?[はまれぽ.com]
http://hamarepo.com/story.php?story_id=2725

音声再生指定地点(画像の撮影場所)の住所は横浜市西区霞ケ丘3−8付近(*横浜市中区赤門町 2 丁目 32 の階段を挟んで

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土方巽 1960 しずかな家-20/27



東福寺の山門をくぐると、突き当たりに閻魔堂がある。三人のダンサーがそのお堂の前で踊った。

東福寺と言えば、朱塗りの門である。

黄金町界隈では「赤門」とよばれ、親しまれている。徳川幕府からの許しがなければ山門を赤く塗ることは許されなかった。この事実から、格式の高い寺院だということが分かる。

現在は鉄筋コンクリート製の小さな門になってしまったが、戦前は御覧の通り。

写真は関東大震災で焼失

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土方巽 1960 しずかな家-27/27



野毛山山頂公園からの眺め。

ここが土方巽と黄金町を巡る小さな旅の終点である。

居留区のあった山手地区が欧米人の屋敷町であったのに対し、野毛山は成功した日本人たちの住む場所であった。しかし関東大震災により壊滅的被害を受けた野毛山は、公園に生まれ変わった。その後陸軍と米軍による接収を経て、現在に至っている。

高度経済成長期以前は、この丘から港が見えたという。

函館、サンフランシスコ、マルセ

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