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神仏習合・分離で「常念寺」←菩薩形立像@重文→「祝園神社」流浪仏!奇祭「いごもり祭」??

仏像にも時代でトレンドがあり、宗教では神道と仏教は長らく同じ(神仏習合)であった。激動の時代に流されず、時代に合わせて生き残った平安時代の仏像を追う!

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変更履歴
2022/01/29 初版

▼HP

▼アクセス・祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

▽常念寺 ※通常非公開「京都非公開文化財特別公開」

木津川市にもあるので注意。

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 薬師堂本尊「菩薩形立像@重文」は平安時代前期に作られたもので、精華町で最も古い仏像。

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 高さは約169センチメートルの一木造!!一木でこの大きさは珍しい。

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 この仏像はこの後に参拝する「祝園神社」に安置していた仏像で、一時期は左手に薬壺を持たせたり、明治の廃仏毀釈でこの寺に移されたりと時代の流れに逆らわずに、人々の思いで生き残った仏像と言えるかもしれない。さて、この菩薩を見仏した最終結論は聖観音に見えた。右手が長く、腰の位置などから湖北の流れを感じるが、妻は若狭で似た仏像があると言っていた。あったっけ??

 菩薩立像@重文も素晴らしいが、脇侍の不動明王と毘沙門天の玉眼の力強さも注目だ。そして薬師如来時代の名残か?十二神将が守っている。十二神将は、それぞれ七千の兵士を携えて84000の軍団となる。この数は人間の煩悩の数だそうだ。

 寺の入口は軽自動車しか入れない道で、駐車場はあるがその駐車場に停めれば出れないだろう(謎)。。寺の100mほど手前に臨時駐車場はあったが、行きすぎてしまい、突き進むと寺を越えて、融合できる広さの道を右手に曲がると町の運動場駐車場がある。寺の近くは氏子に大事にされた神社があった。

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▽祝園神社(ほうその): 精華町大字祝園小字柞ノ森1番地(祝園柞ノ森18かも)

 常念寺「菩薩形立像@重文」の故郷に来ました。

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由緒によると「770年に武埴安彦の怨霊を封じ込めるため」に創建。

 第10代崇神天皇の御代のこと。第8代考元天皇の皇子「武埴安彦」(たけはにやすひこ)が朝廷に反逆を企て、この地において討伐されたが、その亡魂が「柞ノ森」に留まり、人民を悩ませた。
 第45代聖武天皇神亀年間に、この亡魂を撲滅しようとしたが人力では太刀打ちできなかった。
 第48代称徳天皇の御代、神力によって撲滅せよとの勅命によって、大中臣池田六良広剛と宮城七良朝藤が祝部(ほふりべ)となり、神護景雲4年1月21日に春日の大神を勧請。創始された。
 斎戒沐浴祈願を行い、ついに亡魂をしたという。

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 祭神は「天児屋根命」、「タケミカヅチ」と「経津主命」と春日明神となっている。ここも割拝殿となっており、この地域の神社も京都だが奈良色が強い気がする。

↓大神宮なので伊勢神宮内宮と思う。

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↓熊野なので、スサノオ、イザナミ、イザナギかな。。

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↓熱田神宮なので三種の神器「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」だが実態はアマテラスの荒魂でよいかな。熱田神宮の本殿奥(左側)に奥宮があり、そこはアマテラスの荒魂だったので。まあ~相殿も含めると天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命になります。

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↓祈雨神社は難しい。雨ののでタカオカミなどに思うのだが、それなら貴船か丹生か龍神様をにおわす社名にすると思うが。。

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ということで、「雨祈神社」でググってみると。兵庫県にある!やはりタカオカミだった。延喜式に式内社・雨祈神社と記されており、そこから勧請したと思うが、この繋がりは何なのだろうか・・。(という感じで、行って確認しなければいけない神社が増えたな・・。)

そして、次のNOTEで謎は解けます!同じ神社がありました!!(明後日公開のため、まだ見れない可能性があります。この記事は閲覧できませんと表示されるかと( TДT)ゴメンヨー)

↓出雲神社・稲荷神社・天満宮・西宮神社
さすがに説明不要とする。

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 という感じで記紀オールスターズがいる感じですね。

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最後に、「いごもり祭」について役場のHPより紹介。

現在に伝わる奇祭「いごもり祭」も、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して祈願を行ったことに始まるといわれています。
文献では、「新抄格勅符抄」に「祝園神」の名が見えるのが最古であり、少なくとも、奈良時代には確実に存在していたと思われます。その後「延喜式」神名帳や「三代実録」に名が見え、嘉吉元(1441)年に書かれた「興福寺官務牒疏」には在僧2人、祝主3人、神人3人がいたことが記されています。
鎮魂祭なのかも?
 オホヒコノ命が越国へ下ったとき、ある少女が山城の幣羅坂で奇妙な歌を歌っていた。不思議に思って都へ戻り天皇に報告すると、「これはタケハニヤスノ王が反逆することを示したものだ。」として和珥氏の祖・ヒコクニブクノ命を派遣した。
 ワカラ河(現在の木津川)に至ったときタケハニヤスノ王が待機しており、川を挟んで対峙した。ヒコクニブクノ命が「そちらから開戦の矢を放て」と言うと、タケハニヤスノ王が矢を放ったが当たらなかった。今度はヒコクニブクノ命が矢を放つとタケハニヤスノ王に当たって死んだので、彼の軍勢は敗れて逃げ散った。また逃げる兵士を斬り屠ったのでその地を「ハフリソノ」と呼ぶ。

▼セットで行くところ

▼旅行記



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