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子供達の玉手箱

私の誕生日。

または、子供が大人になる迄、また子供達が一身上の都合でジムを退会する時。子供の多くが手紙を書いてくれる。

それは本当に、お金なんかじゃ買えないものである。。
子供がいない私には、何よりの宝である。

さて、世間は夏休みである。

小学生、つまりキッズコースの子は初級、中級、全日コース関係なく、夏休みの出来事を日記で書いてくる。

自主的なのか、トレーナーが言ったのか知らぬが、この日記を読む時の心境は、初めてラブレターを貰った時の様、ワクワクする。

先日退会した子は「会長大好きです」とかLINEでやり取りしてたが、辞める時「会長。お体気をつけて下さい」と書いてあった。

将来はヘルパーを雇わず、当番制で、私の身体介助をしてもらおうと思う。

私は本を読め、と子供に言う。

先日「どんな本を読んだらいいですか?」から始まり「会長の好きな魚はなんですか?」と記載された日記もあった。

日記の内容に正解、不正解はない。
全てその子の心が表れる。

恥ずかしいので口で言えない事を、日記なら書けると言う利点が、文章にはある。

私はジムに行くと一番に日記に目を通し、一言一言返事を書き、子供に戻す。

敢えて、なるべく一つだけ、この年頃には読めない文字を入れる。

もしかしたら、そうする事でやはり本を読まないといけない、と思う子もいるかな、と言う思いを馳せて。

子供は質問が多い。

全て答えを教えることはせず、少し考える余地を残す。
もしくはひとつだけ、少し難しい事を書く時もある。

そうする事により、自分で考え、それでもわからぬ時、質問する力がつけばいいな、と私なりに考えて。

会社経営をしてると、考えない社員は黙り込むものが多い。

会社は営利を出さねばならぬので、黙り込む前に質問、確認すべき所をしないから黙り込む。だから仕事を任せる事が出来ない。

そう言う社員はもう、教育しても無理である。
ダメなやつはダメと言う年齢になると、もう無理である。

だから、子供の頃から本を読み言葉を覚え、書く事を知り、将来自分の気持ちを論理的に言葉で言う行為は、本を読んでる者が強い。

親が全て否定するか、全て放置すると、子供は考えない。
手を差し伸べても、治らない子はいる。

こういう子は末恐ろしい。

狂ったくらいに物を考える行為を「痴」と言うそうだが、これ位考える方がいい。成功する者には、痴、が大なり小なりある。

子供の進歩は早い。

教える方は子供の成長と同じ速度で突き詰めないと、子供に追い越された時点で敬、の対象にはならないので、師とは言われない。

子供はいつも何故?と言う気持ちがある。

何故、がなくなるとファシズムとなり、悪しき例で例えると、過去の戦争の洗脳がまさにこれだと言える。

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ボクシングが急に上手くなる子は、この何故?という事を、脳と体で覚えるのが速い。

考えず体で感じる。

こう言うのがボクシングでは強くなるが、感じるとは何か?
つまり何故?と考えるから、素直に体で感じる事を覚える事が出来ると思う。

しかしボクシングはそうでも、ボクシング外の普通の生活では、中高生の間、やはり何故?と考えるのは、当然の事だ。

「会長。僕はこう思うのに先生はダメですと言う。何故これは悪いんですか?僕は正しいと思います」。

これを前回書いた確認、とも言うのだが、こういう質問のたびに、いつも思う。

圧倒的に中高生の子供が言う事が、先生のそれより正しい、と言う事実はちと悲しい、と。

だから私は、義務教育を信頼しないし、否定も期待もしない。

否定も信頼もしないから、私は教育を突き詰める。
自分の教育が絶対正しいと思うと、自分が終わる時である。

教師が子供に馬鹿にされる。
何故?

教師がそう言う疑問から逃げ、思考を放棄し、悩み続ける限り、答えは出ないと思う。

悩むんでは無く、師や師友に聞いて考え、実行するべきだ。

また政治がこう言う事に力を入れない限り、義務教育は子供の教育において、ベストにはならん、と思う。

子供と真剣に向き合うのが義務だと思うなら、やめた方がいい。

子供と向き合うのは先人に与えられた、とても素敵で幸せな、権利である。

権利は正しい思考に基づく、行使を行わなければならない。

いつもこんな事ばかり考える私は、相変らず「痴」である。
痴、ではあるが、楽しい。

だから人生、いつまでも私は幸せなのだと思う。


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