見出し画像

北アルプスとわたし(1)

この世に生を受けてから、どれだけ目にしてきたんだろう。
それはいつだってそこにあった。
聳えていた。

ここには山しかない。
いや、私には山しかなかった。

私が生まれ育ったのは、北アルプス(飛騨山脈)のちょうど真ん中、別名“信濃富士“とも呼ばれる有明山(ありあけさん)が、たぶん最も美しく円錐形に眺められる安曇野の東山の麓。
畑と沢を越えれば家の裏には豊かな里山が広がる。幼少期の私は爺ちゃんと毎日のように裏山へ分け入った。

小学校にあがった私を、母は毎年のように北アルプス登山へと連れ出した。
景色を眺めるなんてことはしない。その時の私の視界はせいぜい1m。ほとんど足元しか見ていない。
兄と競うように山頂を目指しては、駆けるように下山した。

母が登山を趣味にしていたかと言われれば、そうではない。
20代前半で兄と私を産み、父と別れて実家へ戻った母。同居していた祖父母からも、別れた夫からも、一切金銭的な支援を受けず、兄妹2人を育ててくれた。
あまりお金がかからない遊びを考え抜いた末、登山にたどり着いたらしい。
小学校卒業前には母と兄と3人で富士山の頂上にも立った。

この辺りの中学生は2年生になると、学校行事で本格的な北アルプス登山を経験することになる。
たしか爺ヶ岳に登ったはずだ。

私の通っていた大町市の高校では、修学旅行というものが存在せず、毎年の学校登山が山小屋泊付きで義務付けられていた。
1年生は全員白馬岳。2、3年生は小蓮華や針ノ木のような初級編から最高難度の槍ヶ岳縦走まで、レベル別に10コース程が用意され、各自好きな山を選ぶことが出来た。

コース選びの基準は“憧れの先輩と一緒“とか、“好きな人がいる“とか、不純極まりない。
学生時代の愛の告白と言えば“校舎裏“というイメージがあるが、この辺りの中高生のスタンダードは“星空の下の山小屋“であった。
わたしというと、気になっていた男子に夕食後に山小屋の外へ呼び出されたが、高山病のために保健の教師に背中をさすられながらゲロゲロと吐いていたために、結果無視することになってしまったという苦い経験がある。

3年生にもなると学校登山にも慣れたのか、大きな波田スイカを1玉まるまる担ぎ上げ、山小屋の外でスイカ割りをしている輩も存在した。(今なら怒られそう)

そんなこんなで、成人するまでの夏の北アルプスには、それはもうたくさんの思い出が詰まっている。

スノーボードに夢中になったのは大学2年の冬、20歳の頃だった。
4年生の冬には1ヶ月だけ栂池に部屋を借り、ゴンドラ中間駅のラーメン屋でアルバイトをしながら滑った。いわゆる“籠り“というやつを経験してみたかったからだ。

就職してからは、大町白馬小谷エリアのスキー場のシーズン券を買い、ゲレンデとパークを滑っていた。
雪が降るとパークのオープンが遅れるので、ゲレンデ内に積もる新雪さえ鬱陶しかったのが懐かしい。

ゲレンデ内で顔見知りが増えると、地元大町ローカルのお兄さんたちが「上手くなってきたから特別だよ。」と、こっそり沢や森へ連れて行ってくれることもあった。
けれども、楽しいとか気持ちいいとか怖いとかよりも「ツボ足疲れる…」「最後に川を飛び越えるの疲れる…」みたいなことしか感じられていなかった。(本当にごめん!)
スノーボードを取り付けられるリュックがあるなんて知らなかったし、ビーコンなんて単語を耳にすることも無かった。

当時、鹿島槍やヤナバのナイターには、仕事終わりの会社員(地元民)が毎日のように集まっていた。
そういったスキモノのOLや主婦である年上の彼女たちは、グラブを入れて360°回すなんて当たり前で、720°を完璧に立つ人もいた。(今はほとんどがスノーボードを辞めてしまった)

その誰かがゲレンデの外を滑っているなんて、見たことも聞いたことも無かった。

皆んな“バックカントリー“というスノーボードの世界があることはうっすら理解をしていたものの「上手くならないとゲレンデの外に出てはいけない」「パークもフリーランも、めちゃくちゃ上手くならないとバックカントリーはやってはいけない」そんな言い伝えが地元ローカルの中に存在した。

私なんかよりも何倍も何百倍も上手い先輩たちが、誰も“バックカントリー“をやっていないのであれば、私がその“資格“を手にすることは一生無いだろうと思っていた。

“バックカントリー”は遠い世界の出来事で、私にとっての北アルプスは、26才になるまでそれが全てだった。

それから時は流れ…

安曇野から見上げる北アルプスは視界に捉えられぬまま、春の立山を皮切りに長野や新潟、東北、北海道の山を自分の足で登っては滑り、数えきれないほどの思い出をつくってきた。

そんな私が厳冬期の北アルプスに初めて足を踏み入れたのは、34歳、一昨年の年末。かなり遅めのデビューである。
しかも、自分たちの手で作った“ハンドメイドスノーボード“でだ。私の人生にパルプンテがかけられた瞬間である。
人生何があるか本当にわからない。

あの頃よりもだいぶ経験は積んだけれど、今現在の私が、その“資格“を手にしたのかは未だに謎だ。

けれども地元カルチャーの呪縛から解き放たれ、私はようやく地元のゲレンデではない山々で、スノーボードをするという世界へ片足を突っ込むこととなった。

⑵へ続く…

この記事が参加している募集

山であそぶ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?