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生きるための狩猟と楽しむための狩猟。

現在、人口1000人を切る旧大野見村にも、かつて狩りの名手がいた。
狩猟を生き甲斐とし、狩猟を愉しみつくしたその猟師の姿は
現役の地元猟師にも重なる。
狩猟を経験している私自身の感触とともに、
娯楽としての狩猟を、どうとらえたらいいのか考えてみた記録。


幕末の土佐藩主に認められた猟師


 東の空が白みかけた朝まだき、凍てつくような霜柱を「サク、サク」ふみしめながら、西に向って進む狩り姿の一行があった。この一行は、ときの藩主「山内豊範公」に召されて、土佐の山野からはせ参じた狩人たちであった。

馬上には、狩装束もいかめしい「豊範公」が、今日の獲物に胸をはずませながら、土佐の各地から召しだした、「まとぎのつわものたち」のさいはいをふろうと、意気気高らかに駒をすすめていた。召された狩人たちは、晴れ舞台のこの狩りに、われこそ、よき獲物をしとめて、殿のおほめにあづかろうと、静かにしのぎをけずっていた。

山内豊範公。江戸時代末期の大名。土佐藩第16代(最後)の藩主。


 お留山荒倉の狩場(吾川郡弘岡荒倉神社の西方)には、冬の陽ざしもやわらかく、今日のお殿様の御前の狩りをことほぐかのようにおだやかであったが、刻ののちにくりひろげられる猪狩りの、男性的な狩場のどよめきが感じられた。
 
 今か、今かと殿の下知をまつ勢子たち(勢子:狩猟を行う時に、山野の野生動物 を追い出したり、射手のいる方向に追い込んだりする役割の人のこと)は、殿様「豊範公」の、狩りを始めよとの下知に満を持して引きしめていた。「猪ざき」(猪狩りに使う犬)をときはなした。 猪の「ハシリ」をかぎだしてはやりにはやっていた「猪ざき」は、 物に向ってまっしぐら!!さすがえりにえった土佐の名犬ぞろい、たちどころにねぐらに向って突進した。

やすらぎの寝場をおそわれた 四十貫(百五十キロの大猪は、おそいかかる猛犬どもをよせつけず、きばをむいて逆襲してくる。 荒れくるった大緒に、えりぬきの勢子どももたじろぎふりまわされて、手のつけようもない。 おりしも、勢子たちの一群からおどりでて、銃口を「ピタリ」と荒れ狂う大緒につけ、ねらいすました狩人がいた。おちつきはらったかの狩人は、頃あいよしと引き金をひいた。 獲物にむかっていどみかかる犬のほえる声!!勢子のあげるどよめきのうずまく荒倉の狩場に「ズドン」と、とどろく銃声!!
一瞬、「どよめき」はピタリととまった。


目をむければ、猛犬は一声高くほえながら、山の斜面によこたえた獲物に群がっていた。荒れ狂った四十貫の大緒は、名人芸にも等しい一発のたまが致命傷となり、しとめられたのであった。

土佐一番の狩人、家利さん

この狩人こそ!!誰あろう、幕末の頃の大野見郷の老役、熊秋(久万秋)村の下元家利さんであった。 土佐のあちこちから召された狩りの名手たちを引きつれた「殿様豊範公」の御前の狩りで、四十貫の大緒を一発のもとにしとめ、面目をほどこした利さんは、大刀一振を拝領し、土佐一番の狩人の名をほしいままにして、意気陽々と帰村した。
 

現大野見地区の地図

 家利さんは、文政一二年(1829年)大野見の旧家下元家に生れ、熊秋に住し総老役として藩政時代の公事を掌り、人民を支配する役にあった。 若い頃から狩猟を好み、幕末の頃、「千頭祝い」をしたと伝えられるほどの狩りの名手でもあった。彼は、役向きからもよく郷内に出歩いたが、彼の身辺から離れなかったのは、「火なわ」と「銃」であったと伝えられる程、狩りを好んだものである。それだけに、土佐きっての名手ともうたわれたものである。彼を語る人は、総老役の下元家利さんよりも、「狩りの家利さん」としての話題が多い。
 
 殿様の御前の狩りで、一躍名をなした彼に、ある年の暮れ、彼が手飼いの名「アカ」を差しだせとの命令が、豊範公より下された。「アカ」は、純土佐犬で近郷きっての「猪ざき」であり、家利さんのみならず家内一同の愛犬でもあった。 「アカ」を差しだすのは、誠に惜しい。家内二同思案の投げ首だが、当時飛ぶ鳥おとす藩守の命である。どうともなしがたく、涙をのんで献上することにした。 別れを惜しんだ母親のお京さんは、「アカよ、性根があれば帰ってこい。」と、いいふくめて殿様にさしだした。それからちょうど、三十日目に愛犬アカは、やせ衰えながら家利さんの手元にかえったと伝えられる。

狩猟を愉しみつくした晩年


 狩りの家利さんは、五十八才のとき失眼、好きな猟にもでられなり悶々の日を過したが、大正九年(1920年)、九十一才で他界した。 当時の人は、熊のたたりであるなどといったという。その頃は、熊をしとめたときには、頭を二つに割って山の両面に供え、山の神を祭るならわしであったが、家利さんは剛腹な人であり、なかなか進歩的なところもあり、そのような迷心 ぶったことにこだわらず、それをしなかったからだと伝えられる。 
とは、申せ、彼は、まっこと猟を好み千頭祝いをしたほどの名手でもあり、当時の男の子たちが好んで楽しんだ狩猟のだいご味をまんきつした人であった。しかも、御前の狩りに四十貫の大猪をしとめ、おほめにあづかったなど、藩政時代の名声をほしいままにし、火なわ銃の名手として、後世に名を残す生涯であったといえる。もって冥せよ。


 「あとがき」
 大野見郷は、山が広く、深いだけに、小鳥の類からきじ、山鳥をはじめ、兎や猪、鹿など大物の獲物に恵まれ、猟が盛であったと伝えられている。約二百三十年位前の寛保三年の調べで、郷内に九十二丁の火なわ銃があったほどで、なかなか猟を楽しんだようである。 前記の「家利さん」のような、名人にもひとしい狩りの達人が生れたのもまた然りといえよう。
 大野見の猟は、古来、生活の糧としてではなく、娯楽の少ない山村の農閑期の楽しみであり、男性的な遊びでもあったようである。
 狩猟にまつわるもろもろの話題や、別け前のしきたりなど、いろいろあるが後日にゆずりたい。 狩猟についての知識の乏しい筆者の誤記あればお許しを願う。

【出典】
1972年5月 第74号 広報 大野見
(発行 大野見教育委員会/編集 大野見村広報委員会)




【考察】娯楽としての狩猟は倫理的に悪なのか


現代にはあまりなじみのない狩猟。
狩猟は狙った獲物を鉄砲か罠、ほかの仕掛けを利用して野生動物を仕留める非常に残酷な行為である。

ふさいだ手を突き破ってくる銃声音、
木棒や鉄パイプで獣の眉間を叩く人間の力強さ、
今にも襲い掛かろうとする殺気立った獣の形相、
動脈に鋭利な鉈を突き刺したときの鼓膜に張り付く雄叫び、
動脈からはじけでてくる真っ赤で生温い血、
それでもなお続く喘鳴。

それらはシステマチックで美しさによって彩られる発展した人間社会の表層には現れない、カオスで理性の入る隙を与えない、動物的な営みである。

その圧倒的な暴力性は、「いただきます」という感謝や弔いの一言で相殺されるほど単純で礼儀正しいものではない。

200万年前から人は、生きるため貴重なタンパク源として狩猟を行ってきた。家畜が登場したのは1万年前であるから、人の進化の過程において、そのほとんどの時間は狩猟や採集によって命をつないできた。

生きるための狩猟は真っ当な行為に聞こえるが、
楽しむための狩猟には、どこか後ろめたさがある。

特にアニマルウェルフェア(動物福祉)の視点から見ると、
狩猟を娯楽として楽しむなんてもってのほかだ。

しかし、生き物を殺すことに対する倫理観の違いは、
物質的豊かさの変化による部分が大きい。
(信仰する宗教が違えば、生命観や自然観のズレもあるかもしれない)

Netflixを見ながらご飯を食べ、Spotifyで音楽を楽しんでいる現代人と、
山・沢歩きを常とし、狩猟を娯楽としていた人々。
どちらが倫理的で高潔なのか。

エンターテイメントの外部化が当たり前になりすぎて、
娯楽としての狩猟を異様に感じてしまうのは、物質的豊かさ故なのではないかと思う。

(アメリカのマッチョイズム溢れる娯楽的狩猟はここでは触れないでおく、、)

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