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K君のおかあさまへ3)ひきこもり、こじれた場合

 こんにちは。ご無沙汰しております。
 お手紙を送らせて頂くのも3度目となりました。K君はどんな様子でしょうか。そしておかあさまもお元気でいらっしゃるでしょうか。

 さて、前回は…なにはともあれ、K君との関係性をたいせつにしてほしい、というお話をさせて頂いたのでしたね。そうでした。早期解決を焦るあまり、K君の意思を無視したり、悪質な不登校・ひきこもり支援団体に引っかからないようご注意を…というお話をいたしました。
 そうですね…、こころの赴くままにお話しさせてもらっていますが、なるべく緊急性の高そうな内容からお話させて頂いているつもりです。なので、前のお手紙も、ぜひまたご覧になってくださるとうれしいです。

 今日は…、そうですね、前回のつづきだと、フリースクールについてお話ししようかな、と思っていたのですが…。
 ひょっとして、おかあさまは、もはやそれどころではなく、K君との関係性が、もうすでに、とてもしんどくなっていらっしゃる状況かもしれませんので、まずそちらからお話しようと思います。
 例えば…、暴力沙汰のケンカになるとか、一方的に暴力をふるわれるとか…貯金を勝手に引き落とすとか、そういう…権力闘争、というのでしょうか、もう、無秩序状態、なんど警察を呼ぼうと思ったことか…夫も頼りにならないし…(それどころか、夫からも責められるし…)。というような、状況だとしたら、それはもう、とてもしんどいと思います。ほんとうにつらくて苦しいと思います。
 そういう、関係性がこじれにこじれてしまった場合は…、そういうケースで、前回お話しした、暴力的な手段もいとわないような、「ひきこもり支援団体」に一抹の望みを託してしまいたくなるわけですが、それは少し待って頂きたいのです。
 K君は、今はおそらく、人間不信の絶頂で、だから、「自分は無価値だ」「将来も真っ暗」「周りは、恐ろしくて危険なことばかり」という世界観で生きていると思うのです。だからこそ、外部からの刺激がすこしでもあると、非常におそろしく感じて、過剰な防衛反応に出てしまう、という…。人間は、そういう心理状態になると、ふつうの出来事も、ふつうではなく感じてしまって、そして、常識的にありえないような行動に出ることがあるのです。おかあさまにとっては、ふつうの生活空間のなかの、かすかな物音でも、K君にとっては、戦場のなかでの物音、迫りくる危機のしるしのように感じる場合もあるかもしれません。
 なので…、K君は、そういう世界に生きているので、きっと、生きているだけで苦しいのです。まわりの環境の少しの変化が、なにか重大な予兆、見逃してはいけない、なにかのサインのように感じられたり…。

 わかったような口をきいてすみません。でも、もしも、K君との関係性が、そのくらい…、その、容易には修復できそうにないと途方に暮れるくらい、しんどいものだとしたら、ひょっとしたら、K君はそのようなメンタルの状態なのかも…と思いまして…。いえ、あくまで、わたしの推測であって、たしかなことは言えないのですけどね。
 これはわたしのケースなのですが、わたしも、大学の時に、メンタルをやられてしまったことがあるのです。自分や、他人が、なんだか形のはっきりしない、よく分からない奇妙な、そしてなんとなく不穏で恐ろしい存在のように思えてしまって、挙動不審になってしまったり、普段通りの行動がなぜかできなくなってしまったりしたことがあります。その時は一人暮らしをしていたので、親に対して暴力をふるうことはありませんでしたが、電話で恨み言を言ってしまったり、親から「仕送りを止めるぞ」と脅迫を受けているように感じていました。
 どうしてでしょうか、精神的にきつくなってくると、まわりの人がみな敵のように思えてしまうんです。敵、というか…、みんながわたしのことを疎ましく思っていて、迫害しようとしているように感じてしまうのです。親が心配していろいろ身辺のことを聞いてくれても、食事のことを心配してくれても、尋問や、詰問のように感じて、責められていると思っていました。人間が、すべての人間が、恐怖の対象でした。
 だから…。もしも、K君が、常軌を逸した行動に出てしまっていて、まわりの人たちにとって、K君が恐ろしくて仕方がない存在に思えてしまっているとしても、それは、きっとK君自身が、世界に対して、人間に対しておびえている証拠なのだと思います。K君の暴力に、こちらも暴力で対抗していたら、「やっぱり、まわりの世界は危険なんだ」と、K君は人間不信を強めてしまうように思います。

 さて、K君が苦しいのは、まあ分かったけど…、K君とかかわるのも、同じくらい苦しい、具体的にどうすればいいの? というのが肝心だと思います。
 これは、ひきこもり専門家の斎藤環先生の受け売りなのですが…、そうですね、たとえば、ひきこもっている子どもが暴力的な行動に出た時は、警察を呼んで、第三者に対応してもらうのがよいのだそうです。絶対に、暴力を甘んじて受け入れないでください。第三者が、家庭に介入することによって、密室化していた状態に、風穴があいて、状況が変わってくる場合が多いそうです。わたしは、実際にそういう場面に立ち会った経験がないので、受け売りで申し訳ないのですが…。
 「黙って暴力を受け入れるのも、愛」なんていう人もいますが、そういう人は、実際に暴力を振るわれたことがないのではないかな、と思います。「親に暴力をふるってしまった…」という経験も、子どもにとってはショックだし、後で自分自身が嫌になります。やはり、子どもにとっても、親を否定することは、その親から生まれた自分をも、部分的に否定することですから、あまり回復にいい影響は与えないように感じます。

 正直に言って、「自分がこんな人間に育ったのは、親のせいだ!」という思いが、ないわけではありませんでした。いえ、というより、メンタルが不調だったころは、とても強くありました。わたしがこんなに…他者とかかわるのが苦手で、愛嬌がなく、いろいろと社会にスムーズに溶け込めないのは…、やはり、親の育て方、といいますか…、親自身のコミュニケーション能力が低かったからだ、とか、思っていました。
 まあ、人のせいにして、「自分のせいじゃない!」と言いたかったわけですが…。でも、そうすると、「親の子育ての失敗のせいだから、もう取り返しがつかない」という結論に至ってしまうのですよね。それが、どうにも、困ったことでした。もうすでに、終わってしまった過去の行為に原因があって、しかも、自分のせいでもなく親の、他者の行為のせいなのだから、自分では解決しようがないように思えてしまうのですよね。自分が免罪される代わりに、自分の無力さがじわじわと心をむしばみ、やる気を削ぐわけです。

 しかも、親を責めるのは、子どもだけではないのです。子どもが引きこもると、世間体が悪くなる、と、よく言われますね。あと、夫にも責められがちではないでしょうか。「子育ては、おまえの担当だろ!」みたいな…。
 日本社会の風潮として、あまりにも、子どもの行動の責任を、親に、とくに、おかあさまに背負わせたがっているように思います。それで、子どもも、おとうさまも、おかあさまも、「(自分がひきこもっているのは)親が悪い」「妻が悪い」「自分が悪い」と思ってしまうのではないでしょうか。

 しかし…、子どもがひきこもって、いちばん不利益をこうむるのは、子ども本人のように思います。だって、外部と接触できなくて、社会から得られたはずの、人間関係や、お金や、経験や、そういうものが…得られないわけですから。
 一方で、ひきこもっていて、いちばん利益を得るのも、子ども本人です。なんといっても、怖い外部と、接触しなくていいわけですから…。

 なにが言いたいかというと、ですね。
 親が、子どもの将来こうむる不利益を心配して、あれこれと対策を考えてくれたり、いまから逆転ホームランで社会的なポジションを回復しようとしてくれたり…そういうのは、ありがたいのですが、でも、そうやって子どもを不利益から守ろうとするあまり、子どもとすさまじい権力闘争を繰り広げ、おかあさまが子どもから憎まれるなんて、割に合わないことではないでしょうか…。子どもを守ろうとしているのに、子どもから憎まれるなんて、なんだか、損な役回りとしか思えない…。
 だから、そういう…損な役回りは、引き受けない方がいいと思うのです。子どもは、もしかしたら将来、社会から不利益をこうむるかもしれませんが、それは、「社会から」なのです。「親から」不利益をこうむる必要はない。親は、社会からの不利益を予測して、それを避けようとして子どもにあれこれ言うのだと思いますが、そうすると、子どもから怒りを向けられてしまいます。そうではなく、「社会から」不利益をこうむって、苦しんだり、傷ついたりした子どもを、なぐさめたり、助けたりするポジション…、理不尽な社会に対して、いっしょに戦うポジションを、親が進んでとりにいく必要があるのだと思います。

 なんといっても、親のニーズと子どものニーズは違うのです。親は、子どもが厳しい社会をうまく渡っていけるように、つよく育ってほしい。子どもは、「なんの意味もない、クソみたいな」社会から撤退して、おだやかに過ごしたい。きっとそういうことなんだと思います。
 確かに、いままで社会に参加することによって、たくさんの利益を得てきたお父さまお母さまからしてみると、社会に参加しないということ自体、大問題で、不安なことだと思います。
 しかし、お父さまお母さまの考える、常識的な…今まで通りの、ふつうの…生き方以外にも、生き方はいろいろあります。たとえば…高校にいかなくても、高卒認定試験に受かって大学に入学し、でもその大学も中退して、外国を放浪し、中東の大使館で働くことになり、現在は中東研究者として大学教員をやっている人…とか(大学の時にそういう先生と出会いました)。大学中退、その後ニートとフリーターを繰り返し、30代に入って一念発起して小さなカフェを経営、とか(知り合いです)。うーん、結構、常識の範囲内かも…。
 でも、もしかしたら、我が子がそのような人になることは、あまり想像できないかもしれませんね。わたしの場合は、親も親戚もみな教員・公務員・銀行家という、すごく保守的な…といいますか、常識とか良識とかが大好きな家庭で生まれ育ちましたので、親はわたしが少しでも家風に沿わない職業になろうとすると、全力でそれを諦めさせようとしました。しかし、最近は、わたしが教員・公務員・銀行家にはなれそうにないと気づいたのか、やっと他の職業でも妥協してくれるようになりました…。社会には、ほんとうにいろいろな職業がありますが、結局、親自身も、自分の業種のこと以外は、それほど詳しくはないのだと思います。
 もうちょっと、常識はずれな生き方だと、そうですね、無職でホームレスだけど、貴金属を拾って換金して収入にしていて、月収ウン十万とか…。これは、坂口恭平さんの本で読みました。ホームレスの人も、すごく不幸せそうに生きている人から、とても満ち足りて生きている人まで、いろいろなんだなあとびっくりしました。けっこう、世の中にはいろいろな人がいるんですよね。あと、生活費に困ったら、世帯分離して、生活保護という手があります。ぜいたくをしなければ、月10万でも十分生きていけますから、そういう生き方もありだと思います。

 そうですね…でもやっぱり、子どもは、まあ、親がなんの抵抗もなく好きになれるような人間に育てたい、というか…。ちょっと、いきなり「満ち足りたホームレス」になっちゃっても、おかあさまは仰天しちゃうかもしれませんね。まあ、たしかに。せめて、カフェ経営とか、外国放浪までにとどめておいてほしい…というのが、本音かもしれません。

 そういう話に比べると、フリースクールは、まだ「希望」がある、というか…子どもが、常識の範囲内に収まってくれる可能性が、まだあるのではないか、と思わせてくれる、魅力的な選択肢だと思います。現在のフリースクールは、プログラミングに特化したりとか、そういう…なんでしょうね、ひきこもりや不登校の子どもに、労働市場における「付加価値」をつけるといいますか…、社会を渡っていくための、大きな武器を身につけさせるような教育施設も、多いですから。やさしい先生と、カウンセラーと、チューターつきで、サポート体制もばっちり! みたいな…。
 まあ、そういうのも…全否定はしないのですが、やはり、それは、外部の人が「ひきこもり」や「不登校」の子どもに対して抱くイメージ…そうですね、パソコンは得意なんでしょ、とか、人とかかわるの苦手なんでしょ、とか…そういうのを元に作られていて、結局「ひきこもり」「不登校」の子どもを「社会で使える人材」にするための教育施設なので…やはり、こう、本人以外の人の欲望によるものであって、ひきこもりや不登校をしている本人が心から求めている学びにはならない可能性があるので、それほど根本的な解決にはならない場合もあるかと思います。まあ、そういう、別の学校も、通ってみたら楽しくて、結構元気になっていく、という例もあると思いますが…。
 結局は、現在の社会システムはそのままにしておいて、不登校・ひきこもりになって社会から外れてしまった人たちを、再び教育し、適応力をつけることによって、もとの社会に合流させようとする営みです。欠点としては、もとの社会の欠陥…たとえば、体罰やいじめをする教師が、なんの対策もなされないままそのまま社会に居座ってしまったり、いじめを放置する学校の体制がそのままになってしまったり、ブラックな労働環境、人間を大切にしない会社がそのままになってしまったり…。そうなんです、全部、社会からはじかれてしまった人間の方に原因があるのだ、「弱い」からダメなのだ、という前提で、対策を練っていると、社会の問題は放置されるのです。「炭鉱のカナリア」の例でいいますと、炭鉱に危険なガスが充満してしまっているから、いっしょに連れてきたカナリアが瀕死の状態になってしまっているのに、炭鉱からみんなで避難するのではなく、カナリアをガスでやられないように訓練して、再び危険な炭鉱に戻そうという…そういうことだと思います。

 すみません、大きな話になってしまいました。社会のほうが悪いにしても、なんにしても、ひとりひとり生きていくための生存戦略が必要なので、子どもに合うのならば、フリースクールでも、学校適応教室でも、なんでも利用すればいいと思います。
 しかし、それは、けっこう…、本人にとっては苦しいことかもしれません。初めから、「不登校の子ども」「ひきこもりの人」という風にみられて、援助の手を差し伸べられるべき存在として扱われるのは…、それは、最初からある意味では見くびられ、一人前の人間として尊重されず、可能性を制限されてしまっている、ということですから…。
 せめて、いちばんそばにいて、支えてくれているお母さま、お父さまからだけでも、「不登校」「ひきこもり」のレッテルに引きずられず、K君本人の可能性を、魂を、見くびらないであげてほしい、と思います。子どもは、親が思っているより、広くて深い世界を知っているかもしれません。文化的なセンスなんて、きっと子どもの方が数倍上ですよ(たぶん)。子どもの良さは、親の知らない部分、見えない部分にある…と思ってくだされば、おおかた間違いないと思います。

 今日も長々と、熱く(?)語ってしまいました。どうしても、不登校・ひきこもり問題のことを話すと、熱が入ってしまいます。あんまり過熱し過ぎて…失礼な物言いがあったり、気に障ることを申したりしたかもしれませんが、どうぞ、ご容赦ください。
 いろいろと大変なことも多いと思いますが、どうか、ご自分の体と心の健康を第一に、気分転換もたいせつにして、お過ごしください。
 またお手紙差し上げると思います。
 それでは、ご自愛くださいませ。

                           20XX年X月X日
                        やまのうえのきのこ

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