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もうそろそろ楽していいですか?(いや許可いらないけど)

ここ数ヶ月、羅列がたりないくらい調子が悪い。

あっちおかしいと思ったら、今度はこっちが不調。しかも分単位で症状が変わる。

午前中走れてたのに、夕方固まる、みたいな毎日が続いています。

正直、「え?これなんか病気?」って思いますよ。でも調べても血液も心電図もレントゲンも問題なし。

これでしつこく受診すると、困ったときの「自律神経」やわからないときの「心身症やストレス」で済まされてしまう。
ほんとになにかあったときのために最低限の数値確認のためだけに受診しています。(ほんとはこういうの体調悪いほうが読んで考えることじゃないとおもうんだけど、それはまた別のはなし)

かれこれ20年のストレス麻痺せいかつの所以か

20年ほど、ストレスをストレスと意識するとやっていけない現状があって、感覚を麻痺させていた部分があり、一時期はほんとに顔面麻痺にもなったし、感情があまり湧かなくてテレビをみても「笑い」のポイントがわからなくなったことも。

いまでこそ、だいぶ「感動」や「怒り」に対する感覚はもどってきたなとおもうので、「怒り」をかんじてアンガーマネジメントしなきゃとか思わらないです。感覚戻ってきてよかったー、血が通ってきた、と思うくらい。
もともと我慢強いからそんなに怒んないしね。でもその分溜めるのは溜めます。

ストレスタンクには結構いっぱい入る

結構な目にあったりしていても、意外とストレスタンクは持っていて、ひとつは「自分のエネルギーを奪う場所、人に近づかないようになった」というのも余計なストレスを増やさないひとつにはなっているのかもしれないけど、そもそも平常時のストレス度が高いから、新規ストレスさんを招き入れている余裕がないので、自衛手段のライフハックだと思ってる。

いや、タンクにはいっぱい入るのですが、それを請け負ってた「からだ」はやはり負担を常に感じていたわけで。

30年の右手の頚肩腕症候群らしき痛み。(試験の筆記が負担レベル)
左半身に鉄板入っている感じの硬化(20年くらい)
その他もろもろCS(化学物質過敏症)やらCFS(慢性疲労症候群)っぽいのやら診断を受けるところまで行けない(地方なのであまり専門としているところがない)症状がたくさんで、思い込みと言われればそれまでかも、だけどとにかく自分で調べてやるしかない体調をずっと抱えてきて。

うつ、なんて状態はデフォルトの感覚っていう感じもあるし、趣味や外食なに楽しいの、って思うし。社会についての怒りや変革意識がでてきたのはつい数年前から。ずっと抱えてはいましたが、「どうせ社会はかわらない」と虚無でいたから。マイノリティが声をあげたところで、ムダに資産や余力ある人にナナメ上の解釈されて潰されるだけだから、と。

まあ、こころはなかなかタフでも、からだが無理を続けていた。それを感じている最近で。

これ以上頑張らないようにとめが入っている感じ


アドレナリンが出ると、問題解決までエネルギーを使い続けてしまうので、強制的に「動けない」状態にされている感覚があります。

最低限、優先度はなんなのか、考えないと処理できない。そして、たぶんこの体調不良がなかったら、エネルギーもゼロに近いのに、「頑張る」方向で走っていた気がするのも事実。

自分だけではなく、他人の人生の責任も「自分のせいな」気がしてしまう。お世話好きという意味ではなく、現実問題としては現状を把握して、適当な対処は(意外と現実主義なので)できます。

ただ、感覚優位でもあるので、その理論的な判断について、あとから、これで良かったのか、もっと違うふうにできたのじゃないか、とか自分が関わらなかったら違う方向にいくこともあったんじゃないか、とかすべての可能性に責任?というか感情が残ってしまう。

まわりどころか、わたしは幕末の志士とかにまで同調してしまって、「国を変えるために命を懸けていったのに、現状日本がこんな状態で申訳ない!だからちゃんと生きなきゃ」って思い続けてしまうタイプです。

それがイキガイとなって活力に働けばいいのでしょうが、他のストレス要因を抱え過ぎた自分には、もうなにかに影響されなくていいんじゃないか、って思ってます。

楽になりたい

はふたつの意味があると思います。どっちに向かうかってそんなに大きな差はない気がしていて。
別に楽しいこともないんですよ。苦しみたくないだけで。(苦労じゃなくて苦しいのが嫌)

自分を捨てるか。
社会を捨てるか。

わたしは体の痛みを抱え過ぎたことで、身体感覚がたぶん強い。そうすると、身体の存在を傷つけるものに対しては過敏、というか治すように楽なように日々苦労しているので、それを傷つけて神経痛とかこれ以上増やしたくない。それで自傷とかには向かないのだと思います。

不健康だったことが逆に身を守っている。
最近の不登校も、学校社会がICTだ、自学の力が、うんぬん言っているときに、そんなのもうしっかりと身についとるこどもたちだわ!

っていう。

プラスはマイナスなこともあり、マイノリティとマジョリティもいつどっちがどっちかは流れ次第。

わたしはたぶん、愚直に理想的な社会を求めて文句言いながら、ちょっとエネルギーがたまったらちょっと動いて、でも

社会を捨てる

ほうを選ぶ。引きこもる。ノマドする、それが可能な生活の仕組みを考える。

幕末の志士に想いを馳せるなら、自分の時間はTime is moneyなので、資産があるひとや強い立場のひとと比べても、弱者も同じ価値の時間を持っているので、それをちゃんと「自分で」使う。
もっといきたかったとか、もっと違う人生が、っていう他のひとの人生は他のひとの責任で、そこまで入りこむ必要も権利もないけど、だからこそ、自分の範疇での「自分の時間」はちゃんとマウンティングのためとか、他人に見せるためとか、権威のため(自分がほんとに権威を欲しいという目的の場合は別)とかにイキガイすり替えしないで、使っていきたいな、と違うのに使ってる暇ないじゃん!ってようやくベクトルが自分に向き始めたところです。

自分の土台を固めてから、周り、社会へ。
しばし、社会を捨てて過ごしたいと思っています。

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