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飲食ベンチャーで25歳で部長になった男  それと50歳で亡くなった父 〜中学生前半〜

前回は小学校くらいまでをざっとお話して父親がタイ・バンコクに店をオープンしたところまでお話しました。

タイに店をオープンしてからどの1年位は全く売れていない状態で相変わらずなんとなくお金が無いのが伝わる状態が続いていました。
そんな中父親が日本に戻ってきて数週間でまたすぐに戻るということが続くようになります。

この時実は最後の賭けで30万円どうにかかき集めてチラシを準備してタイで配ったそうです。
それにより当時は寿司という文化がほとんど伝わっていないタイで注目を浴びで認知をとり売上を立つようになったそうです。

それにより私の家庭にはお肉が自然とでるようになって来たのを覚えていますしいきなりスマホをかってくれたりしました。
多分お金がある程度入ってきたのでしょう。
ここで筍とはおさらばです。

この時期のせいだと思いますが実は筍が食べ過ぎて今現在は嫌いになってしまっています。
こうやって思い出すと今とつながっているなと思います。

余談ですがタイに当時のクレイジーな文化を共有します
まずオープンしたての頃おそらく日本でいう営業許可のようなものがなく法的にグレーな感じであったことを脅しにつかって毎日警察がタダで飯を食べに来て金までとっていったそうです。
なのでしっかりと書類を揃えて待ち構えて食事を済ませた時に見せつけたそうです
タイは物価が低かったので寿司は月給以上の値段だったので震え上がっていたのが良かったそうです。

空港で持ち込んでいい煙草の量を超えてタイに入った際にわざとエリアに外まで泳がされて出たところを捕まり賄賂を要求してくることは多々あるそうです。

あと従業員がタイの免許センターで受験する際に試験官に何万円か渡すと答えをすべてくれて大型〜バイクすべてゲットできたそうです。

お店に財界まで影響力があるくらいの要人が店を利用するようになり、その人の家に遊びに言った際に銃が飾ってあってそれは軍から人を殺してもすべての責任を国が持つとされている銃があったそうです。
日本ではありえない話ですよね。

当時のタイという国は基本お金で解決できる国と教わりました。
こういう通常ではありえない話は山程きいており自分の感性を特殊なものに変えていったのだと思いました。

そしてお店は軌道にのり2号店をオープンしタイで1番と言われる位有名な店になりました。
サッカー日本代表や王族や俳優など大勢が利用したそうです。

サッカー日本代表のユニフォームにメンバー全員のサインをしてもらったものがありましたが父親は自分が知らないような親戚にタダであげてしまいました。
本気で訳がわからなかったです。

それと日本で働いてくれていた社員を無期限で「タイへ行ってくれ」の一言で行かせます。
これで「はい」の一言でいく社員との信頼関係も今考えるとだいぶ凄いとおもいます。
弊社で同じことになったら行ける人はいないと思います。
結果としてその社員は10年以上タイで働きつづけて向こうで結婚しほとんどタイ人になってしました。

順風満帆になって来た矢先、父親が病気で倒れます。

ここで得たこと
①成功までやり続けたらなんとかなる
②世界は広く日本に常識は非常識に可能性ある
③金は命より重いことがある
④強い見栄

次回父親地獄の病気編です。


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