継体天皇が隠す真の王朝交代
やまとみずほの国に生まれて 第四十話
第三十九話「応神王朝の政権確立が内部闘争を着火」において、仁徳天皇から雄略天皇まで足早に語った。雄略天皇から中央集権体制が始まったと評価されるのは、第四話「紀伊は木の伊の国にして狗奴国」に書いた。吉備は、元々事代主が逃げた和歌山、海幸彦の国津神の拠点。邪馬台国同盟狗奴国は伊国極南界の長国。国譲り後、東の海を渡るが雄略天皇は和歌山を滅ぼす。
また丹波勢力の力を削ぐため 豊受大神を伊勢神宮へ遷座させた。天照大神が安らかに食事できないと呼び寄せたのは、外宮社伝に記される雄略天皇の夢枕。記紀に記録が無し。孤食が寂しいなら、内宮と外宮に分けて祀るのが不思議だ。伊勢神宮内宮へ天照大神を、外宮に豊受大神も封印した。ちなみに先にお参りする豊受大神が上ではない。外から内へ、下から上が順番だ。
雄略天皇引継ぐ清寧天皇は白髮命、磐余甕栗宮に遷都。雄略天皇の第三皇子なのに、御子ができないと履中天皇皇子の市辺押磐皇子の御子二人が、播磨で見つかると喜んで皇子に迎える。この頃の針間は讃岐だ。播磨灘を渡った兵庫県側が播磨になる。安康天皇が、皇后連れ子の眉輪王に暗殺される前。安康天皇は市辺之忍歯王に移譲する予定を、雄略天皇が狩りに誘い射殺す。
猪と間違えたと偽るが、麛坂皇子の悲劇を思い出す。そして播磨国風土記は市辺天皇と記す。雄略天皇が市辺天皇の記録を抹消した。そして清寧天皇を継ぐのが、市辺之忍歯王第三子の顕宗天皇、第二子の仁賢天皇は立太していたのに、天皇に就くのは弟の顕宗天皇が早逝した後、清寧天皇崩御後に兄弟で譲り合う。その間執政したのが第一子の飯豊天皇と呼ばれた飯豊青皇女。
葛城市忍海の角刺神社とにて執政したと伝わるが、飯の国の豊は天照に召喚した台与を想起する。顕宗天皇は袁祁王、近飛鳥八釣宮は奈良に近い飛鳥。袁祁は開化天皇妃の意祁都比売命を想起し、意祁都比売命は大宜都比売へのオマージュだ。仁賢天皇は意富祁王(おおけのみこ)石上広高宮も奈良か。意富祁王は出雲王朝の富家とも思わせるが、袁祁王に意富祁王は短すぎる。
清寧天皇も白髮命だし、武烈天皇は小長谷若雀命に泊瀬列城宮は、雄略天皇の大長谷若建命と泊瀬朝倉宮に仁徳天皇の大雀命をミックス。取ってつけたネーミングが続く。武烈天皇の日本書紀が記す悪逆非道は、古事記に記録されない。継体天皇は袁本杼命の磐余玉穂宮。記紀は応神天皇五世孫と記すが四世系譜は「上宮記」逸文を引用した鎌倉時代の「釈日本紀」に残るのみ。
三世意富富杼王は仁賢天皇の意富祁王に似て、四世乎非王は允恭天皇皇后の忍坂大中姫の甥で「おいのおおきみ」。五世彦主人王も開化天皇第三皇子の 彦座王とソックリ。二世の稚野毛二派皇子は応神天皇第五皇子。後継者争いがあり、応神天皇が寵愛し立太子したのは菟道稚郎子だが、応神天皇死後に仁徳天皇と皇位を譲り合い、またまた播磨国風土記に宇治天皇が記される。
古事記は菟道稚郎子を夭折、日本書紀は自殺までする美談。歴史は繰り返すというより、日本神話もネタ切れ。雄略天皇の後、継体天皇まで行政の記録がほとんどない。筑紫の磐井の乱に、継体天皇は手を焼くが行政ではない。古事記は磐余玉穂宮しか記さないが、日本書紀は紆余曲折し、樟葉宮で4年 筒城宮で7年弟国宮で8年も過ごし、磐余玉穂宮に入るが5年で崩御する。
遷都が多いのは、行政記録がないことのカモフラージュ。第22代清寧から顕宗、仁賢、武烈はもっともらしいが、漢風諡号は奈良時代後期の淡海三船の後付けだ。和風諡号が余りに安直だし、武烈天皇の後継が途切れたのも、とても奇妙な話だし、日本書紀は即位前にも紆余曲折。継体天皇より有力な候補者、仲哀天皇五世孫の倭彦王は迎えに来た軍隊を見て逃げ出し始末だ。
即位を説得するために、涙ぐましい努力も記される。だからこれまで多くの天皇が疑問視されるのに、継体天皇の実在性を誰も疑わない。王朝交代説は継体天皇以前、この後に王朝交代はなく万世一系が続き、日本は世界最古の国家とされる。出自を大きな謎にし、実在性を疑わせない高等テクニック。天照大御神から続く皇統にしたいなら、なぜ怪しい継体天皇を記したのか。
大きな嘘をつくとき、小さな嘘に注目させるのが効果的だ。大きな嘘とは、本当のあった王朝交代を隠した。天武天皇の壬申の乱は王朝交代説の候補。天武天皇皇后の持統天皇と藤原不比等が、日本書紀を都合よく改竄したが、天武天皇系統は称徳天皇にて途絶えて、大化の改新を行った天智天皇系統の光仁天皇へ戻る。即ち天武王朝へ交代したとしても天智王朝に戻っている。
雄略天皇後、清寧天皇も顕宗天皇も仁賢天皇も武烈天皇も幻、継体天皇も。
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