見出し画像

神武東征翻す熊野三山が徐福伝説を覆す

やまとみずほの国に生まれて  第十九話

中国地方で無かった戦いが突然始まるのが、神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑生駒山地の大阪側でよく長髄彦は迎え撃てたか不思議ですが、もっと信じられないのが神武天皇聖蹟男水門顕彰碑。長兄の五瀬命の死地は正確に記すために、単に寿命で亡くなった和歌山で死ぬ戦傷を受けます。お兄ちゃん殺した憎い長髄彦を殺してもしょうがないよねの前振りに思えてしょうがない。

戦いの後、紀伊半島を大回りするため、神武天皇聖蹟盾津顕彰碑から船出。三世紀には河内湾は潟湖で航海できないのに船行にするのは、長髄彦の先祖である饒速日の歴史をパクリです。南ユダ王国と共通する三種の神器に対し十種神宝は北の失われた10支族を想像させます。しかし最も信じられないのが、饒速日と長髄彦妹の登美夜毘売の子である宇摩志麻遅物部氏の祖。

物部氏の祖が確実な伊香色雄伊香色謎命の兄妹は、伊加加志神社に祀られます。神武東征後に奈良から阿波へ転居するでしょうか。もっとひどいのは神武東征は大元が徐福である物部氏の東征と言う、出雲大社に伝わる口伝。大国主を封印する出雲大社へ、天皇家から派遣された宮司の口伝は、記紀と全く違っても、阿波邪馬台国を隠す目的は同じ。しかし語るに落ちました。

やっぱり紀伊半島を大きく迂回して熊野川を遡るのは徐福伝説を消すため。実際に徐福が渡来していなくても、奈良の神山を徐福の子孫と名乗る豪族が支配していたら、紀元前660年即位にしたい大和王権には言語道断です。神武天皇聖蹟熊野神邑顕彰碑のすぐそこに徐福上陸の碑徐福の墓を中心に徐福公園が有りますが、新宮に留まったことになっていて消去大成功です。

第十話挿話「倭女王と狗奴国王の不仲は連合国の根拠」にも書きましたが、第10話「天照と素戔嗚の誓約は女王と男王の確執」にて支配下に置いた、五男の熊野久須毘命は、紀の川市熊野神社から熊野三山にも祀りました。熊野は元々紀の川沿いで、神武東征が紀の川を遡ったことを隠しましたが、徐福が熊野川を遡ったのも上書きします。一石二鳥の実にうまい手法です。

寧波を出航し黒潮に乗って見る那智の滝は、蓬莱山への誘い水、いざない。

#日本史がすき

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?