見出し画像

夢を追いかけた人生と、夢を作りたい現在の話。

小さい頃から夢を描いて生きてきた。人は何になりたいのか、その思い描いた理想の自分になることは出来るのだろうか…と不安になりながら毎日を過ごしていると思う。あなたは将来、何になりたいですか?

僕は小学校のころ、プロ野球選手になりたかった。平日の夜にテレビで放送されていた巨人戦を観ては、玄関を飛び出して、真夜中の道路でプロ野球選手のモノマネをしながら素振りをした。最終回、一打逆転のチャンスの場面で自分の名前がコールされ、拍手喝采。ヒーローインタビューを受ける自分を想像しながら、ニヤけた顔で素振りをしていた。1人で夜を楽しんでいたのだ。

中学生になって物心や思考力がついてくると、自分はプロ野球選手には到底なれるわけがないと悟った。世の中のレベルや常識というものを把握していくにつれて、プロ野球選手になりたいという夢はいつの間にか消え去り、自分は一体何になるために生きているのか、わからなくなっていた。

ちょうどそのころ、学校では「将来の夢を考える」という宿題が多くなった気がした。何かとあれば、「君の夢は何か」「20歳になった時にどうなっていたいか」を聞かれた。サッと答えられない自分に嫌気が差したが、プロ野球選手!!と元気に答えられるほどの度胸も野心も無くなってしまっていた。でも野球は大好きだったので、楽しみながら野球部での部活動を一生懸命に続けていた。

ちょうどそのころ、「君は学校の先生に向いているね」と、担任の先生に言われた。英語の先生にも言われた。理科の先生にも、体育の先生にも。真面目に生きていた学生時代だったが「真面目」がたどり着くものは教師なのか…と幾分か勝手に自分なりの結論をだした。

人に教えることは好きだったし、先生になるといった夢は悪いものではなかった。周りの人に堂々と宣言できるものだったからだ(今思うと何の職業であれ堂々としてれば良いものの)。教師を目指して生きていくことを決めた。

高校生になって、より一層部活動に励むことになった。高校野球というものは、「野球漬けの毎日」とイコールして結ばれている。一年の中で、野球から離れるのはお正月の3日間だけ。それ以外は土日も文句なしで野球、文化祭の日も野球、監督が休みの日も野球であった。おかげで高校生活は、制服かユニフォームかジャージしか着ておらず、自分に服のセンスが無いことは、この時点では全くもって知らなかったのだ。


それから高校野球も引退を迎え、この先どのような道に進むのか決めなければならない時期がきた。僕は教師になりたいという夢を変わらずに持っていたのだ。勉強もろくにしていないくせに、夢だけは持っていた。笑ってしまう。得意分野ではなく、苦手ではないという観点から国語の教員を目指すことにした。笑ってしまう。大して勉強もしてこなかった中、生きているだけで培った国語力が自分の唯一の武器だったので、"国語科の免許が取れる大学の学部”という項目と"自分の学力でいける大学”という項目の2つをおさえておけば大学はどこでも何でもよかった。


大学に進学した。隣県に出向した18歳の僕は、開始早々にホームシックになった。1日目の夜に何も置かれてないワンルームの部屋から出ては、1人ですき家で夕食を終えてから、横断歩道の上からふと見えた街中の夜景を見て、涙を溢した。親も友だちも誰も居ないという一人ぼっちの現状に耐えられず、大学が始まる前にバイトを探し始めた。某飲食チェーン店でバイトを始めることになり、お金を稼ぐ大変さを学ぶとともに、早々にたくさんの友達をつくることができた。忙しかったが楽しかったし、社会というものを勉強している気持ちになった。飲み会もたくさん行ったし、吐くまで飲んだこともある。記憶が無くなるまで、朝まで楽しむことも多々あった。

そうやってこうやって遊びながらも、大学ではとにかく教員免許が取得できるように授業を埋め込み、単位を落とさない程度に講義に出席した。高い成績を残すことはなく、一般的な、平凡的な。ジメッと暑い夏休みも、グダった寒い冬休みも、何事もなく毎日が過ぎていった。そして夢に向かって特に頑張ることをしないまま、大学3年生の終わりを迎えていた。そして4年生になるころに焦りはじめ、とにかく急いで勉強をした。あまりにも遅いスタートに我ながら悲しくなるのだが、学力が徐々についていく自分に自信をもったときもあった。


教員採用試験に挑んだ。試験は一次試験に学力試験、二次試験に面接の試験が待っていた。なぜか学力試験には受かったが、面接で落ちてしまったのだ。一次が通れば、二次の面接はいけるだろって勝手に思っていた。足りないのは、人間性なのか、協調性なのか、はたまた人としての重みや経験不足な面なのか。落ちた原因は分からないが、翌年に常勤講師(単年契約)として、教師となった。先生になるといった簡易的で熱意が足りなかった念願の目標を達成することとなり「夢って叶うものなんだ…」とアホな顔しながら考えた。

しかし、それと同時に生きていく上での道標、つまりは夢を失ったのだ。「教師になって世の中の教育を変えたい…‼︎」ではなく、「教師になりたい」ということが夢だったので、この先に進む道が無いのだ。採用の内諾をいただいたあと、心の中がすっぽりと空いてしまったような、虚無感に近いものが身体に走ったことを今でも覚えている。目標を失った人間はどうしていいかわからないものだ。

なぜか喜びと虚無感とやるせなさと不安が自分の中で重なり合い、8畳の部屋で涙を流した。感情が不安定になり、とりあえず好きな音楽を爆音で流した。1人で自慰行為をした。何をやってもやる気の出ない、方針状態が続いた夜だった。


そこから大学を卒業して、1年間は教師の仕事をした。子どもたちと関わることが好きだったし。部活動で好きな野球を指導するのが好きだった。生徒からは若々しい元気がもらえて、自分も学生時代に戻ったような気持ちを味わうことができた。何なら少し若返った気もした。生徒に連れ去られ、昼休みに全力で鬼ごっこをさせられた。

それからそつなく仕事をこなし、1年が過ぎた。会社や社会との関わりを知らないこの「学校」という枠に取り込まれたまま生き続けていいのかなという考えが生まれ、僕は転職をした。若いうちに社会に揉まれた方がいいだろと思ったし、学校での夢も生まれてこなかったからだ。


それから地元の広告会社に転職し、営業の仕事をすることになった。毎日取引先の方に会う日々が続いた。名刺を交換して何気ない会話で空気を和ませる。ビジネス用語でアイスブレイク、なんでもかんでも横文字にしたがるのだなぁと社会と関わって初めて知ったことだ。人と話すことは得意だが、どうしても表面的な会話が主である。本当に相手に興味がないと話が続かないので売上をあげるために、受注するために、セールストークを覚えては繰り返す必要がある。何が本当の自分なのか、わからなくなってくる日々が続いた。

会社には自分よりも仕事ができる人がたくさんいた。人に興味を持てる人、数字に強い人、プレゼンがうまい人、一つのことに深く集中できる人、責任感のある人。何一つ敵うものなどなかった。子どもと仲良くなるのが早いスキルは、ビジネスでは使用するときがなかったのだ。「我すべて知ってます出来ますけど」なんてフリして、何食わぬ顔で生きてきて、スキルや経験が圧倒的に足りないことを学んだ。


僕は文字を書くことが好きだ。でも小説やエッセイをたくさん読んできた人生ではない。どちらかと言うと、小説っぽい歌詞の曲をたくさん聴いてきた。そこに影響されている。独特のリズムで書く文章は、刺さらない人には刺さらない、刺さる人には刺さっていてほしいという感情のもと、この子たちを発信している。

自分は何に向いているのか、今だに強く発言できない。自信をもってこれが夢です!って言えるものが見つかっていない。ただ文字を綴って、誰かの気持ちが動くなら、それは僕にとって快感の一つだ。ノックを打つごとに守備力があがっているのが目に見えるように。自分の言葉を受けて後輩のやる気がみるみるあがっていくのが見えるように。要所要所で、部分部分で自分がやりたいことが見えてくるようになった気がする。

これからどうしていくかは明確に決まっていないが、安定しながらも何かを見つけていきたいと思う。そしてこれからも僕は、文字を書きたい。感じたことや考えていたことを伝える手段として僕にとって1番向いていることだと思うからだ。

今まで必死になって探してきた夢は、本当は無くても良いことだったのかもしれない。気がついたら夢というワードに振り回されていた気がする。流れるように変わるものでもあるし、持たなくなって幸せはある。無理して考えたり、こだわったりする必要なんてなかったのだ。

ただ感じたままに生きて、想いを言葉にして、出会いに感謝して、やりたいことをみつけて、全力で目の前のことを楽しめばよい。

この文章を寝っ転がってカラムーチョを食べながら書いてる僕が言うんだから間違いないさ。

欲望のままに、己のままで

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?