「※個人の意見です」にみられるソーシャルな価値観への依存
さあみんな、今すぐ踊ろう!
いきなり妙なことを書いたが、この記事において非常に重要なので、覚えておいてほしい。
アフリカのハマル族という民族では、女性にはムチ打ちの儀式というものがあり、鞭でできた傷が多いほど愛されるいい女性だそうで。
参考:Africa Quest.com
ふたたび妙なことを書いたが、こちらも非常に重要なので、覚えておいてほしい。
では、本題。
○「※個人の意見です」とは、いったい何だ?
noteだけに限らず、あるいは文章だけに限らず動画なんかでも、何かしらの意見を述べたり感想を発信する際に、「※個人の意見です」という注釈が付けられることがある。
まず、この「※個人の意見です」というのがどういう意味かというのを解析していかなければならない。
当たり前のことであるが、「※個人の意見です」と注釈を入れれば、何を言ってもいいというわけではない。
虚偽の内容を広める行為や誹謗中傷は、個人の意見だからといって許されることではない。
あるいは、立場のある人間・アカウントでは、個人の意見なんかを述べるもんじゃない。
ハンバーガーチェーンの公式noteが、「ハンバーガー食うやつはみんなアホです。※個人の意見です」なんて書いていいわけがない。
ネット上に発信する場合だけでなくとも、例えば学校の教師、店舗の店員、あるいは公務員なんかでも、その立場と責任があり、「個人の意見です」なんて通用しない。
では、そうでない場合。すなわち、一般人としてnoteなりYouTubeなりで何かしらを発表する場合、それはわざわざ「※個人の意見です」なんて断りを入れなくとも、個人の意見に決まっているのだ。
だから、私は基本的に「※個人の意見です」なんて書かない。noteでは主にゲームや麻雀についての記事を投稿することがあるが、そんなのは全部個人の意見に決まっている。組織で討論した内容を責任を持って発表しているわけではない。
eSports界隈やプロ麻雀界隈に対して偉そうなことを書いていることもあるが、それも部外者が勝手に言っているだけだ。
私の意見が正しいなんてハナから思ってもいないし、影響力があるわけでもない。野球観戦で「ピッチャー代えろー」と言っているオッサンと同じだ。
○批判を回避する免罪符
「※個人の意見です」という注釈は、はっきり言えば、批判を回避するための免罪符として使われているように見えることが少なくない。
「色々と意見は主張するけど、それはあくまでも個人の意見なんで、批判・文句は言わないでください。みんなちがってみんないいんだよ」と。
気持ちはわかる。誰だって、否定も批判もされたくないし、文句を言われたくない。さらに言えば、めんどくさいやつに絡まれたくない。
しかし、そう書いておけば免罪符となり、批判や否定をする人間のほうが悪だというようなルールを制定できるわけではない。
先に述べたように、「※個人の意見です」と断っておけば、何を書いてもいいわけではない。
それは虚偽の内容や誹謗中傷だけに限らない、的外れな内容もだ。
ただの自分語りならばいいが、日常的なこと、社会的なこと、人々の価値観に関わるようなことを発信しておいて、そしてそれが的外れな内容であれば、「※個人の意見です」と書けば批判されないわけではない。
例えば「年収1,000万円ないやつは生きている価値がない ※個人の意見です」なんてのは、明らかに的外れな内容だ。日本の平均年収を鑑みればすぐにわかる。
自分が年収1,000万円になりたいとか、そういう人と結婚したいというのならば個人の意見だろうが、「一般的な・社会的な正義」のような内容として発信しておいて、それを「※個人の意見です」と言うのは無理がある。
一般論や正義論のようなものを述べたいのならば、自信を持って正しいと思うことを主張すればいい。そんなのは個人の意見に決まっているのだから。
もちろん、間違っていたり的外れであったら批判される。発信するというのはそういうことだ。
さて、本当に「個人の意見でしかない」のならば、「※個人の意見です」と書く必要などないはずだ。
しかし実際には、どうやらそうはなっていない。
それは主張する側ではなく、受け取る側の価値観が「個人の意見」になっていないことが原因かもしれない。
○ソーシャルな価値観への依存
雑に言うと、「他人の意見を気にしすぎる」というだけの話だが。
散々述べているように、基本的にはほとんどの発信は個人の意見なのだ。noteに書く人間だって、わざわざ「※個人の意見です」なんて書くほどに、個人の意見なのだ。
しかし、受け取る側の価値観がそうなっていない場合が非常に多い。noteだけでなく、Twitter等のSNSでも動画・配信サイトのコメント欄でも良いが、どこの誰とも知らない他人の意見を真に受けて必死な人間は少なくない。
「SNS依存」という言葉は、わざわざ説明するまでもなく知れ渡っていると思う。
そのSNS依存というのは、SNSを閲覧するという時間的な・物理的な依存だけではなく、「ソーシャルな価値観への依存」というものであるように、私には感じられる。
SNS上で述べられることが、特に「いいね」や「リツイート」等が多いような、いわゆる「バズる」ようなことが正しいんだというような価値観が、ソーシャルな価値観だと言っていいだろう。
SNS依存は、時間的・物理的な依存だけではなく、自身の価値観がそうしたものへと傾倒していくことも含まれるのではなかろうか。
例えば、ソーシャルゲーム、いわゆる「ソシャゲ」においては、そういう価値観が蔓延しているのを簡単に確認することができる。
もちろんゲームの種類によるが、「ソシャゲ」はフレンド機能ぐらいはあったとしても、自分一人で遊ぶソロプレイのものは少なくない。
ゲーム内のイベントでランキング形式になっていたり、対人形式になっているようなものもあるが、そういうのに本気になるのはいわゆる「重課金者」のみであり、一般ユーザーには関係ないと思っている人も多いはずだ。
それなのに、「ソシャゲ」は非常にソーシャルな価値観に支配されていることが多い。
対人も協力もないゲームであるならば、自分で好きなように遊べばいいし、課金したいのなら自分がしたいだけ課金すればいいのだ。
それなのに、「課金圧」なんて言葉があったり、「このキャラはガチャで引くべき」などという表現をされることもある。
課金額やガチャの結果で「マウントを取ってくる」というような表現も度々見られる。
これは、まさに受け取る側の価値観が「個人の意見」になっていない典型例だろう。
直接言われたとか、個人的にメッセージを送られたわけでもないのに、SNS上で「○万円課金してキャラを3人引いた」とか、そういうのを「マウント」だと思ってしまっているのだ。
これはゲームだけに限った話ではない。あらゆる趣味や、勉強や仕事でもいいが、ネット上で他人の意見を見ることで影響されてしまうのは、受け取る側の価値観の問題だ。
「個人の自由」「強要するな」というような意見もよく見られる。それはnoteだけでなく、インターネット上の様々な場所においてだ。
本当に個人の自由ならば、文句はないはずだ。自分の意見とは違う価値観も存在するだろう。
しかし、「個人の自由」と主張する本質は「自分と異なる意見を主張するな」であるように思われるものが少なくない。
個人の自由ならば、反対意見を持つことも自由なはずなのに。
それに際し、「自由なんだから、強要するな」という主張も見られる。「反対意見を持ってもいいけど、強要するな」と。
これも、ソーシャルな価値観への依存が原因だと思われる。本当は強要なんてされていないのに、強要されていると感じてしまっているのだ。
強要というのは、物理的に拘束されるようなことだけでなく、実質的・精神的なものも含まれるだろう。
衣食住や勉強、仕事、家事・育児のようなものは、そりゃあ物理的には逃げられるかもしれないが、実質的には「やらなきゃならないこと」である。
会社ではスーツを着なきゃならないのも、実質的には強制されているようなものであろう。
しかし、ネット上の意見なんてものに強制力は全くないはずだ。画面から手が伸びてきて私の行動を強制するわけでもない。その人達と同じ会社で働いているわけでもない。
それなのに「強要されている」と感じるのは、価値観がソーシャルなものに依存してしまっているからだ。
会社に勤めるのならばその価値観に沿って仕事をしなければならないように、ソーシャルな価値観に依存してしまっているのなら、それに沿って思考し、行動しなければならないと感じてしまうのも不思議ではない。
そういう価値観のもとで書かれているnoteの記事も珍しくない。「個人の自由なんだから強要するな」というような内容を、必死に書いている。
本当に自由ならば、強要もされることはないはずだ。したがってそんな記事を必死になって書く必要もないはずだ。
しかし、ソーシャルな価値観に依存してしまっているため、そういう反論をわざわざ発表しなければならないのだろう。
追記:
「『○○じゃなきゃダメ』ってことはないんだよ!みんな自分の好きなようにやろう!」みたいなツイートを見つけた。
これは、個々人の自由を尊重しているようにみえるが、実にソーシャルな価値観に依存してしまっているようなツイートに他ならない。
「ソーシャルな価値観に基づいた一般論的な正解」のようなものが、「○○じゃなきゃダメ」ではなく、「みんな自分の好きなようにやろう」であるという主張である。
ソーシャルな価値観に依存していないのであれば、そもそもそういう一般論的な正解がどうこうなんてのは関係ないはずだ。
したがって、例えばソーシャルメディアをほとんど利用しない私のような人間からすると、初めから「○○がダメ」とも、「『○○じゃなきゃダメ』は間違い」とも思わない。
そんなソーシャルな価値観に基づいた一般論的な正解なんて知らないし、私には関係ないからだ。ダメだろうとなんだろうと知らん。
しかし、ソーシャルな価値観に依存している人は、そういう価値観に基づいた一般論的な正解を求めるため、「○○じゃなくても良い」ということを、一般論的な正解にしたがるのだ。
そしてそれは、もちろん自己擁護や、反対意見の封殺という意味合いが大きい。
自分の好きなものや、自分と同じ意見・価値観に対しても、「人それぞれなんだから強要するな」と反論している人は殆どいないだろう。
この記事の初めに、「さあみんな、今すぐ踊ろう!」と書いた。それを読んで、「踊らなくてもいいじゃん!個人の自由でしょ!強要するな!」と思った人はいるだろうか。
あるいは、アフリカのハマル族の女性は鞭で打たれるという儀礼があることを紹介した。
それを読んで、「そんな価値観は間違っているんだ!強要するな!」と思った人はいるだろうか。
たぶん、いないだろう。「いや、踊らないけど。何言ってんだこいつ」「アフリカにはそういう儀礼もあるんだなあ」と、それぐらいだろう。
だから、「さあみんな、今すぐ踊ろう! ※個人の意見です」なんて書き方をする必要はない。
別にnoteに何を書いても、強要するわけでも強要されるわけでもないのだ。
○ソーシャルな価値観に依存してはいけないのか?
この記事では、ソーシャルな価値観に依存することを良くないことであるように書いている。「依存」という言葉は、普通はいい意味では使わない。
「依存」というのは、「必要以上に」という意味も含まれるだろう。他人の意見に全く耳を貸すなと言っているわけではない。過剰にそういうものに依存するのは良くないというのが、私の主張だ。
ネット上の個人の意見を参照し、内容を判断し、自分にとって適切に取り入れていけばいいだろう。しかし、過剰な依存とはそうではない。
それが、上にも挙げたようなゲームの話だけならばいいが、もっと重要な勉強や仕事、あるいは育児や教育なんかにも関わってくると、話は重大になってくる。
自分の子どもの育児や教育に関わるようなことがらがソーシャルな価値観に過剰に依存してしまうのは、決して良いことだとは思えない。
「SNSでこう言われているから、自分の子どもにもこうしなきゃいけないんだ」「SNSのフォロワーが、子どもの勉強やスポーツでマウントを取ってくる」のように感じてしまっているのは黄色信号だろう。
あるいは個人的なことではなく、もう少し社会的・一般論的な正義について考えてみても、ソーシャルな価値観に過剰に依存するのはあまり良いことではない。
すなわち「みんなが言っていることが正しいんだ」というものは、物事の本質を見失ってしまう原因となりうる。
特にSNSという場所では、言い方は悪いが「自己擁護」や「傷の舐め合い」のようなことは珍しくない。
気持ちはわかるし、SNSとはそういう場所であることは間違いないのだが、それが一般論的な正義だと考えるのは間違いだろう。
自分が間違っていたり劣っていたりすることもあるだろうが、それを正当化することは正義ではない。
○#noteの書き方
一応、この記事は「#noteの書き方」についての内容だ。そういう意味でいえば、「『※個人の意見です』というnoteの書き方はやめよう」という話になる。
一つは、「※個人の意見です」というのを免罪符として、あるいは批判を避けるために使うのをやめ、自信を持って自分の意見を主張すればいいのではないかという話。
先に述べたように、「※個人の意見です」と注釈を入れておけば何を書いてもいいというわけではない。
他者を否定・批判するような内容を書いているのに、自分への否定や批判はしないでくださいというのはフェアじゃない。
あるいは、個人の意見などと曖昧にせずに、できるだけ正確な内容を発信するべきだ。「RTX3080には350Wの電源が良い ※個人の意見です」なんて書いてはいけない。
いかに個人の意見といえども、インターネット上に文章として残るのだから、責任を持って正確な内容を発信するように努めたいものだ。
もう一つは、ソーシャルな価値観に依存しすぎていることへの警鐘だ。わざわざ「※個人の意見です」と書くということは、「そう書いておかないと、その内容を読んだ人が一般論的な正義として強要されていると感じてしまうのではないか」と、書き手側が考えているということもあるのではないだろうか。
私なんかは、「そんなこと言われなくても個人の意見だってわかってるよ。あなたの意見で強要されると感じることなんかありませんよ。」と思う。
もっと極端に言えば、「馬鹿にしてんのか?」と感じることさえある。「別に書いていることは強要じゃないんだから、あんまり気にしなくて良いんだよ!」なんて、言われなくてもわかっている。
「死ねって言われたら死ぬんか?」という小学生レベルの話だ。
私がnoteというものを知ったのはここ数年だが、想像以上にちゃんとしていて、大人で、賢くて驚いている。もちろん、例外もいくらでもあるのだが。
私も一般的には長文と言われるような文量で、わかりにくくめんどくさい内容を投稿しても、しっかりと理解してもらえたり、評価してもらえたりもしている。ありがたいことだ。
だからこそ、読者にもリスペクトをもっている。昔に比べれば、多少は書き方に気をつけるようにもなったが、「こんな風に書かないと読者はわかってくれない」なんて思っていない。
だからわざわざ「※個人の意見です」なんて書かなくてもいいと思っているし、強要するな!なんて怒られたこともない。
私はそう思っているが、「※個人の意見です」なんて注釈が多いのは、そうでない読者も、あるいはそうでない読者が多いと思っている著者も多いということだろうか。
私としては、そういうソーシャルな価値観に依存するわけでも、そういうのに依存している読者を対象にするわけでもなく、しっかりと自信のある主張を、注釈を付けなくてもわかってくれる読者へ向けて、noteを書きたいと思っている。
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