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現代にも通じる“鏡”としてのソフィスト。納富信留『ソフィストとは誰か?』をよむ(1)。

前回から、アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという、これまでとはまたちょっと異なった読み方が始まりました。

今日から読む納富信留さん(東京大学教授)は古代哲学について数多くの本を執筆されている方。一昨年に出た『ギリシア哲学史』(筑摩書房)は古代ギリシア時代の一人ひとりの哲学者/思想家について説明してくれている本で、私も全部を読んではいませんが、すごいというのは一見して伝わってきます。かっきりした文体なのに読みやすいというのは、ちょっと憧れます。


摘 読。

ソフィストというと、一般に「詭弁家」という解説がつけられていることが多い。しかし、その実態は歴史の彼方に忘却されてしまっている。そもそも、ソフィストとはいったい誰で、哲学にどのような意味を持つのか、これを探究することが、この納富著の主題である。

(1)

このソフィストは、つねに哲学そのものの可能性への挑戦として、哲学者に問いを突きつけてくる存在である。ソフィストの問題を忘却してしまっているとすると、実は私たちは真に哲学に与ってはいないといえる。デカルトにしても、カントにしても、哲学そのものの可能性を根源から問い直すことで、真摯な思索の途を切り拓いていった。一方、ソフィストは忘却の暗闇に逃げ込むことを本性としている。そう考えると、ソフィストを忘却するというのは、ソフィストによる哲学への挑戦の成功ともみることができる。だからこそ、本書ではソフィストを明るみに引き出し、それと正面から対決することを試みているわけである。

(2)

ソフィストと呼ばれる職業的知識人が現れたのは、紀元前5世紀半ばの民主制アテナイを中心とするギリシア世界においてであった。アテナイのアクロポリスの丘にはパルテノン神殿が再建され、ディオニュソス劇場ではソフォクレスの悲劇やアリストファネスの喜劇が毎春上演されていた。アゴラではソクラテスが人々と対話を交わしている。そんななかに乗り込んで、市民を魅惑しながらポリスを知的興奮の渦に巻き込んだ時代のスターが、ソフィストであった(このあたり、18頁をほぼそのまま引用。端的簡潔な文章ながら、光景がありありと浮かんでくる)。

このソフィストたちの華やかな言論の演示、新たな思想の息吹、政治への参画の促し、世界の見方の転換は、若者たちを中心に人々を虜にした。ギリシア古典期は、ソフィストの世紀であった。著名なソフィストたちは諸国をわたり歩きながら、その土地の有力者の庇護を受け、若者たちにさまざまな学知や技術を授けていた。その活動によって、アテナイはギリシア文化の精髄を花咲かせていた。ソフィストたちは、人々の前で弁論の演示をおこない、授業料をとって教育を授ける、西洋史上初めての職業的教師であった。

(3)

このように古典ギリシアにおいて花形であったソフィストが忘却されてしまった理由には、資料の欠如という状況とともに、ソフィストの敵であるプラトンの存在がある。プラトンの対話篇には多くのソフィストが登場する。そして、プラトンの師であるソクラテスと対決させている。その点で、今となっては唯一の証言といっていい資料となっている。一方で、それはあくまでもプラトンの目を通じて見たソフィストであり、人選においても偏りがある。そもそもがソフィストに対して批判的であった。

ソフィストたちが書いた作品は、現在ではほとんど残っていない。残っているとしても、限定的な発言や著作のごく短い一節が同時代夜行性の著述家たちによって引用されたり言及されたりして、断片として残されているだけである。ごくまれに、ゴルギアスやイソクラテス、アルキダマスなどのように小品が残っている場合もある。しかし、ほとんどの場合は散逸・消滅してしまった。これは、プラトンやアリストテレスのような哲学者とは圧倒的な相違である。

その理由として考えられるのは、歴史の淘汰であるが、それも意図的な忘却、つまり批判による抑圧があったことも想像される。実際、プロタゴラスの『神々について』は不敬神の咎で訴えられ、その本はアゴラで焼却されたという伝承もある。さらに、そもそも弁論を主としていたソフィストたちにとっては、著述の必要性がほとんどなかったという可能性もある。

このように、ソフィスト自身のありようとともに、ソフィストに対する偏見が歴史の流れにおけるソフィストの忘却という事態を生じさせた。その最大の責任は、ソフィストの敵であるプラトンにある。

(4)

ソフィストは長らく悪人の代表であり続けた。無神論や不可知論、相対主義によって社会と道徳を破壊し、金銭をとって若者たちに機嫌を授けて彼らを腐敗させる背徳者、そう位置づけられてきた。このソフィストを復権させたのがヘーゲルであった。ヘーゲルの弁証法的史観において、イオニア自然学の即自的で素朴な思索に対して、多元的で反省的なものの見方を導入したソフィストたちを、ソクラテスやプラトンに至る重要な契機と捉えた。ただ、このヘーゲルの見方は、ソフィストをソクラテスの哲学を準備した“前”哲学的な存在への位置づけの固定をももたらした。

他にも、個々のソフィストに焦点を当てたジョージ・グロートの業績もある。ただ、グロートの場合は個々のソフィストを重視するあまり、ソフィストに共通する本質を見失わせる可能性もはらんでいた。他にも、ジャクリーヌ・ド・ロミーイによるソフィストがアテナイの民主性に果たした積極的な役割に目を向ける視座や、ジョージ・カーファードによるソフィスト個々の業績への注目など、ソフィストを積極的に位置づけなおす動きもある。カーファードの場合は、ソフィストを哲学者に同化してしまう危険性も含んでいる。

さらに、ゴルギアスが発展させた弁論術(レトリック)への再評価という視点も提示されている。この視点は、ソフィストへの積極的評価とともに、「反哲学」としてのソフィストの復活をも内包している。このソフィストと哲学者との対置を尖鋭化し、その評価を逆転させたのがニーチェである。彼はソクラテスやキリスト教を奴隷道徳として厳しく批判し、道徳批判の始まりとしてソフィストを位置づけた。またポパーはプラトンの全体主義的な思考を攻撃する際に、ソフィストの自由で開かれた思考を評価した。ポパーにとってみればプロタゴラスやゴルギアス一派は、反貴族主義的で平等主義的な人間主義を提唱した理論家であった。

このように、ソフィストは歴史の忘却の淵から復活し、さまざまに自己主張を始めている。しかし、ソフィストとは誰かという本質的な問いについては、まだあきらかにされていない。

(5)

近代日本においては、ソクラテスやプラトン、アリストテレスが、中国の孔孟のように神聖化されてきた。明治以降、20世紀にソフィストについて書かれた単行本は田中美知太郎(1941)『ソフィスト』のみである。当時の欧米のソフィスト研究に比しても高い学問水準を示し、今日でも通用する洞察を含む。ただ、それ以降、ソフィストに関する主題的研究は一度も提示されなかった。

ただ、ソフィストと呼ばれる現象は現代においても存在する。テレビドラマや映画などで登場するレトリックや駆け引きで白黒が決まっていくアメリカ流の弁護士の活動であったり、マスメディア(納富本では触れられていないが、当然2023年現在であればSNSを含むであろう)を通じた派手な言動によって世論や人気を煽る政治家であったり、また授業料をとって学生に知識や視覚を与える教育産業となった大学をはじめとする学校であったり、いたるところにみられる。

そういったソフィストを非難してすむ話ではない。ソフィストは担っている負の側面は、現代のさまざまな病理の根を示してくれるかもしれない。その場合、ソフィストを批判的に検討することは、現代に向けて何らかの積極的な意義をもつ。あるいは、ソフィストの思索や活動は、現代の表層的な状況とは異なり、より根源的な問題を提起し、それを乗り越える方途を示唆しているかもしれない。

納富は、この問題を考えるうえで、現代の私たちが生きる社会について6つの特徴を挙げている。

  1. 絶対的な価値や世界観が崩壊し、その反動から自由や個性の名のもとに相対主義に流される問題状況

  2. 相対主義によるシラケたものの見方の簇生

  3. 一人ひとりの思われに閉じこもる態度としての個人主義・快楽主義の蔓延

  4. 一見合理的な非宗教的態度からもたらされる新興宗教などへののめり込み

  5. 社会相対主義に起因する暴力への諦め、権力・宗教への盲従の惹起

  6. 個性を求める社会幻想による、結果としての画一性

こういった相対主義と多元主義の混同を整理し、健全な相対的視点や多元的な価値観を確保することが現代哲学の急務であると納富は述べる。

(6)

以上のような点を踏まえて、本書では
(1)ソフィストを、各自の思い込みを投影したイメージから解放する
(2)ソフィストを、まさに現在、私たちが直面する哲学の問題として捉える
という2つの基本方針で、ソフィストたちと対決していく。そして、より具体的には哲学の側からの対決的視点と、ソフィストの側からの視点という二部構成で考察が展開される。ただ、ソフィストといっても統一的な立場があるわけではない。彼らはそれぞれ異なった立場や態度をとっている。そこで、①本書ではゴルギアスの三つの著作とその弟子のアルキダマスの著作が採りあげられる。さらに、➁ソフィストは哲学者と正面から対決し、同じ土俵で対等に争う存在ではないという点に着目する。というのも、ソフィストは哲学者とソフィストの両者の境界そのものを消し去り、融合させ、茶化すことによって、哲学を高次のレベルで否定しようとするからである。その錯綜する構造を取り出す。そして、③ソフィストを分析する際に哲学が鍛え上げた概念や分析手法しか持ち合わせていない私たちは、どういった言葉で語っていくのかに十分留意する必要がある。そのため、場面に応じてかたちの立場を意識的に動かしながら、多元的で移動するパースペクティヴへの自覚をもって、ソフィストと哲学者の両者を見つめる鋭敏で俯瞰的な「鳥の目」が必要になる。それを養うのは、歴史学と文献学である。

私 見。

さっそく序章からスリリングだ。この本は2006年に書かれたが、2023年においても同様に、それ以上に当てはまる状況と言っていい。誰が、とは言わないが、現代のソフィストたちは処々に「もっともらしい」片々を織り交ぜながら、SNSに着火剤を導入していく。その点で、ドキドキしながらこの序章を読んだ。

プラトンが詩人を追放せよと主張した理由も、容易に想像がつく。ただし、それはちゃんとプラトン『国家』を読んでからにしたい(笑)

そう考えると、18世紀ごろからのヨーロッパでの自然科学の興隆とロマン主義の勃興という潮流も、哲学とソフィストという構図として捉えることも可能なのかもしれない。リチャード・ドーキンスがジョン・キーツの詩を下敷きにしながら、それと化学との統合をねらった『虹の解体』などは、さしづめこの対立構図を止揚したいという姿勢とみることもできそうだ。

まぁ、まだ詩ならそれほど社会を大きく動かしはしないかもしれない(もちろん、大きく動かすこともある)*。しかし、感情を動かすという点に賭けたともいえるソフィストたちが危うい魅力をその言説から放ち、そしてそれだけではなくどこかに多くの人が目を逸らし、耳を覆い、鼻をそむけてしまうことに針を穿つことで、また人々に気づかせ、さらには煽るはたらきをなしたということは、単純に肯定否定だけで片付けられない点を含んでいる。

* ちなみに、詩が天地や心を動かすと述べたのは、紀貫之もまた同じである。

歴史学でも、レトリカル・ヒストリーという立場があるようだ。もちろん、これに対する批判もある。経営史でもこのあたりが議論されている。この納富本を読むことで、そのあたりにも有益な視座が得られそうに思う。

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