見出し画像

【小説】色をつけ事を触れる

病弱で高校を休みがちだった北迫は、死に物狂いで勉強して志望校合格を果たす。大学に入ってからも、命を削るように勉強を続けて司法試験合格を果たした。だが余命宣告を受け、病床で人生を振り返る。そんなとき「来世からのメッセージ」に出逢った。



 白い壁に黄色い光が差し込み、窓際に暖かい柔らかな空気を感じる午後、退屈しのぎに分政経の参考書についていたCDを流し、聞きながら天井の模様をぼんやりと眺めていた。
 眠気を感じ始めると、教室の光景がまぶたに浮かぶ。
 医者が言うには「水頭症」という病気らしく、脳にたまった水を抜くために入院したのだった。
 頭に管を挿して機械につないでいるわけだが、もう慣れてしまって恐怖は感じなかった。
 病院特有の、消毒液と尿が混ざったような微かなにおいが漂い、早く出たいと初日には思ったのだが頭に巻いた包帯の間から管を出している自分が、滑稽こっけいに見えて諦めの境地に至った。
 一番外側の個室の壁に頭を向けて寝かされて、足の向こうに広い空間があり、窓までかなりの距離がある。
 外からの太陽光が床に反射して柔らかいグレーに部屋を染める。
 眠気に誘われ、首から横に顔を倒したとき人の気配がした。
 入口のドアは引き戸になっていて、手をかけるとガタンと音を立てる。
 そしてぴょこんと顔を覗かせた。
勝川かつかわ、起きてる」
 ブレザーのままで、カバンを後ろ手に持ったままだから学校帰りなのだろう。
 同じ高校に通う矢澤 里夏やざわ りかだった。
 ひざ下まで長いスカートの下に、きちんとそろえた足元が見える。
 長い髪は、少し乱れているが艶やかだった。
「退屈でしょう。
 一緒にいてあげるから、感謝しなよ」
 こうやって、学校帰りにやって来てはパイプ椅子に座って静かにこちらを見ているのである。
 日本史CDをまた聞き始めると、矢澤はカバンから参考書を出して読み始めた。
 しばらく本に視線を落としていたが、一息ついた心地でテーブルの上にプリントをきちんと広げた。
「読んであげるね」
 柔らかく、ハスキーな声で宿題や家庭連絡の内容を読み上げ、また参考書を手に取った。
 心がゆっくりほぐされていく。
 内容よりも、彼女の声を今日も聞けた。
 その事実が、命を確かめる作業のように感じられた。

 身体の調子は完全ではないが、退院許可が出たので久しぶりに自転車のペダルを踏む。
 入院するたびに体力を削られ、ふらつきが出るがくちびるみしめて道路をにらむ。
 進学校に通う勝川はあせっていた。
 高校は病気を理解して、進級させてくれるがその先は自分の力で切り拓かなくてはならない。
 見渡す限りの田んぼをまっすぐに貫く道を辿たどり、ペダルを踏む足に力を込めた。
 教室に入ると、頭に包帯を巻いているせいか皆の視線が集まった。
「身体は大丈夫か」
「困ったことがあったら言ってくれ」
 などと暖かい言葉を次々にかけてくれた。
 病室でずっと独りだったので、人恋しさはあった。
 だが矢澤が来てくれたお陰で、学校のことは大体わかっている。
「ちょっと水抜いただけさ。
 もう元気だよ」
 カラカラと大口を開けて笑った。
 授業は、分からない部分もあったが、大学入試へ向けて勉強していれば何とかなる。
 参考書を開いて読みながら授業を受けている生徒が多いため、焦りは徐々に消えていった。
 包帯が取れると、まるごと剃っていた頭に産毛うぶげが生え始めていた。
 周りを見れば、ワックスで固めたり軽くウエーブさせたりと、おしゃれをする男子が多いのだが、かなり浮いた存在になってしまう。
 肌は真っ白になり、身体はぽっちゃりとして少し腹が出た。
 運動不足がたたったのだ。
 暖かい陽に当たりながら、ぼんやり中庭を眺めていると、
「よお、それじゃあマリモみたいだな。
 もう少し伸ばせばウニになるか」
 ブレザーを着崩して、学年色の黄色いネクタイをだらしなく首から下げた北迫が、口の片端を上げて笑いながら近づいてきた。
「ははは、違いないな」
 恵比須様のように目尻を垂らして肩をすくめた。
「ねえ、北迫。
 デリカシーないこと言わないで」
「なんで。
 じゃあ、励ませばいいのか」
 近くにいた女子に責められた彼は、鼻を鳴らして勝川の肩を軽く小突いた。
「この程度でくじけたりしないだろう」
 と言いながら、メモ用紙にペンで何か描いているようだった。

 所狭しと机を並べ、脇のフックにカバンをかけていると人が通る隙間などほとんどない。
 教室は、人の熱気でまとわりつくような空気が満ちていた。
 少々息苦しさを感じながら、勉強が特に遅れている英語の参考書を広げる。
 前の席の奴が大柄なので、机の上が教員からは見えない。
 きっと居眠りしても分からないだろう。
 足を組み換え、首をひねり文字を頭に叩き込んでいると、頬が紅潮し気が遠くなりそうになる。
 人間が一日に覚えられる量には限りがあるのだろうか。
 何分おきかに繰り返すと良いとか、覚えたページを食べると定着するとか、妙な論理を実践する同級生もいるが、結局のところ一秒でも長く参考書を読めば良いだけだ。
 ふと北迫に視線を向けると、またメモ用紙に何かを書いている。
 鋭く光る両眼が見開かれ、何度も何かを見ては視線を落とす。
 熱中しているのは間違いない。
 だが、何に ───
 自分と同じように、勉強を頑張っているのかも知れない。
 北迫には、他の友人にはない覇気を感じていた。
 懸命に何かをつかもうと努力する顔だった。
「北迫くんって、デリカシーないよね。
 病気なのに、マリモだとかウニだとか平気で勝川くんに言うでしょ」
 周りの雑音に混ざって、女子のヒソヒソ声が聞こえてくる。
 男子の間でも、北迫に対する風当たりが強くなっていた。
 いつも自分のからに閉じこもって、一心不乱に何かをしている。
 そのくせ、他人に手厳しい。
 黒板に北迫の似顔絵を描いて、ウジだのハエだのを描き足す者が出てきた。
 すると、
「おっ、誰が描いたんだ。
 なかなか上手じゃないか」
 自分がいじられているのに、絵の出来栄えだけを彼は見ていた。
 そんなある日、矢澤と大学受験の話題になって、
「T大を受けようと思う」
 最難関の大学名を挙げた。
「そう  ───」
 驚きもせず、いつものように参考書に視線を落とした。

 3年生になると、受験一色に染まる。
 電車で1時間ほどかけて大手予備校に通うようになると、休み時間にもほとんど遊ばずに勉強三昧だった。
 英語の勉強をして、仕事に就きたいとか、法律の勉強をするとか、薬剤師とか具体的な目標をだれもが掲げて努力していた。
 勝川自身は、経済学部に照準を合わせていた。
「将来は経営者か商社マンあたりか」
 北迫だった。
 彼は他人を励ましたりは絶対にしない。
 いつも冷笑的な表情を浮かべて、社会を斜めに見ているようだった。
「なあ、お前はいつもなにを見ているんだ」
 いつも筆ペンを片手に何かを書いている。
 聞いてもまともに答えないし、見せてくれない。
 だが、
「いつも人間を見ている。
 この世で一番興味深いものを見つけるために ───」
 シニカルな笑みを消した北迫の横顔には、鬼のような怒りさえ感じた。
 他人を寄せ付けない強靭きょうじんきらめきを目にたたえ、虚空を睨みつけた。
「いつも、絵を描いているのか」
「わからない。
 何を描いているのか、自分でもわからない」
 それ以上は聞かず、また参考書を読み始めた。
 もうすぐ再入院することになっている。
 勉強も大変だが、体調は良くなかった。
「俺は、絵がヘタクソだ。
 だから描くんだ」
 北迫とは、妙な会話をしてからあまり話さなくなった。
 強い意志が、彼の身体からほとばしるのを感じ、背中からは威圧感を周囲に残していった。
 変わり者扱いされていた彼が、誰も寄せ付けないムードで駆け抜けていく。
 お互い一分一秒さえ惜しい生活に、どっぷり浸かっていった。

 8年の歳月が流れた。
 ビジネス関連の専門学校を卒業した北迫は、趣味で続けていたスケッチを飾り個展を開いた。
 デパートの最上階にあるギャラリーを借りて、仕事は休暇を取って念願を叶えたのだった。
 季節の草花に愛情をこめて観察して、丁寧な筆致で描いた作品が並んでいた。
 眩しいくらいのスポットライトを当てて木製の額に収めた作品は、生命力に満ちている。
 生まれ育った土地で、疎遠だった知人も訪れ花やお菓子を差し入れてくれたり、遠方からもチラシを見てやってくる人もいたりと驚きの連続である。
「良いものを見せてもらったよ。
 ありがとう」
 見ず知らずの人が目元を緩めて感謝の言葉を残していく。
 真心が伝わった、と思えた。
 客足が一段落して、暇を持て余し始めた頃懐かしい友人がやってきた。
「北迫、久しぶりだな。
 おまえ、凄いじゃないか」
 恵比須様のような笑顔を向けてきたのは、勝川だった。
「おお、ありがとうな」
 立ち上がって受け付けの前に出ると、高校時代と少しも変わらないように見えた。
 だがお互い、無駄口が減った気がして手持無沙汰になってしまうところに、年月を感じて戸惑っていると、
「芳名帳に名前を書いていいかな」
 テーブルの前に立った勝川はペンを差し出した。
「ちょっと ───
 手が不自由でね。
 代わりに」
 怪我けがでもしたのかと思い、ペンを取った。
「ええと」
「おいおい、俺の下の名前忘れたのか。
 思い出せよ」
 語気が不自然に強くなった。
 彼もおかしなことを言ったと思ったのか、
勝川 真裕かつかわ まさひろだ。
 真実の真と衣偏に谷」
 と教えてくれた。
 じっくりと一枚一枚見ながら、
「もしかして、画家になるのか」
 などと将来の話をした。
「俺は弁護士になるんだ。
 司法試験に合格した」
「へえ、凄いな。
 試験大変なんだろう」
 難関資格だと知ってはいたが、彼にとってどれ程重い報告だったか、その時は知る由もなかった ───

6

 北迫はワンルームマンションを借りて、職場近くに住居を構えていた。
 手狭な部屋にテーブルが一つあるだけで、洗濯機もユニットバスも、目の前にあるキッチンも充分な物件だった。
 滅多に人が訪ねてこないのだが、その日は夜遅くにドアホンが鳴った。
 少々迷惑だと思い、不機嫌な声を出すと、
「実はご友人のことで、お伝えすることがあります」
 きちんとスーツを着こなした男が深々と頭を下げて言った。
「友人の ───」
 なぜか勝川の顔が浮かんだ。
 ギャラリーを訪れた彼は、様子がおかしかった。
 別れ際に顔を伏せて、速足で逃げるように去って行ったからだ。
 呼び止めようとしたが、振り返らずに行ってしまった。
 スチールのドアが乾いた音を立て、チェーンが外れた。
 鍵を開けると、頭を下げたままで男が封筒を差し出した。
「こちらが、お預かりした手紙でございます」
 重ねられた名刺に「来世からのメッセージ メッセンジャー 継宮 来つぐみや らい」とあった。
「来世からのメッセージ ───」
 手紙の差出人は勝川だった。
「まさか」
 見開いた双眸そうぼうを、継宮が上目づかいで見返す。
「ご想像の通りです。
 勝川様は、昨日お亡くなりになりました」
 腹の奥の臓物が、重くなって身体は宙に浮くような感覚に襲われた。
 つい1週間ほど前に言葉を交わしたばかりだった。
 彼は夢を語っていた。
 ようやく実を結んだ努力の果実を、これから享受しようとしていたはずだった。
 いや、そう思い込んでいた。
 彼は別れを言いに来たのだ。
 思い出してみれば、手には麻痺があったし歩き方もぎこちなかった。
 異変を認識していても「死」を想像していなかった。
「北迫様の個展を、とても楽しみにしておられたようです。
 想像していた通り、誠実な筆致に感動したとおっしゃいました。
 でもそれが ───」
 言い淀んだ継宮が視線で手紙をうながした。
「私は、契約を履行りこうしたに過ぎません。
 ですが、つつしんでご冥福をお祈りいたします」
 深々と腰まで頭を下げたまま、ドアが閉ざされた。
 静寂の中、階段に響く靴音が、次第に消えていった。

 就職祝いにと、両親から贈られた黒いダブルのスーツに袖を通し、黒い柄物ネクタイを締める。
 子ども時代には「死」を他人事だと思っていた。
 川で溺れたり、交通事故に遭ったり、病気だったりして亡くなった人の話は聞いたが、こんなに身近で起こり得るとは想像できなかった。
 内ポケットに香典を入れると、部屋を出た。
 出不精でぶしょうな北迫にとって、友人に会いに出掛けることも珍しかった。
 マンションの階段は薄汚れていて、隅には黒ずんだほこりがこびりついている。
 いつかホームセンターで買ったほうきできれいにしよう、などと考えるうちに路地に出た。
 斎場までバイクを飛ばして、20分ほどで着く。
 勝川の交友関係は、意外と狭かった。
 高校の同級生が数人いる他は、親戚が多いようだ。
 建物に促されて、香典を渡すと控室で彼の思い出話などをした。
 テレビやゲームの話題などを、昔は笑いながら話したものだが互いの近況を淡々と話していると、職場での苦労がにじみ出る。
 心のすきが少なくなって、からかう余裕もなくなった。
 だれもが自分の人生を、懸命に歩いているのだと改めて思い知らされた。
 そして、故人も ───
 まだ記憶に新しい勝川の顔は、安らかだった。
 ほとんど日焼けしていない肌。
 少し緩んだ口元。
 今にも目を開けて話かけてきそうだった。
 焼香の順番を待つときに、前列の席に矢澤の姿があった。
 ハンカチを顔に当てて嗚咽おえつを押さえてすすり泣いていた。
 俺が死んだら、こんな風に誰かが悲しんでくれるだろうか。
 人は、何に価値を見いだすのだろう。
 仕事をして、家事をして、自分のために絵を描いて、心のバランスを辛うじて保って生きている。
 そんな自分に、価値ある「死」が訪れるのだろうか。
 葬儀が終わり、おときの料理が振る舞われた。
「こんな事でもないと、集まらなくなっていくのかもな」
 仲間内の誰かが言った。
 歳をとるごとに、孤独が深く影を落とす。
 若くして死ねば、人生の春のままで時が止まる。
 そんなに簡単に割り切れるものではないだろうが。
 勝川は死を恐れていたはずだ。
 だから虚しい命を野望に焦がし、俺の心に焼き付けて逝ったのだ。

 天ぷらを突きながら、近況をお互いに話しだしたころ、
「北迫さんて、どの人だい」
 勝川をたてに伸ばしたような顔をした兄がこちらを振り向いた。
「いやね、弟が『一番の友達だった』と言ってたんだよ。
 へえ、そうか。
 弟がお世話になりました」
 北迫を訪ねてすっ飛んで来たものの、何を言ったらいいのか分からなくなった、というていだった。
「脳腫瘍でね。
 医者から余命宣告を受けていたんだ。
 最期の手術を受ける前に、身体が動くうちに素晴らしい絵を見られて良かった、と言っていたよ」
 などと言われたが「一番の友達」という部分が腑に落ちなかった。
 一緒に遊びに行ったこともないし、高校時代1年間同じクラスになっただけである。
 彼には悪いが、心当たりがないのだ。
 故人に対して、異を唱えるのも場違いだしその場を取り繕うように、
「亡くなる直前に書いた手紙を受け取りました」
 と言うと、内ポケットに忍ばせていた封筒を取り出した。
「これは貴重な遺品ですから、お持ちください。
 コピーを取ってあります」
 兄はその場で中身を取り出した。
「強く生きてくれ、と書いてありました。
 友達と言っても、馴れ合いのない間柄です。
 彼らしい言葉でした」
 胸にぎゅっと封筒を押し付けるようにした兄は、深々と頭を下げて立ち去った。
「しかし、司法試験受かったんだってな。
 凄いよなあ。
 闘病しながらだぞ」
 誰かが呟くように言った。
 本当に頭が下がる。
 死の床にあっても勉強しようとする、高潔な精神に。

 手紙には差出人欄さしだしにんらんに「4月1日」と添えられていた。
 個展の最中に、偶然だが年度が変わっていた。
 そして「エイプリルフール」だった。
 意図的に選んだのだとしたら、未来への希望を語り、来世からの手紙を書くことが彼にとってのウソだったのだろうか。
 あまりにも剛直で、短い輝きが消える瞬間をウソだと言いたかったのだろうか。
 来世で彼は、夢を実現するという意味だろうか。
 短い手紙には、何も記されなかった。
 その日から、北迫は日曜画家としてさらに精力的に活動し始めた。
 目的などいらない。
 ウソでもいい。
 勝川の強さの半分でも、欲しいと願ったのだった。

この物語はフィクションです


「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。