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【書評】こういうふうに、逝けたらよいな〜永井みみ『ミシンと金魚』

昨年のすばる文学賞受賞作、56歳現役ケアマネージャーのデビュー作です。本好きの間で大きな話題になった小説ですから、既にお読みになった方もおいでかも。

主人公の老女カケイの「語りの世界」に圧倒され、(どうして芥川賞候補にすら選ばれなかったのだろうと不思議に思いつつ)、この物語の魅力をみなさまにお伝えしたくて、筆をとりました。

(以下、ネタバレあります。)

あの女医は、海外で泣いたおんなだ。

p.3


冒頭からドキッとさせられるこの物語は、主人公で認知症を患う老女カケイの大胆発言で幕を開けます。病院の待合室で診察の順番待ちをするカケイのおしゃべりはとどまるところを知らず、頭に浮かぶ言葉がそのまま外に流れ出ます。

「キンタマ娘」「股の間」「クソババア」⋯⋯。次から次と、あからさまで、口にするのを憚られるような単語がぽんぽん飛び出す老女の語りに、唖然としたり、ぷっと吹き出したり、なるほどねぇと感心したりしながら、読者は”カケイワールド”に引き込まれていきます。

としよりになったら、ほかのじいさんたちみたくえばってるのは負けで、おもしろいことを言ったりやったりしたもん勝ち

p.10


カケイはいつも、考えている。
たとえば、「お元気ですか?」と聞かれたらどう答えるか?

若い人たちにとって年寄りというものは、<明日はわが身でもっておっかないから厄介者あつかい>される存在だと、カケイにはわかっている。だから<としよりになったら、ほかのじいさんたちみたくえばってるのは負けで、おもしろいことを言ったりやったりしたもん勝ち>なのだと。老女の矜持が、伝わります。

だからこそ、デイサービスで威張る<じいさんたち>を見て、ヘルパーさんたちの好意を受け止められない余裕のなさに憤慨するし、自分に向けられた優しさや好意には、できる限りの好意でかえすのです。上っ面だけの優しさで近づく近所のおばさんには、冷淡な態度を示して追い返す。カケイの信念の強さに驚き、当意即妙なユーモアと知性に感心しながら、読み手の心は揺さぶられます。

ここまできたら、生きてたって死んでたって、どっちだっておんなしだもの。

p.116


そういえば以前、高齢者のメンタルヘルスがご専門の臨床医の講演に参加した時のこと。その医師は「高齢者で認知症は病気と言えるのか?」と疑問を持つようになったと、認知症の枠組みが揺らいでいるのが現在だと、話しておられたものでした。

物語の中でカケイは、生きていたって死んでいたって<どっちだってかまわないのよ。p.117>と繰り返し、言います。見守る側にとって、認知機能が衰えるのは辛く悲しいことでしょう。けれど、死にゆく恐怖からは解放されるのではないかとも思えてきます。「認知症」の認識を改めて見直したいと感じた読者も、おいでかも。

実母の死、継母の虐待、貧困、夫の蒸発、性虐待の果ての妊娠と、最愛の娘の死。カケイの人生は恐ろしいできごとの連続でした。降りかかる苦難に負けまいと、ミシンの技術を頼りにたった独りで生き抜いてきた自負が、カケイにはあります。

だから老いて身体が不自由になったとき、ヘルパーたちの助けはどれほどありがたかったことでしょう。死んだ娘がいてくれたなら、きっとこうして優しく支えてくれたはずと、全てのヘルパーたちを亡くなった娘の愛称「みっちゃん」と呼び、その面影をひとりひとりの中に探す老女カケイ。逆縁の傷の深さが、胸に突き刺さります。

兄貴をひとりで落とすまいと、広瀬のばーさんは、一緒に落ちてくれたんだ。

p.112


そしていよいよ、最後の日。それまで敬遠していた義姉から驚くべき秘密を聞かされて、耐え忍んだのは、損ばかりして生きてきたと思っていた自分は、実は兄夫婦から愛され守られていたのだと知り、カケイの心は深い感謝で満たされます。待ちに待ったお迎えは、愛したものたちとの再会という、何よりのご褒美であったはず。だからこれは、過酷な人生を生き抜いた女の、清々しく輝かしい旅立ちの物語。




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