パワハラ時代を乗り越えてきて ~老サラリーマンによる回顧
この note にも何度か書いたけれど、僕らの若かった頃は今から思うと却々しんどい労働環境で、今の基準からすれば全労働日で理不尽なパワハラを受けていたと言えると思う。
それは身内の宴席でわざと人数の倍ぐらいの料理を注文して、「お前、若いんだから全部食べろ」と無理やり食べさせられるような次元の低いものから、何も教えてもらえないまま放り出された上に仕事で成果が上がらないのは考えが足りないからだと叱責されるようなものまで、非常にバラエティに富んでいた(笑)
単にパワハラを受けていたというだけではなく、そんなパワハラを乗り越えてきた者しか一人前のサラリーマンとして認めてはもらえなかった。それがしんどかった。
「パワハラに耐える」ではなく「パワハラを乗り越える」と書いたのは、ただ耐えるだけがパワハラへの対処ではないからだ。
パワハラをうまくはぐらかしたり、かわしたりする。あるいは、パワハラに対して正面から挑んで論破し、それを封じ込める。うまく立ち回ってパワハラの矛先があまり自分に向かないように持って行く…など、対処法はさまざまだ。
それは人によって違うし、パワハラをしてくる上司によっても、あるいはいろいろな時と場合によって、どれが正解とは言い難い。
とにかく僕らは避けることのできないパワハラ的言動からできるだけ大きな傷を受けずに、一方で上司の理不尽な怒りを買うこともなく、今後の仕事がやりやすくなるにはどうすれば良いか必死で考えて対処してきた。
それはひどいものではあるが、一種のオン・ザ・ジョブ・トレーニングでもあったわけだ。
何故なら、例えば僕は当時テレビ局の営業マンであったのだが、運が悪いと社外で取引先、つまり提供スポンサーの宣伝課長などからもっとひどいパワハラを受けることもあったからだ。相手は身内ではなく、金の絡んだ社外の人だけに、この対処方法はもっと難しくなる。
そのためには社内での“しごき”に慣れていることが何かと役に立ったのもあながち嘘ではない。
でも、僕らはそういうことをもちろん「ありがたい」と思っていたわけではない。
僕らにパワハラ的言動をしてきた当時の上司たちは、多分自分たちが若いときに上司から同じようないじめを受けたのだと思う。そして、後になってそのことにある程度意味があったと思うようになったから、今度は自分が上司になったときに、僕らに同じようなパワハラを繰り返したのだと思う。
それが僕の上司たちの世代なのだと思う。しかし、時代は次第に変わり、世代も入れ替わった。
僕らはそんな形の「社員教育」に意義があるともありがたいとも思わなかった。逆に「自分たちが上司になったら、決してこんなひどいことはしないぞ」と固く心に誓った。
今、昔と比べて少しぐらいは労働環境が改善されたとしたら、それは僕らが心に固く誓ったからだと、少しは胸を張りたい気持ちもある。
でも、その一方で、最近のあまりに弱い、すぐにポキっと折れてしまう、あるいは容易にキレてしまう、自分たちが得るべき権利のことばかりを考えて逆の立場から物事を見られない若い社員たちを見ていると、ちょっと緩めすぎたかなという気がどうしてもしてしまうのも事実である。
悲しいことだけれど、人間というものは窮地に追い込まれると飛躍的に伸びる場合がある(もちろん折れてしまってそれっきりになる危険性も孕みながらなのだが)。
「お前たちは馬だ」と言われたことがある。「所詮ムチが入らないと走らないのだ」と。悔しいけれどそういう面は確かにある。そのことが分かったのはだいぶ年月が過ぎてからである。
鞭打たれた痛みを胸に、僕らは鞭を緩めすぎたのかもしれない。それはこの期に及んである意味痛恨の思いである。
人を動かすって難しい。社会をより良いものに変えて行くってなおさら難しい。サラリーマン人生を終えるタイミングを迎え、そういう思いしか残っていないのは我ながら残念である。
無責任に聞こえるかもしれないけれど、後は次の世代の人たちがよく考えてやって行ってほしい。そう言うのが精一杯だ。
僕らは退場する。そう、古い世代は順番に退場する──僕らにとってもまさにそうであったように、それが次の世代への最大の贈り物なのだと思う。
でも、ここを去るに当たって、ひと言この痛恨の思いについて書き残しておきたいと思ったのだ。それをどう読んでどう活かしてもらえるかは君たちに任せるしかないのだけれど。
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