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はたらくってなんだろう

長い会社員生活をもうすぐ終えようとしている僕が今、若い人たちに向かって書いています。

僕は大学でマルクス経済学を学びました。

カール・マルクスのことを時代遅れとか時代錯誤とか失敗した予言者みたいに思っている人もいるみたいですが、資本主義の構造を初めて科学的に分析した偉大な学者です。ま、そのことに関しては今ここで議論するつもりはないのですが…。

で、僕はそんな風にマルクスを捉え、ある意味師と仰いできたわけですから、概ねマルクスが展開した論理に反駁するようなところはないのですが、ひとつだけどうしても違和感を覚えた部分があります。

マルクスは労働を人間の本質と捉え、本来は楽しいものだと考えていました(ところが、資本主義社会の到来によって、労働者は本来自分のものである労働を資本家に搾取されるようになり、そのため「労働の疎外」という事態が生まれたのだというのが彼の説です)。

学生時代はこれをふーん、そうか、と思って読んでいました。でも、大学を卒業してテレビ局に就職し、実際に働き始めてすぐに、あ、これは違うぞ、と思い始めたんです。

だって、実際に働いてみると、労働は決して楽しくなかったもん。根本的に楽しいものではなかったもん。

いや、一生懸命働いていると、楽しい「瞬間」、嬉しい「瞬間」はたまに嫌でもやってくるんですよ。でも、働くことは総じて辛いことでした。楽しい、嬉しいのは何かを達成した瞬間であって、働くことを長いスパンで眺めると、やっぱりそれは辛いことでした。

それはもちろん、僕が苦手意識を持っていて、一番やりたくないと思っていた営業のセクションに配属されて、そこに 13年間も留め置かれたからでもあります。

最初の数年間は朝の通勤途上の、家からの最寄り駅に向かう道のいつも同じところで、ほぼ毎日吐きそうになって、「吐いたら休もう」と思いながら結局何も吐けなかったので会社に行く、という日が続きました。首の右側にアトピー性皮膚炎ができてカチンカチンになっていました。

で、そんな陰惨な話を細かく書いても仕方がないので、一気に15年か20年か飛びますね。

なんと、そのころになると、この嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことに延々真面目に取り組んだ13年間の体験が、僕としては微妙に不本意ながら、大いに僕を成長させたのだということを否定できなくなっていました。

それは他のセクションに異動してからの僕にとっても貴重な財産になっていたのです。

僕を他のセクションに異動させなかった当時の上司はそれを聞いて、「ほれ、見てみぃ。やっぱり営業におって良かったやないか」と言いますが、それには僕は真っ向から反論します。それは単なる結果論であるし、ひょっとしたら他のセクションにいたらもっと僕は伸びたかもしれないのだから。

喩えて言うなら、僕は塀の上を歩いていたようなものです。

あちら側に落ちていたら自殺していたかもしれない。こちら側に落ちていたら上司を刺殺していたかもしれない。幸いにしてどちら側にも落ちずに渡りきれたからと言って、そして、渡りきれたことによって強くなれたからと言って、それを自分の手柄みたいには言わないでほしいんですよね(笑)

でもね、やっぱり思うんですよ。嫌なこと、苦手なこと、気の進まないことにともかく向き合うというのは、やっぱり人間形成に役に立つんだ、役に立ってしまうんだ、と。

そのことを考えたときに、今の若者たちは大丈夫かな、と言うか、ちゃんと成長してくれるんだろうか、とちょっと心配になったりします。

今の子たちは、ともかく嫌なことをやりません。必ずしも「逃げる」「卑怯者」という感じじゃないんですよね。嫌なことを回避するのがひとつの生き方、生きる術になってしまっている。

嫌なことをやらずに済むにはどうすれば良いかを徹底的に研究して、嫌なことをやらずに退職したり、起業したり、あと何だろうな、人事部に駆け込んだり?

いや、僕らだってそうしたかったですよ。でも、当時は労働市場の流動性が著しく低くて、会社を辞めることは取りも直さず収入減、かつ労働条件の悪化を意味していました。そしてそれ以前に、一旦勤めた会社を辞めてしまうことは、世間から「人生の落伍者」の烙印を押されることでしたから。

若者が先輩のパワハラによって試され、鍛えられるという馬鹿げた時代で、でも、そこから逃げる術がありませんでしたから。

もちろんそんな時代を肯定しません。あんな上司にだけはならないでおこうと、僕らが心に誓ったおかげで、君たちは今みたいに自由にやれるんだと胸を張りたいくらいです(笑)

ただね、何であれ、嫌なことをやった、やりとげた(あるいは逆に「上手にかわせた」でも「頑張って押し戻した」でもいいです)ってことが僕を育てたのも事実なんですよ。

仮に僕が入社して即、自分の希望であったテレビ制作局に配属されていたとしても、じゃあ毎日が楽しかったかと言うと、多分そうではなくて、総じて好きな職種、職場であっても、やっぱり個々には嫌なこと、苦手なこと、やりたくないことがいっぱいあって、多分そんなことをやらされる中で、人は成長して行くんだと思うんです。

「だから、嫌なこともやりなさい」という表現では多分君たちを動かすことはできないんだろうな、とは思います。だから、どう言おうか。

少なくとも、今僕がここで書いているようなことも、たまに考えてみて、「あ、そんなこともあるのかな」ぐらいのことを頭の隅に置いておいてもらえないかな、と思うのです。

その思いが君たちを支えることもあると思うのです。

誰のエピソードだったか忘れましたが、こんな話を聞いたことがあります。

会社のとても偉い人が、新入社員に向かって、「どうだ、仕事は楽しいか?」と訊いたのだそうです。言われた社員はおっかなびっくり、背筋をピンと伸ばして「はい、楽しいです」と答えたそうです(僕らの時代であれば、楽しくても楽しくなくてもそう答えるしかなかったしね)。

すると、その偉い人は、「それではまだ駄目だな」と言ったのだそうです。「会社は君が楽しくないことに一生懸命取り組んで、しんどい目をして働くからこそ、たくさん給料をくれるんだよ」と言ったとか。

「それもどうよ!」と思う人もいるでしょう。でも、僕には正直言って、マルクスの労働観よりも、このエピソードのほうがしっくり来ます(笑)

君たちの労働人生はこれからかなり長く続きます。そして、どこでどんな組織でどんな仕事をしても、嫌なこと、辛いこと、苦しいことは必ずあります。どんなに研究して工夫しても、それは100%回避できるものではないですよ。

そして、回避できなかったときにどうするか、というノウハウは、仕方なく嫌なことに向き合って、泣きそうになりながら働いた人にしか身につかないんじゃないかと僕は思うのですが、どうでしょうか。


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