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ほかの人がいてこそ note で一年

詩を書きだした思い出を掘り起こし、一年目の最後の投稿記事にしました。区切りになるような何かのつもりで。去年の今頃の自分には、思いもつかなかった、エッセイ形式で、noteで見かけたお題をもとに。

詩が原点だったことと、そういう思い出があるよろこびを、かみしめました。

その記事に、もらった反応、スキやコメント、サポート。全部、自分で勝手に、記念日のプレゼントととりました。水野うたさんが、すぐにくれた、祝う言葉とおすすめに、涙ぐみそうになりました。

それで、1周年の日を、そう特別に思ってないはずなのに、その日に起こったことすべてを、お祝いのように思っている自分に気づきました。

1周年へのサポート、川ノ森千都子さん、気遣いが沁みました。この記事は、すぐに公式マガジンに入ったのですが、かなこさんが、わざわざ知らせてくれました。(初、なのでうれしかったです。おすすめ、とは違います。わたしは、まだ、おすすめバージンです。)

どうでもいいと思うわたしと、特別に思いたいわたし、どっちもほんとうなんだろうと思います。わたしは、自分が、よくわかりません。


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1周年当日にも、エッセイを投稿しました。

続けられたこと。詩や散文を書き、投稿していること。感慨深く思います。

書き続けられたのは、わたしに書くことがあった、書きたいと思っていた、からではありませんでした。

それもあるにはあります。でも、大きかったのは、わたしでない要因でした。

共同体の力、です。

庵忠さんが、映画館の記事にくれた感想で、言葉にしてくれました。

結局は、アイデンティティでも、他者でも、社会的な共同体に属するものってことでしょうね。
社会を離れた無色で無臭の原子のような個人だとの理解は、ちょっと違うってことを自覚した瞬間ですね👏 👏
共同主観の一成員にすぎないと思えばこそ、キレイごとでなく、自分とは異なる他者の存在を最大限尊重しようという気持ちが、やすこさんの中に宿る👏 👏

その考えを、次の日の記事の中でも、言葉にしてくれています。

note という共同体。オイラはその共同主観の一成員。自分とは異なる他者の存在を尊重したいと思う気持ちが、面識もない人の記事に対するスキのクリックだったり、サポートという形で表現される。

次の投稿の初めにも、記してあります。(主催された企画のまとめ記事です。ていねいな作品紹介もですが、参加者ひとりひとりへのあたたかな目線と言葉に、圧倒されます。)

社会を離れた個人はいない。まったくその通りです。ひとを動かすのは意志でなく、環境。わかってもいました。いたつもりでした。でも、こんなにはっきりわかっていませんでした。または、ほとんどわかっていなかったのかも。

「共同主観の一成員」「自分とは異なる他者の存在」を認めてはいても、わたしは、そのことを、「尊重」してきたのだろうか。考えさせられました。もらった言葉、気づき、考えたこと。それも、自分への1周年のプレゼントと思うことにしました。

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コロナの後押しを受け、noteを始めた去年の6月の初め。始めた頃は、ビクビクオドオドしてはいましたが、はっきりした参加理由がありました。

ずっと前に書いた詩を発表することと、詩を書くことを日常にすること。

最初の願いは、すぐ達成しました。発表するだけなので。選んでいた詩は、全部投稿しました。読んでもらわなくても、場があるというだけで、うれしくて。昔の自分の書いたものを成仏させるような。

スキマークは、ずっと一桁でしたが、反応が少ないからやめたいと思うことはありませんでした。期待してなかったし、投稿の緊張が強すぎて、ほかのことを考える余裕がなくて。今から考えると、そういう鈍感さに、助けられたなと思います。バカでよかった、じゃないですが、鈍くてよかった。

そして、スキマーク一桁でも、そのマークをつけてくれた人たち、コメントまで残してくれた人たち、はじめてサポートしてくれた人。いちいちに興奮した、幸せな経験でした。

でも、もうひとつの、詩を書くことを日常にするという願いの方は、黒雲が。何年か前から、ポツリポツリ詩の形で書くようになっていたのですが、平均で言うと、半年に1つくらい。noteに参加すれば、半年に一つのわたしにも、なにかが起こるのでは、という期待でした。雨乞いの祈り、ですね。受け身での、待ち。

過去作品を中心に毎日投稿はするけど、毎日なにか書いているわけではない。書きつけても、記事とか作品と呼ぶようなものにならない。このままでいくと、手持ちの詩がなくなったら、投稿はストップし、note  に参加できなくなる。やめたくはないのに、、。

そのとき出あったのが、3行短文詩です。その定型詩を作った zep0814 i理昭さん、すぐに企画で広めたしめじさんは、恩人です。

それからしばらく、やまない雨のように、3行短文を書きました。ジャンルもトピックも、色々なことを試しました。昔話の書き換え、ホラー、ラップの歌詞、ラブレター、脚本、、、。書いてなかったわたしには、なにもかもが、「思ってもなかった」の範疇。そのたび、自分でもびっくりしてきました。

3行短文で書くことが日常になってから、エッセイ、小説、感想文、など、思ってみなかったジャンルやトピックで書きました。リレー小説をはじめ、ほかの方の企画で。コメント欄での声かけで。または、見た記事に触発されて。そのたび、あれ、わたし、こんなことを、こんなものを、と思いました。言葉について考えた時。自分のターニングポイントを考えた時。好きな言葉を考えた時、などなど。

書いているのは自分です。でも、書いたのは、投げてくれたきっかけや、テーマがあったからでした。


ほんとうに。

まったく。

わたしが書けるようになったのも、書き続けられているのも、note にいたから。

そして、あなたがいたから。

名前をひとりひとりあげて、というお礼にしませんが、読まれている方がた、あなたのことです。わたしの記事を、読んでくれて。読んだしるしを残してくれて。くれてなくても。

note 始めた、今よりさらに初々しい頃、(ずうずうしいですか、「初々しい」が。)そのこと、はっきりわかってるじゃん、と言いたくなるような記事も書いています。


あなたがいたから、のところはかわりません。でも今、もっと強く感じることは、「あなた」が、書く人だ、ということ。

書く、ことで始め、自分の記事や作品、で頭がいっぱいだった一年間。読んでくれるあなた、の方をより強く感じていました。

でも、わたしを書かせてくれてたのは、自分も書く人たち。刺激を受けていたのは、あなたが、書いたから。

その内容に、書き方に、気づきに、刺激に、笑いに、情報に、楽しさに、正直な思いに、結果に。もちろん、コメントも。

ありがとう。

ほんとうにありがとう。


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わたしは、自分のことが、よくつかめていません。

書くことに関しても、自分のテーマやジャンルも、いまだにはっきりわかりません。自分のカラーというものも。何が書きたいのかも。何を書きたいと思うんだろう、書くんだろう、と、自分でも見守っている感じです。

そういう自分が不安な気がするときもあるけど、たいていは、それを楽しんでいます。わからない自分をわかるためにも、これからも、無理せず書いていきたいと思います。

詩を日常に。

書くことを日常に。

みなさんの中で。

あなたのおかげで。





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