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「対話型の学びの場」は誰を救うのか

リクルートワークス研究所の『対話型の学びが生まれる場づくり』(以下、元記事と呼ぶ)と、それに対する実践知を紹介したうえむらさん(noteX)の記事と、それらにまつわるうえむらさんとのやりとり。

このやり取りを通して、「対話型の学びの場」と「研修」という対比が私の中で立ち上がってきた。《対話型の学びが生まれる場づくりは難しくもあり、とても面白い領域ですよね。「研修」との接続を考えることもまた面白さを感じます》という言葉から、自分なりに「対話型の学びの場」と「研修」の関係性を考えてみた。


「対話型の学びの場」と「研修」の関係

まず誤解のないように言っておくと、これは「どちらの方が良い悪い」というものではなくて、「どちらも必要」なのは間違いない。だから問うべきは、「それぞれどんなもので、どう組み合わせるか」であることは先に確認しておきたい。

そのうえで、「対話型の学びの場」と「研修」の関係をあらためて考えてみると、「対話型の学びの場」というのは、「現場での(良質な)OJT」を「Off-JT的(研修)に切り出したもの」と捉えられないだろうか?ということだ。

そして、「対話型の学びの場」と「研修」は、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」を志向する文脈においては、本質的に違いはなくて、両者の境目が無化していくという流れがあるのではないだろうか。

『対話型の学びが生まれる場づくり』より

あらめて、「研修」とは?

両者の関係を説明するために、まずは「研修」の捉え方を整理してみたい。あらためて、「研修」とはいったいどういった学びの場なのだろう。

いわゆるステレオタイプな「研修」は、一人の権威者としての「講師」が前に立ち、無知の「受講者」に向けて静的な知識をインストール(言い聞かせる)する形をとる。元記事ではそれを「モデル1 教える」「モデル2 学修する」と呼んでいる。

一方で、最近の私の「研修」の作り方は、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」を志向したものだったのだな、ということを元記事を読んで再認識した。

受講者の経験を引き出し、意味づけし直そうとすると、講師である僕から「説明」する時間はどんどん減っていく。

講師が「説明」する代わりに、受講者に話してもらい、書いてもらう(個人ワーク)。今日の研修のテーマに関して、自分が過去に経験したことやそこで感じたことを。

そうやって表に出てきたみんなの経験を持ち寄って、「どう思う?」と受講者どうしで話し合ってもらう(ディスカッション)。

研修の作り方においてよく言われることだが、講師ではなくファシリテータとして振る舞うということだ。教壇の上や、受講者の前に立つのではなく、受講者の横、あるいは、受講者の輪の中に立つというイメージ。

ここで注意したいのが、「モデル1 教える」「モデル2 学修する」が「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」にくらべて劣っている、というわけではないということ。そのときの状況にあわせた、適切な学習モデルの選択の問題にすぎない。

ただし、意図的に選択するためには、「研修」に対するイメージの解像度を高める必要がある。そういう点において、伝統的な意味での学びである「モデル1 教える」「モデル2 学修する」と、それとは別の形の学びとしての「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」を対比させた元記事は、学習モデルに対するイメージの解像度を高めるうえで価値があると思う。

ひとくちに「研修」といっても、そのなかで採用される学習モデルには大きく分けて「モデル1 教える」「モデル2 学修する」と「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」という対比があるということだ。そして、私は「研修」を「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」の学習モデルでもって作ることを志向している、ということにあらためて気づいた。

一方、「対話型の学びの場」とは?

もう一方の「対話型の学びの場」は、元記事では《多様な他者と探求しながらの訓練、つまりOn the Research Training(ORT)》と呼ばれている。

ORT≒対話型の学びの場はさらに、《質的転換② OJTからORTへ》という項において、OJTと対比されている。ここでOJTは、「モデル1 教える」「モデル2 学修する」的なものとしてラベリングされている。

1980年代には日本的経営礼賛の時代が到来し、もはや海外に教師なし、という雰囲気に変わった。その経営を支えたのは、長期雇用を前提にした内部人材の育成だった。この頃の企業内教育は、On the Job Training(OJT)と階層別教育の2本立てだった。この2つが有効に機能したのは、社内に信頼できる正統な考え方が存在していたからである。正統な考え方を社員に教えるのが企業内教育の役割であり、「上司は教師である」というモデル2が日本的経営を支えてきた。

『対話型の学びが生まれる場づくり』

OJTから上記のような「モデル1 教える」「モデル2 学修する」的なニュアンスをいったん漂白し、字義どおり「現場で行われている」という点だけに着目しなおしてみよう。そう考えると、OJTであっても、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びが起きる可能性は、十分開かれている。

「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びが起きる現場や、そういった学びを起こすことのできる周囲との関わり。そういった現場や、周囲との関わりの中で何が起きているかと言えば、メンタル・モデルの意識化とアップデートなんじゃないだろうか。メンタル・モデルの説明をいまあらためて読み返すと、それがまさに「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びと、同じ地平にあることがわかる。

メンタル・モデルの問題は、それが正しいか、間違っているかにあるのではない。そもそも、モデルというのはすべて単純化されたものだ。メンタル・モデルが問題になるのは、それが暗黙の存在になるとき、つまり意識のレベルより深いところに存在しているときなのだ。

(中略)

私たちが自分のメンタル・モデルに気づかないままでいるから、そのモデルは検証されないままになる。検証されないから、モデルは変化しないままになる。世界が変化するにつれて、メンタル・モデルと現実の乖離は大きくなり、ますます逆効果の行動をとることになる。

メンタル・モデルを意識化、アップデートするようなOJT。そういう「深い」OJTが起きる、「現場の集合体」や「周囲との関わりに満ちた場」というのは、まさに『学習する組織』としてふさわしいんじゃないだろうか。

元記事の意義は、「OJTではなくORTだ」という表層的な転換に駆り立てることではなく、少ないながらも自然発生していたであろう「深い」OJTにおける「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びを、意図的に、そして現場の外にも生み出しましょうというメッセージなのだと思う。

これが冒頭で、《「対話型の学びの場」というのは、「現場での(良質な)OJT」を「Off-JT的(研修)に切り出したもの」と捉えられないだろうか?》と書いた所以だ。

ちなみに、元記事では「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びを意図的に生み出す場として、実践コミュニティという場が提案されている。

対話型の学びの場の1つとして、実践コミュニティ(実践共同体とも呼ばれる)がある。実践コミュニティはOff-JT、OJTに次ぐ第3の学びの方法であり、特にパンデミックを機に他部署との協働がうまくいかなくなった組織において近年改めて注目されている手法だ。実践コミュニティは、「あるテーマに関する関心や問題、熱意などを共有し、その分野の知識や技能を、持続的な相互交流を通じて深めていく人々の集団」と定義されている(Wenger et al., 2002)。多くの企業では既に部活動や自主勉強会など、公式・非公式のコミュニティが存在している。こうした企業では、実践コミュニティは人々を結びつけ、問題を解決し、まだ発見されていないビジネスチャンスを創出する可能性を持った存在として注目されている。

『対話型の学びが生まれる場づくり』

ここで「Off-JT」「OJT」「実践コミュニティ」と3つが対比されているのでややこしくなってしまっているが、私が《Off-JT的(研修)に切り出したもの》において「Off-JT」という語で意図しているのは、字義どおりシンプルに「現場の外」ということ。つまり、「現場で起きていた」学びを「現場の外に切り出す」ことで、「意図的に増やそう」というニュアンスだ。

「対話型の学びの場」と「研修」の関係を、あらためて

「対話型の学びの場」と「研修」の関係をもう一度整理してみる。

  • 「モデル1 教える」「モデル2 学修する」としてイメージされがちな「研修」を、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」志向なものとして再定義する。

  • 「OJT」のなかにはきっと、メンタル・モデルを意識化、アップデートするような「深い」OJTが存在しているはず。

  • 「深い」OJTは、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学びの場と言える。

「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な学習モデルを媒介にして考えると、「対話型の学びの場」は「無から生み出す」ところのものに限定されるわけではない、と視界が開けてくる。

「対話型の学びの場」は、少ないながらも自然発生的に行われていた「現場での(良質な)OJT」を、現場の外へと「Off-JT的(研修)に切り出したもの」として解釈する余地が出てくる。

「対話型の学びの場」と「研修」は、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」を志向する文脈においては、本質的な違いはなくて、両者の境目が無化していくという捉え方があるのではないだろうか。

「対話型の学びの場」と「研修」の新たな関係の先に見える景色

私が人材育成や組織開発を仕事にしているからか、「私も育成に興味あります」と伝えてくれる人は多い。その人はいま現場で働いている人であったり、あるいは、コーポーレート部門で育成以外に携わっている人だったりと、本当に幅広い。

その育成への「興味」を、「実践」につなげる手助けができないだろうかと考え始めてから、かなりの時間がたった。

ものは試しにと、そういった人たちに、インストラクショナル・デザインを教える機会を作ったりもした。それはそれで一定の効果を感じたのだが、どうしても、「現場の外としての研修」を作る、という視点に、その人たちも私自身も閉じてしまう。

そうすると何が起きるかというと、「研修」という時間/空間を立てつけるフォーマルな場/機会がない、という「できない理由」が口をついてしまう。

「コーポレート部門ではない現場の人間なので…」
「異動希望が通らないんです…」
「ウチの会社って…」
「上司が…」
「予算が…」
「忙しい…」
……

この「興味」と「実践」の間に立ちはだかる壁をどう乗り越えたら、あるいは、彼らが乗り越えるのをどう手助けしたらいいのだろう、といつも考えてはいたものの、ずっと答えが見つからないでいた。

そんななか、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な方法論を身につけてもらう、というのは、一筋の光に思えた。

「対話型の学びの場」と「研修」は、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」を志向する文脈においては、本質的な違いはなくて、両者の境目が無化していく。そして、「対話型の学びの場」は、現場の中としての「OJT」においても、十分生起しうる。

「研修」「OJT」(そして今回深くは触れなかった「実践コミュニティ」)を、「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的学習モデルに立脚した、「対話型の学びの場」として俯瞰することによって、良い意味で「根本は同じもの」「やりたいことをできる場所は身近にある」というふうに思ってもらえるのではないだろうかと感じたからだ。

「私も育成に興味あります(けど今は関われていません)」という人にとって、育成の「実践」にもっとも近い場所は、「OJT」だと思っている。

ここでの「OJT」は、制度化された人事施策としてのそれではなくて、「現場の中で行われる、育成的な関わり/取り組み」という意味においてのものだ。(仮に自分が制度的な意味においてのOJT担当に割り当てられてなかったとしても)若年者や新規参画者との間で育成を意図したやり取りを心がける。ランチオンや業務外の時間で、30分くらいの短い勉強会をやってみる。

「現場の中で行われる、育成的な関わり/取り組み」としてOJTを捉えれば、「コーポレート部門ではない現場の人間なので」「異動希望が通らない」「ウチの会社が」「上司が」「予算が」「忙しい」といった、できない理由たちは霧散する。

だって、今あなたがいるまさにその場/時間こそが、育成の実践につながっているから。育成の実践とはなにも、フォーマルな形の「研修」をやることでもないし、育成部門に異動することでもない。

「モデル3 探求する」「モデル4 常識を疑う」的な方法論(に加えて、「モデル1 教える」「モデル2 学修する」ももちろん捨象するものではない)を身につけてもらう、という観点でもって、「私も育成に興味あります(けど今は関われていません)」という人たちに向き合ってみようと思う。

そうすることで、「研修」「OJT」「実践コミュニティ」という境界線を意識のうえで無化することができ、「やりたいことをできる場所は身近にある」と感じてもらい、今その人がいるまさにその場/時間をこそ育成の実践につなげてもらう。

彼らにとっては思いが成就し、私にとっては仲間が増える。そんな企てをしてみようかと、元記事とうえむらさんとのやり取りに背中を押してもらった気分だ。

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