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雨の夜のキャバクラと焼き鳥と

6月の金曜の夜、上司にスナックとキャバクラが合わさった様な店に付き合わされる。キャバクラなのにカラオケがあるんだと上司は嬉しそうに僕に言う。そんな店には興味はないが、社内的に微妙な立場だったので行かざるを得ない。他の部署のプロジェクトを成功させたら、それが故に立ち位置が複雑になった。断る方が面倒だ。

雨は途切れることなく降り続け、シャツからは雨の匂いと自分の体のにおいが混じり、革靴の中も湿っている。

大げさに重いドアを開け、上司がママに大げさな挨拶をする。空いている店の席に着くと上司は僕を放置し、ママと他の女の子と話始めた。僕は適当に烏龍茶を飲みながら適当に相槌を打っている。

「あれっ?里村くんじゃない?」
顔を上げると紺のシックなワンピースを着こなした中学の同級生がいた。キャバクラと考えるとあまりそぐわない恰好だが、その姿はまるでこの場が彼女に合わせなければいけないぐらいの雰囲気だ。

「佐伯さん?」
「そう!わかった?嬉しいな。そこ座っていいかな?」

佐伯さんとは小学校中学校が同じ、そして同じテニスクラブで一緒のコートに立っていた。テニスのクラスも小3からずっと一緒で、小学校の頃は佐伯さんのほうが強かった。確か、慶応とか上智とかそんな大学に行ったと聞いた気がした。

佐伯さんのテニスはジュニア女子のテニスらしくなかった。ジュニアの女子はハードヒットオンリーの単調なテニスが多い。そこから抜け出る選手は柔軟な戦略を持つ子だ。佐伯さんは柔らかいタッチからの緩急を織り交ぜ、そこからのネットプレイ。イマジネーション豊かなものだった。

「久しぶりだね、里村君テニスやってるの?」
「なかなかできないよね、月二くらいだね」

店ではいつの間にかカラオケが始まっていて、50代の客が矢沢永吉らしいものを歌っている。

「しかしさ、お互い28だよ、里村君、今どうしてるの?」
「普通のサラリーマンだよ。キャバクラで年の話を同級生とするとは思わなかったけどね」

そんな挨拶から始まって、当たり障りのない近況を話していた。

「そういえば佐伯さんの妹さん、由里さんだっけ、元気かな。バスケで物凄い注目されてたよね。高校、バスケの強いところに入ったんだよね」
「由里ね。色々大変だったんだけど。うん」

佐伯さんの雰囲気で由里さんに何があったのか察する。不用意に深い部分に踏み込んでしまったようだ。後悔する。

しかし、佐伯さんは話を続ける。
「行った先が、公立なんだけど、バスケ部が全国レベルの強豪校なのね。そこに勧誘されたのよ。凄い厳しい部活だって聞いていたんだけどあの子は厳しい練習なら全然平気だから、と言って入学したの。でも厳しいって練習だけじゃなかったのね、あ、里村君何か飲む?」
「そうだね、何があるの?」
「そうね、ここのウィスキー、山崎とか白州とか言うけど、全部トリスだから。瓶ビールがいいよ。流石に瓶ビールは詰め替えできないし」

瓶ビールを二人でシェアして飲み始める。
キャバクラにはあまりない光景だ。

「あの子の持ち味は、イマジネーション豊かなバスケなのよ。みんなが思ってもいなかったパスとか、アンダーハンドとか、ビハインドザバックパスとか。中高でやる子はいないよね」
「佐伯さんのテニスもそんな感じだったよね」
佐伯さんはほほえみながら、ありがとう、と嬉しそうに言う。

「入学してあの子が得意なプレイは顧問に全否定されたらしいの。まじめにやれ、そんなパスは女子では無理だって。型にはまったバスケ、というか、要は顧問の指示通りに展開しないとダメだと。そんな感じ、里村君のテニスでそれ、無理でしょ」

「そうだね、僕らのクラブのコーチは単調なテニスすると、つまんないテニスだな、プレイって遊ぶって意味だぞ、自分の頭を使って遊んだテニスこそが幅を広げるんだぞ、とか言われたからね」
「だよね。スポーツって意外性がゲームの彩りを生むしね」

僕らの前の瓶ビールはあまり減らない。

「でね、そのチーム、2年ほど成績が低迷したせいか、昔からなのかわかんないけど、顧問の体罰が凄くて。平手打ちとかつき飛ばすとか日常だったみたい。試合に負けたとか、試合の態度がなっていないとか、練習のミスとか、その態度とか。毎日毎日」

店は少しずつ客が入ってきた。カラオケは誰かが音程が外れたオフコースを歌っている。小田和正とは100億光年離れている。

「そうなると当たり前だけど生徒もミスを恐れて委縮するよね。トレーニングやストレッチはしっかりしていると思うけど委縮するから体も委縮してけがが多いのよ。体罰ってどうなのかな、選手として伸びるのかな。里村君、どう思う?」
「八村塁やダルビッシュ有とか、フェデラーや錦織圭が、平手打ちとか、つき飛ばされて育ったとは想像できないな」
「そうよね。でさ、あの子さ、そんな部活だから家に帰っても顔色が良くなくて。何とかぎりぎり持ちこたえていたのよね。それから私知らなかったんだけど、その顧問、女の子の顔には平手打ちとかしないで太ももをはたいていたらしいの。だから家族はなかなかわからないよね」

60代の腹の出た男がBeatlesのイエスタデイをがなり立てて歌っている。ポールマッカートニーに申し訳ない。

「2年生の時に男子の部内紅白戦があって、女子に人気のある男の子を、今までまるで冴えなかった男の子が完全に抑えたのね、その様子を妹が絶賛したらしいの。冴えなかった男の子の努力を全て含めて絶賛したらしいの」

「周りの子はそれが気に食わなかったらしいのね。そしたらね、由里、ポイントガードなのにボールが廻って来なくなっちゃったの、試合で。ポイントガードって司令塔じゃない。試合でそれやるってチームの勝敗よりいじめを選択したという事よね。凄くない?練習中もね、無視。教室に帰っても手が回っていて、そこでも無視。学校の中に逃げ場なしよ。逃げ場ってどんなところにも必要でしょ。最近の公立小学校には、ほら穴見たいな場所とか、わざとデッドスペース作るらしいよ。授業になじめない子の一時的な逃げ場なんだって。」

カラオケは上司が知らない演歌を歌っている。プロがやるようなタイミングをわざと外して歌うが、不安になるだけだ。でも手拍子はしている恰好だけでもしなければ。

「顧問は気が付かなかったの?流石にポイントガードにボールが渡らないのはおかしいでしょ」
佐伯さんは下を向き、自分の爪をいじりながら言う。
「もちろんあいつ、わかっているわよ。里村君、ロバとかヤギとかじゃないんだからしっかりしてよ。ほら、スケープゴートよ。あ、ゴートってヤギか」

「顧問は部内の自分に向けられるかもしれない鬱憤のガス抜きをしたかったのかな、で、由里がスケープゴート。由里、私と同じで、違うと思ったら意見しちゃうからね。顧問は由里に集中して威圧的な指導をして、つき飛ばしたりして。チームのミスを由里にだけに押し付ける形。この頃から青通り越して白とか茶色の顔して帰ってくるの」

「チームメイトにバッシュ、隠されて。しょうがないから学校の上履きで練習したのよ」

「で、最後の力振り絞ったのかな。部内のゲーム練習に上履きで入って、自分がボール奪ったら誰にもパスしないで自分で持ち込んでゴールラッシュだって。味方のパスまでもカットしてシュート。凄いよね、うちの妹。チームメイトに一人だけ、何とかしなきゃって思っている女の子がいて、全部教えてくれたの。でもさ、あの場で一人で何とかって、できないよね。その子話ながらぽろぽろ涙こぼすのよ、その子も被害者よね」

カラオケはおふくろさんが怒鳴り声で歌われている。
もちろん誰も聞いていない。

「由里から無理やり聞き出して、そのチームメイトからの話も持って、顧問の先生にお母さんが話しに行ったの。でもその顧問、聞く耳持たずでね。もう、私も怒り心頭で、乗り込もうと思ったよ、鎖鎌持って。大事な大事な妹が、あんなに明るくて優秀な妹がさ、やせ細って、うつろな目をしてさ」「くさりがま?何それ、もしかしたら宮本武蔵?」
「例えよ、例え。里村君、細かいところこだわるわね。両親から、お前だけは来るな、話がややこしくなるどころか紛糾する、って言われて行くの止めたんだけど。鎖鎌も生かせないし」
「え、佐伯さん鎖鎌の使い手なの?」
「だから、例えよ、例え。そここだわらないの」

近くのテーブルで50代後半の男性2人が大声で会社の派閥らしき事を店の女の子に聴かせている。

「で、今度はお父さんとお母さん二人で乗り込んだら、途端に態度だけは手の平返し。部内のいじめについては「私はこの部を愛しています、徹底的に、全力で調査し、部員全員でタッグを組んで、そのようなことがないように善処します この部はしっかりとした絆があるのです」とかそんなことを言うのよ」

僕は前から思っていた。全力とか、徹底的にとか、しっかりととか、あやふやで具体的ではない言葉をそんな場で使うのは、話をはぐらかそうとしているだけだ。

「でね、体罰に関して、お父さんが話をすると、「指導が過ぎてしまいました。」とだけよ。謝らない。お父さん、それは暴力であり、刑事事件に該当すると言い放ったのね。結果校長先生も交えて話し合いがあって、最終的にその人、顧問を辞めたのよ。そしたら、今度はバスケ部の保護者が大騒ぎで。全国に連れていける先生をどうしてくれたんだって。署名運動まで始まっちゃって」

店はいつの間にか混んでおり、誰かが酔っぱらってグラスを倒している。ウイスキーなのか何かで割った焼酎なのかよくわからない茶色の液体が大理石に似せた床のシートにこぼれている。

「こうなっちゃったら、もういけないよね、学校。しばらく前から、両親も私もあの学校へは行かなくていいかなと、考えていたし。結局、由里がもう行けない状態になっちゃったのね。行けないというか、引きこもり状態で。家からは一歩も出れないし」
「確かに。まあ、そうなるよね。しかし、なんで被害を受けた側がそこから去らなきゃいけないのかっていつも思うよ」
「そうよね、自分たちが加害者という意識がないからかな。排除すれば今まで通りの安泰があるからかな。考えること止めちゃうのかな。強烈な誰かに隷属すれば考えなくていいからね。でね、由里なんだけど、よく聞く引きこもりのような部屋から一歩も出ないのではなくて、リビングやお風呂には普通に来るし、食事も一緒に食べるのよ。食事終わると、ふゎーと自分の部屋に戻るのね、ただ、会話はなくて、頷く程度。そりゃ私もお母さんも、最初は何とかしようって色々話しかけたりするんだけど、ほとんど受け答えができないのよ。家具見たいな感じ。暴力とか暴言とかはないんだけど、家具」

カラオケはハウンドドックのフォルティシモを50代ぐらいのサラリーマンがこぶしを振り上げて大声で歌っている。一人女の子が手拍子を取っているが聞いている人は誰もいない。

「心療内科には連れて行ったのね、薬は3種類出たんだけど、エチゾラムしか合わなかったらしくて他はやめたのね。ずっと模様のない天井を見続けたらあんな目になるのかなって」
「それって、よく言う死んだ魚の目って感じかな」
「うん、魚はね、私、秋刀魚がいいな。でね、半年たっても全く状況が変わらなくて。今まで私たち姉妹ってほんと順調に育ったのよ。両親はもう、憔悴してたんだけど、こっちが憔悴しても状況変わらないじゃない。そこで私が頑張って、私が背負うような形になって、憔悴した。あはは」

「でも私が憔悴したのを見て、逆に両親は我を取り戻した様で、この状況を受け入れるしかないねって3人で話したのね」
「佐伯ファミリーは、なんだかすごい良い家族のような気がするよ」
「そうね、最後の砦である家族が崩壊しないで良かったかな。でも由里は変わらずで」

このご時勢にもかかわらず、タバコを吸う客がいるおかげで空気が悪い。

「で、1年ぐらい引きこもっていた時に、叔父さんが遊びに来たの。父の年の離れたお兄さん。今、60半ばかな?昔から凄くカッコよくて、可愛がってもらったの私たち。小2の時のお土産が、私と由里、それぞれにゼロハリバートンのアタッシュケースとラゲッジよ。ぶっ飛んでるよね。今でも使っているけど。世界中どこへでも行っちゃう人で、会社作って成功させたらすぐに人に譲るの。短い銀髪で身のこなしまでカッコいいのね。スーツも革ジャンもアロハシャツも全部かっこいいの」

「でも天然というか、我が道を行くというか。少し前に若い人たちと会議があって、1日かかったんだけど全てがとても良い感じにまとまって。そのまま予定外だけど15人ぐらいで飲み行くことになったらしいのね。で、急遽だから、近くのチェーン店の居酒屋に行く事にして、その叔父さんがみんなの先頭切ったらしいの。若い人たちはなにか起きる!とワクワクしたらしいのね」

「居酒屋の入り口で店員さんが、お客様何名様ですか?。そしたら叔父さん、左右見渡して、にこやかに両手広げて「many!!!」」

僕は今日初めて声をあげて笑った。

「その叔父さんが遊びに来た日、今でも空気の粒子までわかるぐらい覚えてる。7月初旬、梅雨の合間の快晴、ほんと気持ちよくて。叔父さんお土産に美味しい普洱茶とかキャバクラコーヒーとか持って来てくれて」
「それ、パナマのゲイシャコーヒーじゃないのかな?」
「里村君?ここ、すごくいいところなんだから。少し黙ってなさいね。というかさ、ここ、出ない?」

店のボーイが寄って来て。佐伯さんに声をかける。あちらのお客様が。
あ、私、今日もう上がるから。心配しないで。

「お店大丈夫なの?」
「うん、もうやめるの、というか今決めた。さすがに店の人と話してくるから。ここ左に出て2本目の小路を右に焼き鳥屋があるからそこでね。お店に電話しておくね、私と同い年のイケメンが来るって。先に行ってて」

上司はへべれけになって店の女の子に絡んでいた。帰ると挨拶して店を出ようとすると呼び止められた。おまえ、営業1課の高坂のFacebookにいいねとかしてるだろ、俺はわかってるんだからな。あいつのおかげで俺たち冷や飯食わされてるんだぞ。



小雨の中、焼き鳥屋に着くと店の年配の大将が、お、イケメンかな、とわけのわからない出迎え方をする。さほど新しくはないが、清潔だ。佐伯さんはすぐに店に来た。カウンターの隅に座る。

「お店は大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。辞める事は前から伝えてあったし、何とかなるものよ」

何も言わず、日本酒の四合瓶が置かれた。越乃白雁 越淡麗 純米吟醸 無濾過生原酒。

「新潟なんだけど単なる端麗辛口じゃなくてフルーティでふわっと広がるから、飲んでみて」

たしかに最初は端麗辛口だが、後から奥深い豊かなものが広がった。

「どこまで話したんだっけ、叔父さんが遊びに来たとこよね。」
「お昼前にきて、お土産の他にもラタンのバスケットに山のようなサンドイッチを入れてきてね。フルーツサンドまで入ってて、叔父さんに聞いたの。どこのお店のサンドイッチ?って。ん、僕が作ったんだよ、みんなの口に合うといいな、だって。すごいよね。由里もお昼ごろにふわ~と自分の部屋から出てきたんだけど、叔父さん見つけたら、すぐ部屋に戻っちゃって。でもまたすぐ出てきて。ニット帽とサングラスしてるの」

「でも叔父さん全く気にしないで、自分でみんなのコーヒーいれて。リビングでみんなでサンドイッチ食べたの。世界で一番美味しいサンドイッチだったな、由里はしゃべらなかったけど、リラックスしている雰囲気はあったわ、キャバクラコーヒーって凄い美味しいのね。初夏の風がリビングを吹き抜けて、あかるい光に包まれていたのよ。」

今度は何も言わなかった。
キャバクラだろうがゲイシャだろうが今は関係ない。

焼き鳥はお任せで出てくる。ねぎまのモモ肉がふわりとして驚く。ぼんじりや皮も表面はかりかりだが、中から串を伝って肉汁があふれる。塩で頼んだがその塩は優しい海の味がした。

「リビングで叔父さんの色んな話を聞いて。起業するときのポイントとか、日本の若者は言われているより遥かに優秀だとか、インドの屋台のオムレツはバターの味しかしないとか、企業組織の中に入って事業を継続するのはとてもクリエイティブだ、とか」
「それから叔父さん、ギターも持ってきてて、里村君、スラックキーギターって知ってる?」
「いや、聞いたことないな」
「私も詳しく知らないんだけど、ハワイで生まれて、チューニングが他のギターと違うらしくて、緩いんだって。Spotifyで聞けるから今度聞いてみて」「必ず聞くよ」

「叔父さん、そのスラックキーギター、弾き出したのね。初夏の素敵な天気に、最高に合うのよ。風がカーテンを緩やかに揺らして。時間が緩やかに流れてて。何曲か弾いて、コーヒー飲みながら、叔父さんがさらっと由里に話しかけたのね」

「そのTシャツいいね、まるでカエルが出てきそうだよって」

「わかると思うけど、由里、ど根性ガエルのピョン吉Tシャツ着てたの。叔父さん狙ったのか、天然なのか、もうよくわかんないけど」



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「笑いこらえるの必死よ。そこで爆笑したら由里がどう転ぶかわからないじゃない。お父さんもお母さんもわけわかんない顔で笑いこらえてるのね」

「そしたら、由里がふふって笑ったの。1年ぶりぐらいに。そしたら何だかね、家をしばらくの間縛り付けていた何かが少しほどけた気がしたの」

「そのあと、少ししてから、由里が自分から叔父さんに色んなこと、時系列とか関係なしに少しづつ話し始めて。ばらばらに話すから聞きずらいはずだけど、叔父さん、そう、そう、うん、うん、そうそう、ってずっと聞いてて。相槌の語尾が下がるんじゃなくて少しだけあがるの。3時間ぐらいかな。叔父さん、なんというか、話す人が安心できる相槌を3時間。そう、そう、うん、うん、って。未だに耳に残っているな、叔父さんの相槌」

「由里がふっと話しをやめて、なんか話し尽くした気配がしたのね。そしたらね、叔父さんが少し間を開けて、昔のピンナップは壁から外してもいい、ゆっくりでも外せばいいんだよって」

「もうね、私たちがその呪縛から離れた気がしたな。わけわかんない顧問とかバスケ部のチームメイトとか、その保護者とか、学校の体質とか」

手羽を手づかみで食べながら佐伯さんは言う。

「後からお父さんから聞いたんだけど、叔父さん、3週間ぐらい前から天気図見ながら、そんな日を狙ってたんだって。何があったか詳しいことはお父さんから全然聞かないで、何となくうちの家族が少し良くないことを感じ取って。みんな揃っていて、風が気持ちいい日に行った方がいいなって」

火が通されたチェリートマトが運ばれた。信じられないほど甘味がある。

「その10日ぐらい後かな、由里、youtube見たんだって。汚部屋の掃除動画。見終わって自分の部屋見たらそれにかなり近い」

「たまたまその時うちの掃除機、調子が悪かったのね。由里が、お姉ちゃん、掃除機買ってきてとか言うから、いつも買い物はAmazonとか楽天で買うのに激ダッシュしてケーズデンキ行って買って来たわ、掃除機。ダイソン。嬉しくてしょうがなかったから、コードレスとキャニスターとハンディの3台」

「由里、爆笑してるの。ダイソンフルラインナップじゃん、お姉ちゃん3台同時に使えないよって」

「1年ぐらい由里の大きな笑い声なんて聞いたことなかったから、こっちは笑い泣きよ。そこからは少しずつ外に出たり、人がいない時間に買い物行ったりできるようになって。ひと夏で相当回復して。回復というか戻ったわけじゃなくてなんというんだろ」
「再生かな?」
「里村君、切れてるね、そうそう、再生。reborn」

店は8割ほど埋まっている。声高に喋る客はいない。つくねが来る。ふわりとしたなかに軟骨の歯ごたえ。

「でね、叔父さんにLINE送ったの。本当にありがとうございました、おかげで由里がうまくいきそうですって。返信。僕はあの家に元々あった素晴らしいものに少しだけ積もった埃を払っただけだよって」
「凄いね叔父さん。叔父さんのファンになりそうだよ」

僕は越乃白雁を飲み干す。
「佐伯さん、思うんだけど、創造力のある子がまるで想像力のないところに行って弾かれてしまって、でも創造力と想像力がある人たちに引っ張られた気がするんだけど」
「嬉しい事言うね、里村君。でもね、あの学校に想像力のかけらでもあれば何とかなった気がするのよね。まあ、創造力と想像力って似て非なるものだけど持ってて損はないし、持とうと思えば持てるしね」

佐伯さんは八海山の越後で候を2合頼んでくれた。僕が彼女のガラスの御猪口に注ぐ。

「で、由里なんだけど、テニス始めたの。元々運動出来る子だから、あっという間にうまくなって。たぶん、中学生の県大会レベルなら勝てるわよ。里村君、ピンチよピンチ。あっという間に抜かされてぼっこぼこにされるよ、マジで。ポリエステルのガット、三日で切るよ。グリップテープもすぐ汚れるし」

「佐伯さんのグリップテープ、酷かったよね。取り替えないから真っ黒」

「そうそう、そんな時に里村君のバッグ勝手に漁って勝手に貰ったな」
佐伯さんは抹茶とあんこの白玉もなかアイスを食べ始めた。僕には一口しかくれなかった。

「今、どうしてるの?」

「テニスのジャーナリストやってる。ほとんど屋外で、ジャーナリストの連中の雰囲気がカラッとしてるんだって。何でかな」

「屋外が多いからかな、わかんないけど」

「それ、あるかもね。個人競技ってのもあるかも。グランドスラムからATPツアーとか。でも気になる選手いたら、下部のチャレンジャーとかも行くんだよ。女の子のカメラマンとタッグ組んで廻ってる」

「珍しいね」

「そうそう。だから選手も話しやすいみたい。今ね、ハンブルグで、そのあとスペインのマヨルカで3週間後ぐらいに日本に帰ってくるのね。そういえばこの間ダニエル太郎と錦織圭と国枝慎吾にインタビューしたらしいよ」

「な! 聞いてないよ」

「誰も言ってないって。里村君、興奮してわけわかんないよ。ね、今度由里帰って来たら3人でテニスやろうよ。もう一人ぐらい誰か見つけて。由里、本当に強いよ。でさ、その前に里村君、今度私とミックスの試合出ようよ」

外では雨はあがり、雲間からやわらかい月がみえた。


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2020/11/14 改訂
2023/5/13 改訂




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