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11月の空

 SNSの海であなたを見かけました。10年経っていてもあなたの笑顔はあの時と同じように素敵でした。
 ニューヨークにあるワシントンスクェアパーク。一面黄金色に染まった銀杏並木の中にいるあなた。苗字は英語です。僕が聞いていた苗字ではありません。
 
 11月の東京。どこまでも澄み切った青空を仰ぐとあなたを思い出します。アナスイと組曲、BLUE LABELとヒステリックグラマー。趣が違う服を着こなせる。そんな人でした。あなたは僕に何を残したのでしょう。
 
*

 初夏でした。
 あなたは大手通信販売のバイヤー。僕はセールスプロモーションのグッズを中心に扱う商社。通販で扱う商品を見繕って提案します。打合せはいつも午後三時でした。一度、なぜこの時間なのですか、と聞きました。あなたは柔らかい笑みだけを僕に向けました。
 広い部屋にパーテーションで区切られた二十ほどのミーティングスペース。大きな窓のそばが定位置です。
 もうすぐ夕方なのに外では遠慮ない日差しがあまたのものを焼き付けています。その時間、他に打ち合わせをしている人はいません。何もかもが死んでしまった様な夏の午後。空調だけが鈍い音を響かせ、その風で縦型のブラインドの生地が時折揺れます。

 三つほど年上のあなた。僕の拙いプレゼンを少しだけ顔を傾けて、遮ることなく聞いてくれます。時折質問する声。それはこんがらがった僕の話を柔らかく解きほどくものでした。
 その声は夏の空の様な真っすぐと明るさの様なものを押し付けるではなく、冬の空の様な底が見えない厳しさもありません。透き通り、そして少しだけ何かをあきらめたかのような11月の空の様です。
 社会に出て間もない僕は邪険にされる声をたくさん投げつけられました。その中であなたの声が僕の救いになっていたのかもしれません。
 ミディアムのワンカール、内巻き。少しラフにした柔らかそうな髪。
 僕はなかなか目線をあわせる事が出来ないので、髪ばかりに視線を送っていました。

* 

 23歳でした。中途半端な大学からやっとの思いで入った会社。ホームページの中のオフィスはきらびやかな中にカジュアルな雰囲気を押し出していました。社員たちはラフな格好でスタバのカップを片手に打ち合わせしています。カフェやbarもあります。
 父はお祝いにバーウィックの革靴を買ってくれました。

 確かにカフェやbarの「跡」はありました。その「跡」にはプレゼンに失敗した商材や終わったキャンペーンの什器たちが乱雑に置かれ、埃を被っていました。
 全国から漁った商品を通販会社などに売り込んだり、キャンペーンのノベルティを広告代理店に提案するのが仕事です。僕のpcには提案する商材の数だけ見積書のファイルが作られ、同じ数だけの見積とサンプルが全国のメーカーや問屋から僕宛に送られます。
 それを手に営業に行きます。片手にあるのはスタバのカップではなく、エナジードリンクでした。バーウィックの革靴の中は常に湿り気を帯び、靴擦れを起こしました。かかとがあっという間に擦り減りました。大雨で濡れた後に手入れをしなかったので型崩れしました。

 一人当たりの損益分岐点というものが僕を苦しめます。給料を含む、人一人を雇うコスト。そこには交通費を含む営業経費やオフィスの家賃、光熱費、車両経費も含まれます。その合算が一人あたりの経費。それ以上稼がなくてはいけません。会社がどうやってその数字をこねくり回しているのかわかりませんが、だいたい月に250万から300万。それが一人当たりの損益分岐点。つまりノルマです。売り上げではありません。利益です。300万の利益を確保するには月に1,500万から3,000万の売り上げが必要です。

 靴はすぐに3足目になりました。安い防水仕様のヨネックスにしました。大手広告代理店担当には一発で見抜かれました。靴に眼をやりながら「外回りって大変だよね」と言うその担当は僕の2歳上。彼のスーツやその革靴を見ます。革靴はジョンロブでした。15万ぐらいします。僕が2年後ジョンロブを履いているとはとても思えません。

 東京の街をサンプルが入った大きな袋を抱え、いつからなのか解らない重い疲れを引きずりながら小走りに歩きます。足を前に出す度に砂地に埋まる気がします。その度に何かが削られていくようです。
 新宿駅や渋谷駅の雑踏に紛れます。学生の頃はその雑踏の中にいると自分が自分であることがわからなくなる気がしました。今は全くそんな事はありません。時間がありあまる学生の精神的な自慰行為でした。都会の孤独。悩むことに恋焦がれる。そんな事をしている余裕はありません。

 東京で生まれ育ち、幼いころから慣れ親しんだ東京。今まで対等に付き合っていたはずの東京。その東京がいつの間にか知らない顔をして勝手に僕を見下しています。
 東京の街角で昔の友人を見かけても声は掛けません。今は声を掛けたくない。声を掛けられるようになれるまで、と思いましたがそもそも声を掛けることが出来る時が来るのか、それを考えると酷い気分になります。
 
 ただ、地下鉄の構内から吹き上げて来る乾いた風の中にいると、気持ちが少し和らぎました。何故だかはわかりませんが。

 あなたに初めてお会いした時、僕は驚き、そして腹が立ちました。
 テレアポを取って開拓しようしていた、中野にある大きな通販会社。ここに販路をつくれば大きな利益が見込めるはずです。僕は自社の会社案内を熱を込めて話していました。するとあなたは少し困った顔し、迷い、躊躇し、ためらいながらペットボトルをゆっくりとテーブルの真ん中に置きました。
「これにお話されてはいかがでしょうか」
 混乱しました。初めて足を踏み入れた会社。初めてお話をする方。ただでさえ緊張しています。この状況が理解できず、目の前が歪みました。僕はしばらく言葉を発することが出来ませんでした。訳の分からない汗と分厚い沈黙が押し寄せます。口の中は砂漠の様に乾いています。
 ずいぶん時間が経ったと思います。僕は何とか声を絞りだしました。
「すみません、ちょっと、わからないんです」
 また沈黙が流れます。あなたは困った顔をし、ためらいながら小さな声でこう言いました。
「もう少し、こちらを見てもいいと思うんだけど」
 僕は顔を上げました。この部屋に入り名刺交換をしてから今まであたなの顔をしっかりと見ていなかった。顔を見ずに自分の話を勝手に喋っていた。
 僕はここで何をしているのだろう。そして目の前の女は何様なんだ。席を立ち、慌てて荷物をまとめ、辛うじて「すみませんでした」と言い、そこから走り去りました。中野駅までの記憶はありません。

 帰りの中央線の中で恥ずかしさが沸いて来ました。そしてそれはすぐに怒りに変わります。もしビジネスとして成立しない相手だと判断したのであれば、適当に話を聞いて、それで終わりにすればいい。虫をいたぶる様に扱われた気がしました。
 御茶ノ水で降りる前に衝動的に電車のドアを蹴りました。
 その靴は父が買ってくれたバーウィックでした。

 よく考えると御茶ノ水で降りる必要はありませんでした。癖で駿台予備校のある駅で降りてしまいました。駿台予備校に行っていた時はすぐ近くの明治大学の学食に食べに行っていました。そこで仲間と「明治なんてどうしようもないな」と笑っていました。結局、明治なんてかすりもしませんでした。
 目についたスターバックスに入りました。ダークモカチップフラペチーノを頼み、スマホのバーコードを差し出したのですが、決済が出来ないのです。慌てて財布を漁り皺が寄った千円札をカウンターにすみません、と震えた声を添えて差し出しました。口座の残高が足りず、カードが止められチャージ出来なかったのかもしれません。

 大学を卒業する時に文京区六義園近くの駒込の実家を出て一人暮らしを始めました。手取り21万。目黒区碑文谷。家賃1DK11万円。
 島根から出てきた大学の友人は何故か東京タワーにこだわっていました。卒業して稼いだら東京タワーの傍の部屋を借りると常に言っていました。確かに夕方や夜はエモーショナルに見えます。ただ、そこまで映画や小説の題材やマテリアルになるほどなのかなと思っていました。

 子どもの頃、父が東京タワーに連れていってくれました。展望台からの景色は確かに遠くまで見渡せましたが、池袋のサンシャイン60と何が違うのか、正直わからなかったです。それよりも東京タワーの3階にあった蠟人形館が強烈に怖く、僕にとって東京タワーはあこがれる場所ではなく、蝋人形の建物です。
 東京タワーの港区ではなく、環境が良く、センスが感じられる場所に住みたかった。東京タワーや港区に恋焦がれるセンスは外から来た人が勝手に作った東京だと思ったのです。最近その港区近辺の旬が過ぎかけている様です。そしてこの間まで港区を持ち上げていた「東京カレンダー」は奥渋谷辺りを持ち上げています。
 奥渋谷と言われる地域にあるニュージーランド大使館。僕の知っている兄の友人が喧嘩でボコボコにされ、「羊に食わせてやる」と言われ、その大使館前に捨てられました。だから奥渋谷と言われても、その兄の友人の病院に見舞った事と羊しか思い浮かびません。
 だから碑文谷です。六義園とか駒込とか言っても東京タワーを恋焦がれる奴らには通じなかったのです。

 友達が来ることが出来るように1DKにしましたがその必要はありませんでした。皆、忙しすぎるのです。
 学生の頃は友人たちとZINEを作っていました。同人誌ってやつです。音楽と文学の評論。川上未映子、山崎ナオコーラ、又吉直樹、エルレガーデン、ピロウズなどです。評判は良かったです。でも今は読んだり聞いたりする気にもなりません。

 碑文谷の家賃11万円が重くのしかかります。毎月ギリギリです。数字を上げれば破格のボーナスが出ます。でも月々の給与に反映されません。年収を上げるにはボーナスを上げるしかないのです。ボーナスの最低額は15万。この間のボーナス、隣のグループのリーダーは380万でした。計算式が公開されているので簡単にわかります。大手携帯キャリアに食い込み、プリントしたクリアファイルと名入れボールペンだけで億単位の売り上げを何か月か続けています。
 その彼から仕事のおこぼれをもらいます。プレゼンの資料作り、見積取り寄せなど。手間と時間がかかるそれらを積み重ね、月に10万ほどの数字が渡されます。損益分岐点の250万には遠く及びません。前の冬のボーナス、僕は18万円でした。
 社員にかかるランニングコストを抑えるために一過性のボーナスを成績上位者だけ爆上げする。その目も眩む数字で下位の雑魚社員のモチベーションを繋ぎ、コマネズミの様に働かせます。賢い経営です。

 休日は「Time Out Tokyo」で世界で最もクールな街10位に選ばれた、渋谷の富ヶ谷のカフェでもぶらつく。そんなスタイルだったはず。でも家でスマホを見ながらひたすら寝ています。1DK。ちゃんとしたキッチンがあります。でも料理する気力もないのでキッチンは水を出すだけです。

 お茶の水のスタバ、空いている場所に適当に座ります。中野での出来事が頭に浮かびます。どうせ相手にもしない会社の二年目の社員なら何をしようと構わない。それが当然の世の中。
 大して役に立たない商品を必死に動かし、それでも個人の損益は何か月も赤字。入ったばかりの新卒の後輩にも抜かれた。おまけに今日は訳の分からない女によくわからないまま突き飛ばされる。
 
 隣のテーブルの会話が聞こえてきました。話をしているのは声がよく通る男性。聞いているのがどんな人なのかは見えません。男性の声はどこかで聞き覚えがあります。投資の勧誘をしているようです。トレードシステムプログラムの販売。
「このシステムを使えば必ず儲かります、初期費用は60万ほどかかりますが、後でくるリターンを考えればはした金です、今だけの価格です、本当は100万超える価格なんですよ」
 男性は切羽詰まった様にまくし立てています。口調の抑揚がわざとらしく、耳障りです。東京ではよくある光景かもしれません。
 聞き覚えがある声を確かめたい誘惑に負け、目立たぬ様にその姿を伺いました。大学の同期でした。彼はサークルやゼミでも目立ち、NPOを立ち上げ活躍していました。学校に行けない子どもたちへの学習支援。バングラデシュにもボランティア活動に行き、メディアにも取り上げられていました。
 たしか、大手ではない、中堅の商社に入ったはず。それでも僕らの大学から考えると勝ち組です。

 その彼が詐欺まがいの勧誘をしている。よく見ると高そうなスーツは形が崩れ、シャツにはしわが寄り、横顔には訳の分からない染みの様なものがあります。もちろん実際に彼の顔に染みがある訳ではありません。でもそのように見えたのです。
 大学を卒業してたった2年。たった2年で彼はこんなに変わってしまった。ゼミでのスピーチは群を抜いて素晴らしいものでした。あんなに輝いていた彼が詐欺まがいの投資ツールを売っている。

 僕は席を立ち、彼に声をかけました。
「久しぶり。元気? 頑張っているみたいだね。それでさ、そのツール、今までどれぐらい利益生んだの? もちろん君が自分でそのツールで投資した話だけど。それ使っているんだよね。そんなに儲かるのなら自分でも相当利益を上げてるよね、いくら上がった?」
 彼は虚を突かれ、表情が固まっています。そして彼が熱弁を奮っていた相手は黒のポロシャツと紺のロングスカートという、よくわからない組み合わせをした二十歳ぐらいのおとなしそうな女の子でした。彼女は両手を膝に置き、姿勢を変えず、そしてさっきから一言も発していません。彼はこんな女の子をだまそうとしている。あんなに輝いていたあの彼が。
 僕は女の子に言いました。
「このお話、どう考えても詐欺だからね。僕と彼は大学の同期なんだ」
 そう言って僕は彼の名前をフルネームで呼びかけました。彼は自分の名前を呼ばれ一瞬体を震わせます。僕は続けました。
「相手にしないでさっさと出た方がいいよ。でさ、お前はこのフラペチーノのカップにでもしゃべってろ」

 店を出ると、すぐにさっきの女の子も出てきました。僕に軽く会釈をし、駅に向かって走っていきました。遠くの交差点の向こうから誰かのクラクションが聞こえてきました。
 僕は電話をしました。先ほどのペットボトルを出した担当の女性にもう一度話を聞いて頂けないか、お願いしました。来週ならばと、あなたは快諾してくれました。

 毎日、築地、赤坂、虎ノ門で擦り切れていました。そこから反対の下りの中央線に乗り、あなたのいる中野に向かう時、気持ちが弾んでいる事に気が付きます。父に買ってもらったバーウィックの革靴を時間をかけて丁寧に手入れし、中野に行く時だけそれを履きました。

 何回かお会いした後、あなたは言いました。
「あの時のペットボトル、本当にごめんね」
 あなたは人差し指で耳の上を軽くかき、目を伏せて言いました。
「声もいいし、一生懸命でよかった。真摯で誠実な人柄な感じがした。でも私の話をまるで聞いていない。私の事なんか考えていなかった。すごくもったいなかったの。でも社外の人がそれ言うのも微妙な話だし。でも何もしないまま帰す訳にはいかなかったのよ。何だかわからないけど」
 あのスタバから出た後、僕はペットボトルの意味から始まって、何をすれば受け入れてくれるのか考えました。そしてシミュレーションを繰り返しました。
 しかしシミュレーションの意味はないという結論に至りました。相手が何を欲しがっているのか、たくさん話を聞く。それだけ。
 もしかしたらその結論にたどり着く時期だったのかもしれません。でもそれは誰かがその扉を叩く必要があったのかもしれません。

 あなたは僕の質問に丁寧に答えてくれました。それを真摯に聞く事。そこから仕事の糸口が見えた気がしました。この会社とあなたは何を欲しているのか。アポをとればいつでも打ち合わせに応じてくれました。
 時間は毎回、午後三時。
 でも簡単にいきませんでした。僕の会社はゆりかごから墓場を通り過ぎ、仏壇まで手配できます。だから商材には事欠きません。でも僕があなたに提案するものは何一つかすりませんでした。

* 

 何か月かしたある日、提案した4つの商品が全て空振りに終わった後、あなたは言いました。
「学生の時に本とか音楽とか好きだった?」
「はい」
「卒業して、入社して、そこから今日まで本とか買った?」
 考えてみると大学を卒業してから二年以上、本も音楽も手にしていません。学生の頃に買った本は部屋の壁を埋め尽くしているのに。
 しばらく何かを考えたあなたは両手を「ぱん」と叩いて席を立ちました。
「ほら、いくよ」
「どこに、ですか?」
「決まってるじゃないの、本屋さん」

 その日のあなたは大きめのブルーチェックが入ったロングスカートと柔らかい青のニットプルオーバー、そして白のブラウス。僕はその後ろ姿をぼんやりとみつめながら中野を歩きました。
 本屋に入ると真っすぐに海外文芸の棚に向かいます。そして分厚い本を取り上げました。
『極北 マーセル・セロー』
 白を基調とした、美しくも寂しい装丁。あなたは何も言わずその本をレジまで持って行き会計をします。
「文庫本もあるみたいですけど」
「しょぼいこと言わないの。単行本の方が素敵な装丁が大きいでしょ。それとブックカバーはつけないから。映える本にカバーなんて有り得ない」
 僕に言っているのか、店員さんに言っているのか。
「訳が村上春樹だから読みやすいよ」

 CDショップにも行きました。
「今までなに聞いてたの」
「日本のロックが多いかもしれない」
「例えば?」
「エルレガーデンとかピロウズとかエレファントカシマシとかですかね」
「悪くない」
 そういいながらあなたはショップの棚を物色しています。
「ストリーミングじゃだめなんですか?」
 あなたは僕に向き合って言いました。
「さっき、『極北』買う時、文庫本じゃなくて大きな単行本にしたでしょ。装丁の事だけじゃなくて、たまには形あるものが必要になるのよ」
 あなたはクラシックのコーナーに行き、一枚のCDを手に取りました。
『クララ・ハスキル』
「どういう人なんですか?」
「第二次世界大戦前のピアニスト。得意なのはモーツァルトとかシューマン。古典派と初期ロマン派あたりね。ルーマニアで生まれ。4歳で父を亡くし、10歳でパリの音楽院に入ったけど、師にはほとんど教えてもらえなかったの」
「何でですか?」
「師は彼女の才能を認めていた。でもあえて孤独にさせて彼女の素晴らしい面を引き出そうとしたの。彼女はその師に演奏会に来てほしいと何度も手紙を書いたけど、師は一度も行かなかった」
 あなたは小さな溜息をついて言いました。
「10歳そこらの女の子にとって、寂しい話よね」
 あなたは続けました。
「15歳でその名がヨーロッパ中に響き渡るけど、もともと患っていた脊柱側弯症に悩まされて、他の病気にも罹ることが多くなったの。それが原因の一つとなって舞台に出るのが怖くなったのよ。演奏会での失敗が多くなった。経済的にも困窮したのね。おまけにユダヤ系だったから迫害を受けてスイスに逃げるんだけど、そこで貴重な楽譜とか楽器を失うのよ。なんだかんだんで生涯のほとんどを清貧で過ごした。第二次世界大戦後にようやく評価されるようになったけど、その頃にはもう健康状態がよくなかった。65歳の時にブリュッセルの駅の転落事故がもとで亡くなった」
「ずいぶんな人生ですね」
「まあ、これだけならそう思うかもしれないけど。でもカラヤンとかパブロ・カザルスとかチャップリンにも絶賛されたし。これ、聞いてみてよ。子どもの頃夕焼けに包まれた時、何だか切なくて優しい気持ちにならなかった? そんな感じ」
 あなたは本とCDを僕に渡しました。

 クララ・ハスキルのピアノはとても暖かみのあるものでした。今まで、厳しい人生をくぐり抜けた人の音は、良くも悪くも強く訴えかけるものだと考えていました。
 彼女のピアノは繊細で暖かく、僕の何かを揺らしました。
 マーセル・セローの「極北」という小説。極北を一人で歩く主人公。荒廃し、文明が失われ、物資が極限までにない世界。そこで生き抜く、繊細でタフで無慈悲な物語。
 そこには何かを比較してその優劣を自分のアイデンティティにする余裕はありません。生きていく上で必要なものを得て、それを幸せとするのです。

 僕は大学を卒業してからこの様な体の奥底に響く何かに触れていませんでした。通勤の時にはヘッドホンを耳にしていましたが、取りあえずの惰性。毎日東京の何処かをよくわからない数字に追われ、走らざるえない。様々な感情をどこかに置いてきてしまった。
   
 クララ・ハスキルのピアノを聴いて思い出しました。地下鉄の構内から吹き上げる乾いた風の中にいると、何故だか気持ちが和らぐ理由。
 僕が小学校3年生から4年生の頃、地下鉄に夢中になりました。路線図を模写し全ての路線に一人で乗車していました。特に地中深いところにある駅が僕の心を捉えていました。
 大江戸線 六本木 42.3m。千代田線 国会議事堂 37.9m。南北線 後楽園37.5m。大江戸線 新宿 36.6m。それは幼い頃の自分で決めた何かを掴み取った冒険。
 東京は僕の足元にありました。
 
 明日からも走る事になるでしょう。でも走っていても、削られることは少なくなる気がします。いや、削られても走ることが出来る。なぜなら足元には僕の東京があります。だから自分の足で立つことが出来るのです。

 一年で幾つプレゼンをした事でしょうか。そのうちの一つだけあなたは採用してくれました。後で社内の人に聞きました。あなたはその案件を社内でプレゼンする際、反対の雰囲気が流れる場所で、その透き通る声、そして根気強い微笑みで熱弁を奮ってくれたと。
 その案件はヒットしました。僕があなたにプレゼンをし続けた一年と少しの期間、その間のノルマを簡単にクリアしました。売り上げはしばらく続き、その間僕は損益分岐点の事で心配する必要はありませんでした。

 その後、プレゼンしたものが立て続けにヒットしました。僕は社内で年間を通じての表彰を受けました。でもその表彰の意味がしっくり来ませんでした。僕はあなたの話を聞いただけです。

 いつのまにか、碑文谷とか富ヶ谷とか奥渋とかはどうでもよくなりました。引っ越すことにしました。住みやすいのに家賃は安い。荒川区西日暮里。1K6万8千円。
 それをあなたに言うと「わかってるね、新宿まで20分だし、谷中ぎんざも近いし。東には朝から酔っぱらってるおっちゃんがいるけど。ほら、すごい偏差値の中学高校あるじゃない、どこだっけ。開成だ。君が家庭を持って男の子が生まれたら開成に入れればいいじゃん」
 僕は返事が出来ませんでした。あなたが言う「家庭」にあなたがいる想像が頭をよぎって離れなくなってしまったからです。

 しばらくしてあなたは担当から外れました。世間一般から見ると三足飛びぐらいの出世だそうです。人づてに聞いたのですが、あなたは現場を離れ、僕の担当からも外れることを上司に強く抗議したとの事。

 僕は聞いていたあなたのプライベートアドレスに初めて連絡しました。
「お会いしたいです」
 すぐに返事が来ました。来週の日曜日どうかな。その日は天気が良さそう。だからつまらないお店に入りたくないな、大きな公園、昭和記念公園とかどうかな?歩ける恰好をしていくね。
 でも僕は知っています。あなたには付き合っている人がいることを。あたなの会社の同僚との会話からそれを知りました。そしてSNSにあなたと親しげに写真に収まる男性がいました。でも会わないわけにはいかなかった。

 *

 敷物、ブランケット、アウトドアチェアを二脚、クッション。そしてコーヒーを沸かすためのプリムスのバーナー一式を用意します。家を出る直前に作った、タッパーに詰めた沢山のサンドイッチ。気合を入れてフルーツサンドも作りました。

 少し前にあなたはサンドイッチのコツを教えてくれました。
「敵は水分と節制」
「何ですかそれ」
「君はべちょべちょのサンドイッチ、好き?」
「好きな人はあまりいないと思いますけど」
「そう。だからトマトとかレタスの水分はとことん拭き取る事。でも中から野菜そのものから滲んで来る水分を防ぐには限界があります」
 あなたはいつの間にか先生の様な口調になっています。
「だから、ここぞという時のサンドイッチは、卵とかハムチーズとかにしましょう」
「はい、わかりました。で、節制ってなんですか?」
「バターとマヨネーズの事です。私はバターとマヨネーズが大好きです。でもそれを欲望のままに食するとただのでぶになります」
 チャンスです。
「ずいぶんときれいで可愛らしいでぶになると思いますが」
 あなたは顔を赤くし、口元をこわばらせて僕を見つめています。
「そんなことはどうでもいいのです。余計な事は言わないようにしましょう。どこまで話したんだっけ」
「欲望のバターとマヨネーズ」
「そう。節制という言葉を忘れて欲望のままにバターとマヨネーズを塗るのです」
 僕はハムチーズと卵のサンドイッチを山のように作りました。
 それらを山で2泊できる大きさのグレゴリー70Lバックパックに入れました。

 11月の日曜の朝に新宿の中央線ホーム、下りの一番前で待ち合わせしました。昨日までの雨が上がり、新宿駅のホームでさえも空気が澄んでいます。先に着いていたあなたが僕に大きく何回も手を振ります。僕も階段を下りながら大きく手を振りました。

 中央線に乗り中野を通り過ぎます。郊外に向かう車両は年配のハイカーや子供たちのサッカーチーム、大学のテニスサークル、そしてどこかに遊びに行く家族連れなどで賑わっています。僕は吊革につかまっている隣りのあなたに言いました。
「いつも僕が乗る中央線と全然雰囲気が違いますね」
「大丈夫。我々もその一員だから」
 あなたは窓の外を流れる景色を見ながら言いました。
「仕事で乗る中央線とそんなに違う?」
「さっき全然違うとか言っておいて何ですが、前に感じていたギャップほどない気がします」
「それ、いつ頃からか、私何となくわかるよ」
 僕はあなたが言った「いつ頃」というのを考えました。僕が「極北」を読みながら「クララ・ハスキル」のピアノを聞いていた頃なのかなと見当をつけました。

 今でも僕はサンプルや見積を手にして東京を走っています。でも走りながら考える事はずいぶんと変わった気がします。相手の気持ちを聞き出すには僕も何かを差し出した方がいい。そして誰かとそれをやれば何かが生まれるかもしれない。
 東京には僕にも小さなものですが生み出す場所がたくさんある気がするのです。
 クララ・ハスキルにもグリュミオーというバイオリニストがパートナーとしていました。クララには彼がいるからあの暖かいピアノが生まれたのかもしれない。
 僕の足元には乾いた風が吹く、僕の東京があるのです。
 そんな事をあなたの横顔を見ながらぼんやりと考えていました。

 昭和記念公園は東京の今年最後の秋が広がっていました。銀杏が色づいた広い野原で敷物を広げ、アウトドアチェアを組み立て、コーヒーを淹れました。彼方に筋状の雲が広がる秋の空に抱かれてあなたの話を聞くのは素晴らしいものに祝福されているようでした。
 サンドイッチのタッパーを出すと、あなたは呆然としました。僕は三人の高校生男子が食べる量を作りました。でもあなたが呆然としていたのは量ではなく、サンドイッチの中身。
 あなたもバックから巨大なタッパーを出します。卵とハムチーズ。その量も三人の高校生男子。六人分が全てハムチーズと卵。大笑いしてあなたが言いました。
「これの全部に欲望のバターとマヨネーズがある訳ね。昭和記念公園で遭難しても大丈夫だ」

 たくさん話をしました。
 あなたも僕もジェイムズ・ディッキーという日本ではマイナーの作家が書いた「白の海へ」という小説を読んでいました。でも結局二人ともジェイムズ・ディッキーは「白の海へ」しか読んだ事がありません。
「他に知ってる? ジェイムズ・ディッキーの本」
「一冊だけ『救い出される』ってのが日本で訳されていますね」

『白の海へ』は第二次世界大戦に東京に墜落したB29。そこから生き残った主人公がアラスカで身に着けた野生を頼りに北海道を目指す、暴力的で詩的な小説です。僕はあなたがくれた『極北』に近い世界観だと気が付きました。生き残るためには他者の行動と比較などする暇はない。
 そして、そういえば墜落したB29は東京のどこに墜落したんだろうとぼんやりと考えました。

「『逃げるは恥だが役に立つ』って見た?」
「見ました」
「どうだった?」
「正直僕、話の筋ほとんど追ってないんです。新垣結衣がショートボブでめちゃくちゃ可愛かったじゃないですか。僕、ショートボブで身長が高い女の子、好きなんですよ。だからガッキーしか見てませんでした」
 それからしばらく僕はショートボブの女の子の可愛らしさについて力説しました。気が付いたらあなたから反応がありません。少し身長が高いあなたの今日の髪型はショートボブ、顔を赤らめています。僕は狙って力説していました。ここは僕のターンだったようです。とりあえず僕はコーヒーを勧めました。

 家に帰ると新垣結衣が待っているのと星野源が待っているのではどっちがいいか。そんな話をあなたがしました。
「もちろんガッキーですよ。当たり前じゃないですか。源が僕を出迎えて何が楽しいんですか」
「家に帰ります。ドアをあけます。そしたら源がギター弾きながら歌って踊ります。どう?」
「それが椎名桔平とか岡田将生だったらOKです。じゃ、誰ならいいですか?」
 あなたはずいぶん長い時間をかけて言いました。
「ブラット・ピット」
「星野源、ひどい扱いじゃないですか。ブラピ、意外とミーハーなんですね」
「いいじゃない。ブラット・ピットとかマット・デイモンとかの、あいつらのはにかむ笑顔が可愛いのよ。あ、君もはにかむとけっこう可愛いよ」
 今度は僕が赤くなりました。
 
「営業に出ている時、何食べるの?」
「牛丼とか多いです。早いし」
「私、牛丼は松屋より吉野家。しかし松屋のカレーは侮れないな」
 あなたは僕の話を聞かずに話し始めました。やけに熱がこもっています。人の話を聞かずに話す姿をあまり見たことがありません。数少ない機会を牛丼が持ってきてくれました。
「牛丼が一番おいしい時間って聞いたことある?」
「ないですね。もしあるのなら聞いておきたい重要案件ですね、それは」
「いつも何時ごろ吉野家に行く?」
「午前中どっかの打ち合わせが終わって、そこからですから、だいたい12時半過ぎですかね」
「それ、実はベストなのよ。逆によくないのが11時40分とか夕方6時前とか。お肉を鍋に入れるでしょ。常に入れておかなくちゃいけない訳。いつお客さんが来るか解らないから。お店も気を遣うけどさっきの時間はどうしても客足が鈍るから肉が煮詰まるのよ。だから混んでいる時間が肉が柔らかくてベストなのよ」
「そんなに吉野家とか行くんですか?」
「おいしいじゃない。アタマの大盛りにつゆだく、卵二つよ」
 すごい注文が出てきました。そこを突っ込むと何かの熱いプレゼンが始まりそうだったので少しずらしました。
「じゃ、いつも客が入っている店は肉がフレッシュで旨いわけですね」
 あなたは少し間をあけて、僕を見つめて言いました。
「そうそう。まあ、何事もタイミングが大事なのよ。色々と」
「タイミングですか」
「そう、タイミング」
 そのタイミングが何を意味するのか、僕は何となくわかりました。でもここで動揺すると、この秋の素晴らしい日が終わってしまいそうな気がしました。
 コーヒーを飲むふりをし、そして目の前のあなたが作ったハムチーズサンドを食べました。

 牛丼の他にもたくさん話をしました。
 旧日本陸軍の雪中行軍遭難を題材にした映画「八甲田山」。もしその役をやるならば、我田引水で連隊を混乱させる三國連太郎がいい。高倉健の徳島大尉をやりたいと言うかっこつける奴は信用できない。でも何と言っても立ったまま凍死する役をやってみたい。
「すごくない?立ったまま凍死って」
「何か守りたかったものがある風情がしますね」
「私ね、そこで言うの。天は我々を見放した!って」
「それ全然役が違います。そのセリフは北大路欣也の神田大尉ですよ。最後に責任を取って舌を噛み切って自殺するんですよ」
「それもヤバいよね。自分の意思で力を目いっぱい入れるわけでしょ。100m全力疾走して壁にぶつかるのと同じだよね」
「すごい例出してきましたね。重力とか他の動力とか一切使わないという事ですよね。まあ、いいんですけど、この天気の中でするお話でもない気がしますけど」
「確かに。暴風雪も来る気配がないしね」

 お仕事の話もしました。
 あなたは言います。なんだか出世みたいなことにはなったけど、役員会議とか出てべらべらしゃべっても全く響かないのよ。そんなことより誰も私に何か聞かないし。20代女性初の部長とか言われたけど、仕事している気にならないよ。
 そして下を向いて指をいじりながら言いました。
 君のこと、好きだったのよ。
 もちろん僕もあなたのことを好きです。

 秋の日差しが傾き始めました。近くの大人たちが帰り支度を始め、子どもたちを呼ぶ声がします。大きな欅の影も長くなってきました。僕たちも相変わらずとりとめもない話をしながら片付けをし帰路につきました。
 その中で僕は大きな波のような感情に包まれました。それを押しとどめるのはとても強い力が必要でした。僕は彼女もいない。一人です。失うものは何もない。でもあなたには好きな人がいる。僕の動きであなたにそんな事を負わせるわけにはいかない。ドラマや映画、小説ではないのです。
 僕は話すことが出来なくなってしまいました。しばらくしてからあなたは僕が喋れないことに気が付き、二人で黙って歩き始めました。

 銀杏並木が金色に色づき、その金色は道まで敷き詰められ、世界を染めています。都合よく周りに人がいませんでした。素晴らしい世界に僕とあなただけがいるような気持になりました。あなたは僕の手を少し見つめてから握ってくれました。手をつないだまま少し歩き、僕らは大きなバックバックを背負ったまま、長いこと抱き合いました。
 秋の魔法がくれた一瞬でした。

 次の年の3月。あなたを見送りに成田に行きました。付き合っている彼がいるアメリカのポートランドに行くとの事。あなたも向こうでの仕事も見つけた。日本と同じ通販の商品企画をすると。
 3月にしては冷え込んだ日でした。僕はダウンジャケットを着て行きました。見送りの人はたくさんいました。あなたはその人たち一人一人と言葉をかわします。まるでどこかの国の王女様みたいでした。僕は少し離れたところでその様子を見ていました。
 しばらくしてあなたは僕に気が付きました。少し怒った顔で小走りで近付いて来ました。
「なんでもっと近くに来てくれないの」
 僕は何も答えることが出来ません。
 あなたは僕の両手を包み込んでしばらく僕の顔を見つめていました。そして去って行きました。

 あなたはセキュリティチェックに入り、みんなに手を大きく大きく振りました。新宿のホームで僕に大きく何回も手を振った様に。
 でも僕の手はいつまでもダウンジャケットのポケットの中でした。

 *

 あなたが今何処で何をしているか。
 SNSで詳しく探すのは簡単かもしれません。
 でもそれをしたところでどんな意味があるのでしょうか。

 僕はあの秋の魔法が掛かったままなのです。





あとがき

【サテツマガジン】
この小説は2021年11月に刊行された「サテツマガジンvol.4」に寄稿した1,500字のものをリライトしました。1,500字→14,182字。
内容は相当変わりました。
ただ、サテツマガジンvol.4のコンセプト、「誰かが手紙を書いているのを覗き見しているような不思議な感覚になる一冊」(サテツマガジン主催 増田ダイスケさん)。
これは今回リライトしたものにも残っていると思います。

note掲載を快諾頂いた増田ダイスケさんには本当に感謝しています。またサテツマガジンに僕を誘って頂いたマリナ油森さん、ありがとうございました。
(今回リライトし、noteに出すにあたり増田さんに連絡を取ろうとしましたが、「X」のアカウントが消えてしまっていました。マリナ油森さんに探して頂きnoteに出すことが出来ました。これにも感謝しています)



【2023の「東京嫌い」】
2020年10月にnoteの書き手21人が集まった「note同人誌マガジン『東京嫌い』」が発刊されました。先日無料公開されました。

《東京嫌い》のテーマのもと、さまざまな書き手21人が東京への愛憎を描いた読み切りアンソロジー。渋谷の老舗ワインバーのマスター、伊勢で稲をつくってサトナカを売る農民、土とことばを耕す信州のライター。noteで出会った三人による責任編集で2020年の「あの空気」を閉じ込めた、ここでしかよめない作品たちを収録。

ふみぐらさん

僕は2020年7月に「ふみぐら社」さんからお誘いを受けました。noteを始めて2か月少し。つまり自発的な文書を書き始めてから2か月少し。新参者です。
ともに文章を寄せる20人のメンツを拝見した際、本当にびびりました。よせばいいのにその方々のフォロワー数とか調べました。
口の中がカラカラになっただけでした。

2020年の「東京嫌い」。そして今、2023年の「東京嫌い」。
少しだけ意識して書きました。

ふみぐらさん、どんなもんでしょかね。

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