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61年ぶりに再会した宮崎大淀高校のエースと沖縄高校ナイン

朝起きてテレビを観たら、安仁屋宗八が映っていた。安仁屋宗八と言えば、小学生の頃からの広島カープファンにとって、完全試合達成の外木場義郎と共に、憧れの2大エースだった。


 「ドキュメント20min」では「ラスト・イニング 宮崎vs.沖縄」特集。1962年(昭和37年) に、沖縄のチームが初めて甲子園に出場した時に、敗れた立場にいた人の気持ちを追跡したルポ。
 夏の甲子園の第44回大会当時は、まだ出場校も多くなく、宮崎県と沖縄で合同予選だった。宮崎県で勝ち上がったのは3回目の出場を目指す強豪校・宮崎大淀高校。一方の沖縄は沖縄高校(現在の沖縄尚学高校) 。当時の沖縄はまだアメリカ占領下にあった。宮崎大淀高校のエースは三浦健逸。一方で沖縄高校のエースは安仁屋宗八。後に広島カープで119勝を挙げ、1975年に最優秀防御率のタイトルも獲得して「沖縄の星」とまで呼ばれた。それまでは沖縄勢は本土の壁に跳ね返されてきたが、この日は4-2で沖縄高校が勝利した。安仁屋宗八のスリークォーターからの浮き上がるストレートを、宮崎大淀高校の打線は打つことができなかった。投手だった三浦健逸は敗戦が信じられなかった。地元紙では「本県の恥」と非難された。
 その悔しい思いを抱えて61年。80歳を前に、三浦健逸は沖縄行きを決意した。当時の沖縄高校ナインと酒を酌み交わし、当時の思いを率直にぶつけた。沖縄(尚学)高校の練習グラウンドも訪れた。そして沖縄高校ナインの計らいで、安仁屋宗八と広島のマツダスタジアムで再会した。何もことばを交わさなくても、元球児はキャッチボールで心を通わせることができる。ここで初めて三浦健逸は、安仁屋宗八に「甲子園出場おめでとう」と素直にお祝いを伝えることができた。沖縄高校に敗れて以来、プロ野球を観ることもなかった三浦健逸。沖縄島民にとって輝かしい歴史であったあの試合の敗戦は、彼にとってずっと抱え続けてきた心の傷だったのである。この沖縄・広島への旅で、三浦健逸にとって 長年の心の清算ができた区切りであって欲しい。
https://www.nhk.jp/p/ts/YN5YRJ9KP6/episode/te/BMPVQJQKKQ/


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