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祇園囃子の消えた夏

「ねえ次の夏まで私に飽きていなかったら、祇園祭の後祭に行かない?」
「きっと私、嬉しくて久々に浴衣をおろしてしまうわ」

きっとその頃には忘れてしまうだろう、そんな約束だった。
私はもうすっかり掠れた声の大人になってしまったから、きっと果たされない事くらいは初めから分かっていた。
けれど、それでも未来の話が出来ることが細やかな幸せだった。
その後は思っていた通り。でもそれはそれとして、きっと良かった。

かたがたの親の親どち祝ふめり子の子のちよを思ひこそやれ
藤原保昌

「それにしてもまさか、こんな形ですらも果たされないなんてね」と、昼休みのNHKの山鉾建て自粛のニュースを見て、つくづく私も見放されたものだと思う。
文月の京都がまるで平熱だなんて、すっかり調子が狂ってしまう。
観光客どころか、祇園囃子さえ止んでしまった。こんなに静かな夏の京都を見るのは初めてだが、でもこれが本来の地方都市としての姿なのだろう。

もう7月?交通規制始まるな。
休業してまうから、買い物と、あと美容院早めに行かな。
大丸のついでに長刀鉾でも見てこ。
宵山だから今日は早めに帰らんとえらい目にあうで。
ねえ菊水鉾のしたたり買ってきたんだけど、みんなで食べへん?

夕暮れの通りに響くは打ち水と、囃子方の練習の音。
宵々山の京阪電車の駅前で。文庫の作り帯、恋人と歩く女学生の、軽く下着が透けた白い浴衣に「あらあら」と。

想う私の帯は、一文字。

そういう夏が来るはずだった。
本当に、みんなに当たり前に、来るはずだったんだ。
人生が何度やり直せるものだったとしても、来年があったとしても、一度失くしたものはもう戻らない。

それはいつだって誰かにとっては、最期の夏だった。

「また今度」や「いつか」は些細な事で奪われる。自分から掴みに行かないと一生そんな「都合のいい日」なんて来ない。
気持ちは嘘ではなかった?
だとしても、もう。それは自分の納得の問題で意味なんてないんだ。

傷つけるのではなく自分がそれで傷つくのが嫌なんていう、あなたも知らない無責任な「本当の気持ち」になんか。
「知らなくていい事」なんていう、自分勝手は何一つ優しくなんかなかったことになんか。
気がつかないまま一生居られれば幸せなんだろう、だから。

終わった話にそれでも何かしたいのはエゴでしかないと、知っていた。

祇園囃子の消えた夏。
嗚呼、それは自分すら救えなかった悲しい物語だったよ。

毎年、私は保昌山の粽を買うことにしていた。
粽とは笹の葉で作られたお守りで、祭の時にだけ各山鉾のお会所で販売される。京都では多くの人がこれを一年間玄関先に飾る。今年は販売がなくなり、去年の粽の返納については八坂神社の納札所へとHPには書かれていた。

自分だけの、細やかな祈りのつもりだった。
でももうそんなことすらさせてくれないなんてな。
想いも今年限りで手放しなさいという、和泉式部からの文だろうか。

捨て果てむと思ふさへこそかなしけれ君に馴れにし我が身とおもへば
和泉式部

寄る辺なき身の上を己の才能のみで生き抜き、恋を謳歌してなほ。
女性差別が当然の時代、女を貫くことで女である故の不自由を超えていったその精神の自由。
「未来や明日があることより、自分の命より、これまで共に生きてきた愛を見つめていたいの」と、千年前から彼女が笑う。

ある日、式部は保昌が自分に惚れていることを承知の上で、御所の紫宸殿の紅梅を手折って来てと無茶を言う。
保昌は愛する式部のため、宮中に忍び込む。警護の武士に見つかり矢を放たれるものの、ひと枝手折って式部の元へ帰り、その恋を実らせた。
保昌山の御神体は紅梅を手折る保昌の姿を表す。

授与される粽は、愛のために花を盗んだ男の護符。
いつか愛にたどり着きたいという小さな願いもどうやら時間切れみたいだ。

きっとそれはそう遠くはない、初盆の夜。
懲りもせず大切なものを失くし続けるあなたに、私は逢いに行くだろう。
そしてそっと背中からこの細い腕をあなたの首に絡ませて、冷ややかに耳元で囁くのだ。

「ねえ、自分以外の誰かに尽くすことの喜びは見つかった?」

あなたが振り向く頃には、きっともう私はそこには居ない。

来なかった夏は飽和して、永遠に私たちの命を循環し続ける。
何一つあなたを救わない、救う気もない私のそれは。
嗚呼、確かにひどい恋文だったよ。

あらざらむこの世のほかの思ひでに今ひとたびの逢ふこともがな
和泉式部

本当に一人で生きていたなら、こんな気持ちは知らずに死んでいった。

「大好きだから、許さない」

体中に咲き散った紅が一瞬強く波打って、花開き腐乱した。
それはむせ返るような色の匂いがした。

そうして終わってしまった物語の続きを、

私は「生きよう」と思った。

でもそんな気持ちを誰にも言えない、私です。