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【塾生通信#5】社会は複雑さに耐えられるか

自己紹介

 初めまして。京都大学大学院総合生存学館3回生の佐田宗太郎です。5年一貫の博士課程に在籍しているので、一般的には博士1年と同じ学年です。

教育過程では薮中塾生の中で最も高学年になります(細々と博士学生のための情報共有Slackワークスペースの運営もしています。興味ある博士学生や博士課程進学予定の方はこちらから)。

その他にもNPO法人Mielkaという団体の副代表として、現在も衆院選に向けたJapan Choiceのアップデートに必要な政治参加に必要な情報の収集と整理(与党の公約がどれほど実現されたかの評価など)に携わったり、放送大学で心理学を学んでいます。

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こういったイベントも開催しています

学部では「蟻の自律分散システム」や「金属固体の電子スピン理論の研究」(博士学生となった今から見ると研究とは言えない、非常に基礎的なものですが)に取り組みつつ、地域復興に取り組む団体やボランティア団体の活動をより持続可能にするための連合組織の設立から運用までを行いました。
これらの話もまた機会があれば書きたいと思います。

議論を求めて薮中塾に

 そんな私が薮中塾に入った理由は、一言でいうと議論に飢えていたからです。

ミクロな専門分野に拘らずに、最近の情勢も交えた学際的でマクロな議論をする仲間を求めていました。そこへ、同じ研究室の後輩の紹介で薮中塾の存在を知り、議論をする仲間がいるかもしれないと入塾しました。

というのも、普段大学にいて感じるのは、狭い分野の知識に囚われてしまい他の分野の話を交えた議論を苦としたり、歴史には詳しくても日々更新される時事を追えていない学生が多いということでした。

しかし一方では、就活のために表面的な知識や時事ネタを収集することに追われ、学生の間に一つの事柄について深く考える時間がないのでは、とも感じています。

そのため、学生生活の中で多角的かつ問題解決を見据えた議論をすることができる機会を見つけることが難しい状況にあると思います(何にも囚われず広い議論をしようとする学生は沢山いますが、そのような学生もまた、囚われている考えや前提があり、その事実を受け入れた上で自己批判しながら議論できる学生とはなかなか巡り会えません)。

ただそれは、それぞれに興味関心や得意不得意があるためで、くむしろ専門性が求められる高等教育課程において歓迎されるべきことだと思います。
しかし私は、専門性の追究と同時にその専門性をメタ的に捉える視点を持つことが重要であると考えており、さらには議論することの意義までも自身の議論の対象としつつ、我々はどのように生きるべきかを模索する議論も行うことが不可欠であると考えています。

そのようにして、専門性の追究や起業、社会奉仕などに取り組む人たちが、現状に満足せず必要なこと以上のものを学びつつ、知識・思考の全てを総動員して議論する場を探していました。

それが僕が薮中塾に入塾した理由です。まだ薮中塾ではそのような者が多くはないですが、同世代の中では非常に意志の強いエネルギッシュなメンバーが集っており、日々の議論を少しずつ楽しんでおります。


物理法則の探究から社会の理解へ

私はもともと「社会に関する事柄や人間が織りなす営み」について全く興味がありませんでした。

高校までは数学と理科が大好きな一方で、国語や社会はあまり興味がありませんでした。その後も宇宙の真理を知りたい想いのみで物理学を専攻して進学したほどです。
しかし大学で学習を行ううちに量子力学まで基礎的な物理学の履修が進み、物質の根本にある逃れられない不確実さを前にして、物理法則を学ぶことに満足してしまいました。
古典力学時代に決定論的な真理を求めた物理学者のように、物体の運動をモデル化し、予測する物理法則の美しさに憧れましたが、発展した現代物理学の前で大きく方針転換を迫られました。

つまり、人間含め、この世界の全ての存在が従わざるを得ない法則の中に不確実性があるのであれば、それ以上物理法則を掘り下げるのではなく、ある存在同士による有機的な相互作用の中で生まれる法則性について理解したいと思ったからです。

そんな私が次に理解すべきだと考えたのは、高度な生物や社会が表すマクロで有機的な複雑性でした。例えば蟻の集団が、全体の働き蟻の割合について調整するどころか認知すらすることなく、集団としては蟻の分担が適切に行われているなど、個では意図していないものの集団としてのある法則によって個が規定されていることがあります。

単純化して現象の理解に取り組む物理学の軸は人間の認知や思考の限界にをよく反映していると思います。
しかし技術発展の所産から計算機科学が発達し、モンテカルロ法など,人間では行うことが難しい試行などを機械に委託して行うことができるようになりました。
そんな現代だからこそ、集団に属する存在として規定される法則があるとすれば、その法則を理解することも可能なのではないかと考えました。

また我々が生きる人間社会においては、これまで虐げられ続けた事実を認知すらされなかったマイノリティの存在に意識が向けられ、ただの多様性や単純な最大化の視点を離れた、持続可能性の観点が重視されるようになってきていると感じています。

そのような時代の背景を踏まえ、生物の一種として生きる人類が、生物であることに規定されつつ、一世代や個の生存戦略を超え、認知的負荷や想像の範囲を超えた多様性や持続可能性という問題にどれほど対応できるのかと、考えを巡らせています。

人間はどこまでの社会を実現可能な理想として追求できるのかを知りたい。そして、平和の実現可能性を批判的に検証しながら、短絡的に平和を求めることで平和から離れる社会にならない方法を考えています。
長期的視点をもち多様性を考え始めた人類にとって、単純化せず、複雑なまま、どれほど考え続けられるかが突きつけられている課題であると思います。

狭い専門に最適化されやすいアカデミアの構造や、ワンイシューのわかりやすい意見がバズり、メディアでも取り上げられる環境である今、複雑さを抱くことで感じるメリットはなく、焦燥感にすらつながるかもしれません。
現実の曖昧さを受け入れ、曖昧な自分や相手を肯定しつつ行われる議論や議論の場が必要です。

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薮中塾とともに成し遂げたいこと

そしてこの薮中塾も、昨年参加した薮中塾のイベントや、先輩方の考え、塾生の議論を聞く限り、率直に言えばまだ問題の当事者から離れた惜しい議論が行われている場であると思っています。

大きい物事に対して表面的な勉強のみを行い、淡い知識で議論するのではなく、毎度数冊の本を読み、その問題に関わる人の意見も聞きつつ、さらに問題解決への行動にまでつながるような場になっていければ良いと思います。

それらを実現すべく、まずは八月勉強会で新たな取り組みを行いました。
勉強会の意義や設計方法でもまだ薮中塾は未熟であると感じたため少しずつ変えています。(次号のダイジェスト記事でご確認ください)。

現在、これまでのものよりも詳細な勉強会実施報告書も作成中です。それらしい勉強会をして満足して終わりではなく、なんのために行い、その目的は達成されたのかを検証し、報告まで行うプロセスができれば良いと思っています。

これまで学生(院生も含め)と満足できる議論を行えた試しはほとんどない(現場で新たな挑戦を行う社会人の方との議論では得られるものが多いです)のですが、薮中塾でならそのような仲間が見つかるのではないかと思っています。

                   佐田宗太郎

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