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コロナ時代の地域社会学とまちづくり #4 研究調査対象の消滅を乗り越えて(その1)

前回(#03  全てが「歴史」となる? 調査対象の消滅)からの続きです。 遠隔時代の調査実習をどうやってゆくかを考えてます。

マルクスガブリエル 『歴史の針が巻き戻るとき』 を読んで考えた

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 コロナ時代に突入する前に書かれた本ですが、諸事情あって、この本を読みました。全く持って、社会調査法の本ではありませんが、「社会」をどのようにとらえるかという点では同じでして、この本を読んで、以下のコロナ時代の社会調査のありようについて考えました。「新しい実存論」的に考えているつもりです。

フィールドワークの論理

 地域調査の極意は何か。それは、自分が生活していないコミュニティでの生活を追体験することにより得られるリアリティであると思う。1回の聞き取り調査より、長期間調査対象と関わる参与観察に価値があるのは、外からは分かりにくいその地域特有の価値観や、その地域特有の内面化されているもの、言語化以前の感覚、、、、そういったものは、聞き取りの対象者自身も言語化できていないので、インタビュー調査をしても簡単には出てこない。

言語化すること 

 当事者であっても、自分の日常生活や体験を全て言語化して、全ての事象を表彰することはできない。

 他者は、異なった価値観をもっているので、当該地域で生活(参与観察)することで、その地域では当然であることに度々、違和感を得ることで、当事者が言語化できていないことを言語化するチャンスを自然と得ることができる。その結果、第三者にも分かるような説明ができる。

 若者 バカ者 よそのもの理論

 個人的には好きではないが、まちづくり業界でよく言われる、「若者 バカ者 よそ者がまちづくりには必要」という、これをメインとして主張する人とは決して付き合ってはいけないと私が思っている理論は、この「他者性」についての議論でもある。

 誰でもいいので、当該地域と異なった価値観の人がいれば、自分たちの地域では自明となっている「言語化」できていない、他地域からみれば違和感のある部分にすぐ気が付く。そしてそれは、「良さ」である場合も、「悪さ」である場合も両方ある。

 よく学生の若い意見を聞きたいという行政関係者がいるが、方法論としては間違っていないが、その「若者」の意見をそのまま採用したところでうまくゆくとは限らない。「若者」の意見を聞くことで見えてくる、現状の問題点などを踏まえて、自分たちが求めるビジョンを再構築して、既存の方針からの方向転換、大抵は痛みを伴う新たな仕組みづくりを行わなくてはらない。

結局は既定路線に、、、

 行政に限らず、誰でも、大きな痛み、、、、、、、小さな痛みであってもやりたくないので、その地域の根本問題にかかわるようなことは手を付けたくない。なので、当たり障りのない学生の意見を採用することになる。でも、保守的な地域では、新しい人の意見が通ることが珍しいこともあるので、新聞には「地元大学生が地域活性化の活動を提案して実践」といった報道が載る。その結果、何となくやったような雰囲気にはなる。しかし、根本問題は解決したわけではないので、結局は、地域は何も変わらず、学生も卒業してゆくので、それ以上のことは取り組まない(めない)。

 地域も根本的な地域の問題を考えることもせず、ちょっと提案することが「まちづくり」みたいな感じになって、、、、、、既定路線の衰退の途を進んでゆく、、、

 結局は「他者」を排除し、同質性の過ごしやすさに甘んじてしまう。

 異質な他者を排除せざるを得ない「新しい生活様式」

 前回も述べたが、コロナ時代において、感染経路が特定できず、ウイルスも見えず、特効薬もまだ開発されていないので、異質な他者を受け入れることは最もリスクが高く、その異質な人と密な関係を作ることはとんでもない反逆行為である。フィールドワークや参与観察ができないどころの騒ぎではなく、そもそもの日常生活も変わってしまっている。

 同質的な社会的行動が求められると同時に、個々人の物理的距離は離れて生活するという矛盾した状況を日常生活とする今日、我々はどのように「地域社会」を授業として取り扱ってゆけばよいのだろうか(次回に続く)。

 



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