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「記録程度に」は決して言い訳の言葉ではない(本文無料公開中)

「記録程度に」という言葉が写真界隈ではたまに聞こえてくる。この時の意味は「妥協した条件だけど、シャッター押さないのももったいないので撮りました」みたいな感じだろう。

写真は撮った瞬間からノスタルジーをまとう、という話があるように、写真は撮られた瞬間、その日その場所に存在したモノの過去の姿の記録になる。つまり、写真は本質的に記録なのだ。つまり、「記録程度」も本質的には立派に写真なのである。

ホームでとりあえず撮ったヘッドマークをつけたキハ40の写真である。これは本当に記録の意味しかないが、立派に写真である。

この前提で「記録」について考えるのだが、今自宅にいる自分を撮るのも記録だし、特別に運行された電車を撮るのも記録だ。10年、20年した後に情報として価値を持つ記録もあれば、ある地域の状況を伝えるという意味で情報価値を持つ記録もあれば、ある瞬間を鋭く切りとったスナップというアートの側面を強く持った街の記録もある。

こうやって考えていくと、写真の評価はその芸術性(=構図や露出設定によって高まる評価)と記録性(写っているものの情報価値によって高まる評価)の二つの評価軸で評価されることに気づく。基本的にこの軸は相互に高め合うことができるので、情報の量や密度や質を上げるような構図をとることで、2つの軸両方の評価を相互に高めることが出来る。

江ノ電305fという情報に紫陽花という情報を付与することで、撮った場所や季節が分かるようになる。組み合わせる情報と組み合わせる方法の二軸で善し悪しが決まるイメージ。

ここで考えなければならないこととして、単なる記録の価値がいかほどかということである。国内だけでも一億人くらいの人がカメラを持っている現代、単なる記録は多くの人が撮影していて、高い価値を持ちにくくなっている。その中でより高い価値をもつ写真にしていくには・見る人が感じる情報の価値を上げる・写真の芸術性を上げるの二軸が考えられる。

まず、見る人が感じる情報の価値をあげる方法としては、たとえば下記のようなものが考えられる。
①鉄道ファンに対し、普段走らない線区を走る珍しい車両の記録という情報価値(今この瞬間の報道的な価値)
②家族に対し、普段撮らない家の中を撮ることにより、10年以上経って引っ越した後に昔の家の思い出を強く感じられるという情報価値(私写真的な価値)
③イベント参加者に対し、「こんな人とこんなイベントやったな」という記憶を呼び起こす装置となる情報価値(私写真的価値)
④少し昔の街の様子を知りたくなった懐古趣味者に対し、当たり前すぎて誰も撮っていなかった10年前の街並みを確認できるようになる情報価値(長期的に見た時の報道的価値)

今この瞬間の記録として、2025関西万博のラッピングと大阪万博の象徴を組み合わせた
撮る人が少ないごく普通の街角。10年以上経って強烈に懐かしくなるのは、こんな写真かもしれない。

 芸術性の向上についてはまた改めて記事にしようと思うのだが、一言で言えば、見る人に対して伝えたかった情報を伝えたかった温度感で伝えることが出来るか、という軸で高める必要がある。たとえばきっちりと整えた構図で完璧な光を当てて撮影した場合、どうしても作り物感が出てきてしまう。ドキュメンタリー的に伝えたい意図がある場合、これらの光を整える行為が「芸術性を毀損させる行為」になる。単純ではない難しい話だ。

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