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19歳、野宿生活者調査から始まった現場取材体験

こんにちは、ユキッ先生です。
8月に独立し、9月収入が5500円で、10月のほぼ同時期から仕事が4つ走り出して、狭い範囲を東奔西走している2児母のコンテンツプランナーです。

気づけば当初目論んでいた「コンテンツ制作・提案」の業務よりも、現場の取材や調査に充てている時間が多い気がしております。在宅ベースのようで在宅ベースでないような。
そしてそれが私の持ち味なのかもしれん、と感じています。

独立準備期間で自己分析していたときには、「仕事で‟取材”がしたい」という希望を自発的に持っていたわけではないのです。が、いざふたを開けて独立後の最初のお仕事での取材に追われてみると「現場で毎日違う人に出会う面白さ」という、ラジオ局時代に仕込まれた感覚が身体のなかにもよみがえってきました。

いまでは取材先の調査・開拓やアポ取りを含めた一式が「好きなこと」かつ「比較的得意なこと」(少なくとも抵抗感なく楽しんで取り組めていること)なのかもしれない、と思い始めています。

▽地理学授業のフィールドワークが原体験

この「面識のない人に話を聞きに行く」という活動を、おそらく他の人よりも自然なこととして受け入れている理由のルーツは、大学時代に遡ります。

まず背景として、私が大学を志望するときに専攻を検討したのは、心理学。当時TV番組「それいけココロジー」などの影響もあって流行っていたんですよね。あとは、社会学でした。それら両方を扱う(これまた流行りだった)「人間○○学部」のある大学を目指しつつ、結局は「人間○○学科」という分類がある文学部に入学しました。そして、文学部は2回生で専攻に分かれる仕組みだったので、一般教養の授業を受けながら前期のラストあたりまで、心理と社会どっちにしよかな~、と脳内で天秤にかけていました。

一般教養の講義で、文化人類学や地理学の授業には、必須でフィールドワークがありました。文化人類学は吹田の万博記念公園にある施設、地理学では大阪市内のいろんな街を歩いてレポートを書くというやつです。

この体験、特に後者が、田舎育ちの私には鮮烈でした。都会的カルチャーに憧れつつ、同時に都市問題にはかねてから興味を抱いてはいました。ですが、実際に「南海線に乗って新今宮~天下茶屋~帝塚山を歩き、その感想をレポートにする」という課題を通じて得た衝撃を、忘れられません。

といって大阪在住でないと(もしくは在住者であっても、興味が特になければ)わからないですよね。どう衝撃的だったかというと、同じ沿線の街で全然毛色が違っていて、「都市の格差」の縮図になっているんですよね。それが電車で10分とかの距離に凝縮されているエリアです。全国にはもっと極端な街もあるのかもしれませんが、18歳の私には衝撃が大きかったのです。

▽社会学ゼミで野宿生活者に聞き取り調査をした

結局、心理学はどちらかというと動物などでの実験が研究のメインになってくるらしいということがわかり、フィールドワークができる社会学ゼミに進みました。ちなみに地理学ではなかった。社会学だと、サブカル研究やメディア論もでカバーきるからですね。

で、社会学の専門授業の一環で先生の研究に参加するのですが、最初のゼミの調査対象が、日雇い労働者・野宿生活者でした。

このいきなりのハードル。

基本的には院生の先輩とペアもしくはグループとなり、その日の仕事を探すために施設に来ているおっちゃんに声をかけて、日雇い労働者になった経緯や、これまでの生い立ちの話を聞きました。

このいきなりのハードル(2度目)。

先輩とちょっと離れてる隙に、いきなり「ねえちゃんタバコくれよ」とすごまれたときは正直怖かった。夏休みにはゼミ生全員で公園での炊き出しボランティアに参加したりもしました。視界が歪みそうなほど暑かった記憶。

当時は公園で暮らしているホームレスも多くて(その後、日本で開催されるサミット等をきっかけに公園が「整備」され、姿がなくなるわけですが)、長居公園のテント居住者にも声をかけました。もう20年以上前、何人ぐらいに話を聞いたかは忘れてしまいましたが、数十名には聞いた気がします。
当時、生まれは戦後で大阪万博の時期に建設系などの仕事を求めて地方から出てきて、何かのはずみに定職や家族を失ってしまったが、日雇いで食いつないで大阪に居る、という人が多かったです。

実は私の実父も同じ背景で同じ時代に大阪へ出て土木系の仕事をし、結婚を見据えて転職・Uターンをした人なので、父のライフコースの「if」と重なる部分も当時多く感じていました。

▽在日コリアンのコミュニティでも聞き取り調査した

別のゼミ授業で調査対象だったのは、市内の在日コリアンコミュニティでした。一見普通の下町に見えて、親や祖父母の世代に日本に来たという世帯が多い地区です。

といってあくまでも社会調査ですから、何か特定のメッセージを導き出すための情報収集ではなく、ただひたすら淡々と、いろんなお宅を訪ねて、生い立ちや日々の暮らしぶりについて聞き取りを行いました。当事者もいるし、そんな事情を知らずにその地域に住んでいる人ももちろんいました。

当時で20歳ぐらいですが、とあるおばあちゃんは私と同じ年頃の孫がおり「酪農を学ぶために北海道に進学してな」と話してくれたり、優しいおばちゃんが「学生さんも毎日大変ですね~」とケーキとお茶を出してくれたりもしました。

先生名義の連絡で町内会経由で入念に根回ししていても、「突然誰やねん」「そんな時間ないわ」「調査とか知らんし」みたいに門前払いされることももちろん多かったです。が、やはり最初の調査経験がある意味特異だったので、冷たくあしらわれることにも特にダメージを感じることはなかったです。

そういうわけで、「面識のない人にいきなり話を聞きに行くこと」へのハードルは、この頃、一般の同世代学生よりはかなり下がったのだと思います。

▽印象に残っているラジオ番組の取材

そんなわけで卒業後は縁あってラジオ番組制作に参加していたわけですが、そこでも「取材」が大きな意味を持ってくるようになりました。

2000年入社なので、インターネットメディアがどんどん一般化しつつあるという時代。価値ある情報は何か、というのを突き詰めるとやはり「一次情報」というわけです。

取材現場で印象に残っていることがいくつかありますが、1つは映画館で終映後にお客さんに感想を聞いて回る企画です。CMでもよくありますよね。★5つをMAXに採点してもらい、自由感想をレコーダーで収録し編集してOAする、というスタイルの取材を、同期のADと2人体制で1年半ぐらいほぼ毎週やっていました。

毎回ウザがられながら、1回あたり10組ぐらいを目標にインタビューするんですが、1回だけ「全員が★5つを付けた」という作品がありましてね。

それは「千と千尋の神隠し」(2001年)でした。

あと、阪神なんば線の開業特番(2009年)のときに、沿線のお店などを巡りながら生中継を入れる、という企画で、生放送中の何時ごろに/どこへ行き/何を聞く/というような取材先のリサーチや構成をして、ついでに時刻表とにらめっこして行動予定表を作り、スタッフとリポーターで取材に出てもらったのも楽しかった…。

あれ、その企画、現地に行ったの私じゃないな(書いてて気づいた)。しかも無茶な行動表作ってたからあとでけっこうスタッフに文句言われたなw

生放送中継と別に、沿線の店や企業にアプローチして、放送中にインサートする開業お祝いの音声コメントを収録しに出かけたのも楽しかったですね。ああいう企画はまたやりたいなあ。

▽そしてきょうも取材先を探し、アポを取り、話を聞きにいく

そういう日々を積み重ねております。

最初のキャリアが「情報を右から左に流すだけで、実は何も自己資産がない」と揶揄されたこともある媒体社で、次は自己資産を展開するIPホルダー社でした。確かに、メディアって何かを持っているようで何も持っていない事業なんですよね。

で、どちらも経験してみて気づいたのは、私自身が「何かをメッセージとして伝えたい」「唯一無二の世界観を自分自身から生み出すのが楽しい」というよりは、私はどこにいても、あくまでもその時代であり場所の「観察者・記録者」でありたいということでした。
私自身という個人も、インプットとアウトプットの媒介であり、うまくいけば点と点をつなぐプラットフォームになれるかもしれないという感覚に、より大きな喜びを感じている次第です。

私自身が何かをやりたい、成し遂げたい、というよりは、誰かの話を聞いて、それをどこかで求めている誰かに伝える役割のほうが向いている。

というわけでやはり、モニターの前でひたすらPCをカタカタするイメージの「ライター」というよりは、1回聞いても何をしているのかわからない「コンテンツプランナー」のほうが、名乗るには便利だなと感じています。

年末にかけて古い友人と近況報告をする機会が増えていますが、「は? 何その職業」って合計5回ぐらい言われる予感がしています。すでに2回言われました、ありがとう。


カバー写真 / 大阪の社会人ならきっとわかる「中之島」(2021年)


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