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何かしようとする気持ちはリスペクト!

皆様、こんばんは。yasuchinです。

早速、金・銀メダル獲得ですね。競技中継をチャンネルをあちこち変えながら皆さんも応援なさっていたことと思います。明日以降も、ガンバレニッポン!で応援しましょう。

さて、今日のテーマは「何かをしようとする気持ちはリスペクト!」というテーマでお話したいと思います。

◆人の行動には必ず動機と目的がある

私たちの日常生活における行動は、その全てに行動の理由と目的が存在するのが普通です。

おなかがすいた⇒空腹を満たすために⇒食事をする

おしっこがしたい⇒排泄をするために⇒トイレに行く

など、一番身近で人間の生活の底辺の部分はこんな行動ではないでしょうか。

もっと、仕事の場面や趣味、スポーツといった観点からみると

会社が赤字⇒売り上げを上げるために⇒新規事業を立ち上げる

大会で予選落ちした⇒次大会で決勝にいくために⇒練習に一層励む

私たち人間は自分の意識の中で何かしらの理由付けをしてそれに基づいて、今の自分の危機を脱したり、現状をもっと良くしようとするために行動を起こしています。

◆行動の結果に賛否があるのは当然

日常の一番底辺の部分。つまり私たちの生理的な面にかかわる行動に対しては、おそらく誰も文句や意見を言う人はいないと思います。

トイレに行ったことを咎めたり、普通に食事をしたことに対して怒りを覚える人は、あまりいないでしょう。

ですが、人の行動は他者の目線からみると必ずしも良く見られないことが多々あります。

それは、自分にのみ影響がある行動であれば、「良い」「悪い」は自己判断になりますが、それがだんだんと、自分のみならず周りの知人、同僚、社員、地域住民など、規模が大きくなればなるほど、自分の一つの行動に対して「賛成」「反対」「良い」「悪い」といった意見が出始めます。自分の行動が他者に対して影響を及ぼし始めます。

さらに規模が大きく、国内、世界となればどうでしょう。一国の首相や大統領、国連の事務総長、IOC会長とかになると、彼らの行動のみならずその言葉でさえも全世界で賛否を呼ぶことになります。

これは至極、当然のことと思います。

皆、それぞれ一人の人間です。一つの頭、一つの体で考え行動を起こしているのです。皆が「賛成」にしろ「反対」にしろ、全員が同じ意見でまとまることがあるならそれこそ気持ちが悪い。賛否が分かれることは社会においては正常を意味すると思います。

◆正解を求め過ぎの社会

今日のテーマをお話するに至ったのは最近の世の中って「正解を求め過ぎ」なのではないかと思うところがとても多くなってきている気がするからです。

昨日もネット社会の発展による「インプット」「アウトプット」のお話をさせていただきました。

SNSの発展で「アウトプット」過剰な世の中です。賛否の意見も自由にいつでも発信できます。もちろん、このnote内も然りです。

私はこの「アウトプット」過剰な世の中、賛否の意見が縦横無尽に駆け巡る世の中を嘆いているわけではありません。

そうではなくて、その賛否の意見が渦巻く世の中においては、発信する側はいつでも「正解」が求められていると思ってしまわないかと危惧しているのです。

「正解」が求められる世の中。「正解」が良いに決まってるし、もちろんそれに越したことはありません。それが一番いいのは当たり前です。

でもよく考えてみましょう。その「正解」は誰が決めるのでしょう?模範解答が存在するのでしょうか?

コロナ事情でみてもそうです。人類が未だかつて見たことのない未知のウイルスとの戦いです。その戦いに勝利する術、「正解」といえる戦い方を現状どうやって打ち出すのでしょう。

オリンピック開催にしてもそうです。「開催」か「中止」か…どちらがいいのかその「正解」は誰にもわかりません。

でも、一国の首相であっても、組織委員会の長であっても、一自治体の首長であっても、ある会社の社長であっても、あるグループのリーダーであっても、家庭の大黒柱であっても…………

「正解」かどうかはわからないが「答え」は出さなければならない時があるのです。

その「答え」に賛否を投げかけるのは自由ですが、「正解」ではなかったと決めつけたり、そもそも誰にもわからないはずの「正解」を求め過ぎるのはいかがなものでしょうか??

昨日、「正解」と「答え」といったことに関しては「インプット」「アウトプット」と合わせて参考になる記事がありましたのでご紹介します。

miho yajima様、記事参照させて頂きました。ありがとうございます。

◆あなたは、日本のために戦った人々の思いや行動を否定しますか?

日本は今年、終戦から76年です。毎年、終戦記念日として8月15日は全国民が祈りをささげる日です。

これまで語り継がれてきた「戦争」には当然、賛否があります。いや「賛成」より「否定・反対」がほぼでしょうが…そして「正解」ではなく「間違い」だったと言う人々がほとんどでしょう。

私もそう思います。ただ、それは行動の結果からみればです。

でも、ここでしっかり、よく考えてほしいのです。

じゃあ、あの時代を必死で生きていた人、戦地に赴き命をかけて戦った人たちの行動は否定されなければならないのでしょうか?「正解」でなく「まちがい」だったのでしょうか?

自分たちのおじいちゃん、おばあちゃんたちは、みんなそろって間違いを犯していたのでしょうか?否定される行動をしていたのでしょうか?

私は思います。「戦争」は「正解」ではなく「間違い」。「否定」されるもの。そう思います。

だけど、その中を生きていた人たちのその時その時の思いや、考え、そして行動は決して間違いだとは思いません。もちろん、向かってくる敵を撃ち殺したりしたとは思います。

でも、それは何のため……??

殺したくて殺したのではない…。明日の日本のため、愛する子供、孫のためと思っての行動ではなかったのではないでしょうか?

人殺しは「間違い」それはそうです。

当時の状況を把握していなかった国民も多い中、ただひたすらに日本を救うため、この戦争をはやく終わらせるため、早く平和な世の中にするため、という思いで大変な日々を過ごしていた。その1日1日の思いや行動は簡単には否定できない、むしろ、後の世を案じたリスペクトされるべき思いや行動ではないかと思います。

◆思いは認め、リスペクト!

「アウトプット」が容易な時代においては、日常生活においても他者の行動や意見に対して反射的に自分の意見をぶつける傾向が強くなっているように思います。それは、悪いことではないのですが、一方的過ぎたり、相手のその行動・意見を丁寧に受け止めていないところも伺えます。

人の思い、そして何かをしようとする行動は多様です。自分と思いが合致したり、思い通りの行動がしてもらえることなど、そんなにないと思います。合致しないから「間違い」、「否定」しなければならないという短絡的な考えにならないように、まずは相手の思いやその行動を認めてみませんか?そして、できるならリスペクトして、闊達に賛否を戦わせたり意見交換が行えると良いのではないでしょうか。

あくまでも、私個人の思いや考えです。取り敢えずは皆さんに認めてもらえるでしょうか…(笑)

それでは、また!

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