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真実とは…「落下の解剖学」を観て小説「悪女について」を思い出した件

ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。

ついに「落下の解剖学」を観てきました。

毎度の如く、ポスター比較。
まずは日本版。

文字情報多め。

日本版は落下時の血溜まりは消されています。その代わりに血を連想させるような赤い色の字……。サミュエルの身体も下半身しか見えない構図です。

続いて海外版。

全体的に寒色系。構図も違います。
フランス語ver. パルムドールの文字が燦然と!

海外版はどちらも雪の上に血の跡がくっきりと。その代わりに、文字はネイビー。これはサミュエルの服の色とリンクしていますね。日本版と違ってサミュエルの全身が見えています。

いつも気になる邦題は……原題の直訳ですね(ほっ)。

ちなみにフランス語のchuteには、落下という意味以外にも失敗崩壊という意味があるそうです。ニュアンスとしては下方向の矢印↓な言葉。他の二つの意味も掛けてのタイトルだとすれば、映画の解釈もさらに広がっていきますね!

事故か事件か

山荘の3階から転落死したサミュエルの第一発見者は、視覚障害(弱視)を持つ息子ダニエルと愛犬スヌープ。その時サミュエルの妻サンドラは階下で昼寝中だった……。サミュエルの死は事故か自殺か他殺か?事故から事件とされたこの出来事、サンドラは夫殺しの嫌疑をかけられてしまう……。

後半は法廷劇になりますが、まるで観客が裁判員(フランスだと陪審員)になったかのような臨場感。

徐々に明るみになる、転落死に至るまでの夫婦関係、生前のサミュエルの言動、サンドラの行状、そして一人息子ダニエルとの関わり。裁判にならなければ、世間に知られることもなかったであろう夫婦間のプライバシーの数々。ショッキングな内容を傍聴席で固い表情で聞くダニエル。

裁判で語られるのは、事実だけではありません。推理、推測、憶測、想像、仮説、なかには中傷に近いものも。それらに対しての否認、抗弁、その応酬。被告席で時に不安げに、時にふてぶてしいとも取れる表情を見せるサンドラ。ドイツ人でありながらフランスの法廷で裁かれ、あまり得意ではないフランス語で対応しなければならないサンドラ。途中何度か言葉に詰まり(それでも構わず続行させられる……)英語に切り替えていいかと裁判長に許可を求め、英語でまくしたてるサンドラ。英語も彼女の母語ではないのだけれど。サンドラにとってはこの上なくアウェーな状況。

事実と真相と真実と

この映画の中で、明らかな【事実】「サミュエルが山荘の3階から転落して死んだ」こと。

この【事実】をどのように受け取るか、どう見るか。当事者との関係性でも見えてくる景色はまったく違うものになります。

サミュエルの死に「不審さ」「不自然さ」を嗅ぎ取れば「何者かに殺されたのでは」と考えるでしょうし「なんらかの必然」「納得」を感じれば「事故か自殺の可能性」を考えるでしょう。

動かし難い【事実】はただ一つですが、その事実を受けとめる人の数だけ【真実】は存在する……裁判の過程で次々に出てくる情報、証言。それらを聞きながら、いつしかまるで陪審員の役割と化している観客の頭の中にも、この転落死事件への自分なりの【解釈】、サンドラへの【心証】や【心象】が生まれてきます。

記憶という不確かなもの

息子ダニエルは裁判を傍聴してきて、傷つきつらい思いを抱えます。裁判長はダニエルにこれ以上傷つかないためにも公判を傍聴しないようアドバイスしますが、ダニエルは「もうすでに傷ついているし、立ち直りたいから傍聴は続ける」と答えます。

ここのくだり、裁判長もダニエルに強制、命令するのではなく、助言した上で最終的にはダニエルの結論を受け入れるところ、子どもの権利が手厚く守られているフランスらしさを感じました。

傍聴して初めて知る両親の姿……ダニエルも両親の不仲をそれとはなく感じてはいても、その原因が自分(が事故にあったこと)にあると公の場で晒された上、修復不可能なほどの夫婦の断絶っぷりを知ることになります><
きっと子どもの前では意識的に見せないようにしてきただろう、夫婦の醜い諍いも全部。

11歳の少年が知らされるには残酷すぎる現実を直視する羽目になったダニエル。また、裁判の流れから、自分の証言が陪審員の心証に影響し、ひいては母サンドラへの評決を左右しかねないことを理解していたダニエルは悩み葛藤します。

警察の聴取から一年後になって、事件当時証言した内容を二転三転させるダニエル。事故直後はショックで錯乱していた、あれは間違いだったと言われればどうしようもないけれど、供述を覆した背景にダニエルの憶測、忖度がないとは言えず……母サンドラを庇っているのではないかと疑う検察側はダニエル少年を容赦なく質問攻めにし、彼の供述の矛盾点を追求しようとします。

事故か自殺か他殺か---ひとつひとつの事実についても、証拠によってあったともなかったとも確信できないときは被告人は無罪と推定されることから、検察側は何としてでも被告人の犯罪(殺意)を証明しなければ、有罪とすることができません。物的証拠が少なく、状況(情況)証拠の「信頼性」が争点となるこの事件、検察側がかなり露骨にサンドラへの印象操作をしているように感じました。(しかもサンドラがつかみどころがなく、ひょっとして……?と思わせるからもう><)

状況証拠は記憶や当事者の主観によって形成されることも多くあり、またその証拠をどのように扱うかは事件の見立てによっても変わってきます。

ダニエルに限らず誰にでも言えることですが、記憶ほど曖昧で不確かなものはないでしょう。記憶はさまざまな条件の影響を受けやすく、書き換え、錯誤、誤解など事実からどんどんかけ離れていく(虚偽記憶など)こともあれば、無意識下に封印してしまう(抑圧)、思い出せなくなる(忘却)こともあります。

記憶から発せられる証言から得る状況証拠、それらの積み重ねで事件を解明していこうとする危うさと恐ろしさ。

真実とは

1年ぶりに証言に立つダニエルは、裁判所から、公判の日まで母サンドラと裁判に関する話を一切しないようにと釘を刺されます。公判を翌週に控えた週末、母を家から追い払い(母は自ら出ていきましたがダニエルに追い出されたに等しい……)愛犬スヌープとマージ(裁判所から派遣されている係員でダニエルの付添人)と家で過ごすダニエル。あまり感情を表さないダニエルですがさすがに不安そうで心細さ、ナーバスさも窺えます。

「真実が何かわからないんだ」と言うダニエルに対して「わからないことがあったとして、判断するには何かが欠けていたとしても、自分のわかる範囲で決断しなければならないこともある(すみません、一字一句同じではないですが大意です)と諭すマージ。

たとえ不確かな状況の中でも、証言台に立つ以上、自分の信じるものに従って判断する必要がある自分の軸を持て、そう伝えたかったのでしょうか。

自分たち家族を見る世間の好奇の目、そして自分の【証言】が事件の解釈に多大なる影響を与えること(極端な話、母が有罪になるか無罪になるかくらいの影響力はある)……ダニエルが証言台に立つには、彼自身の事件への態度表明、つまり「彼自身の【真実】とは何か」を自分で決める必要がある、ということで。

結局のところ【真相】は当事者(死んでしまったサミュエル)しか知る由もなく、いくら周辺の多くの証言や解釈を集めたところで【真相】には辿り着けない……。しかし、どれだけ真相に肉薄できるのか、その限界に挑戦することが裁判のプロセスと言えるかもしれません。

何を話すのか。何を話さないのか。
どの記憶を引き出し事件と関連付けるのか
真実は、話さないこと、引き出されないことにあるのかも知れず……。

ダニエルは証言台で何を話すのか?
サンドラへの判決はどうなるのか?(ネタバレ回避)
ダニエルの証言内容と証言の終わりに検察官の叫んだ言葉がとても印象的でした。(具体的な内容はネタばれ回避の為に避けます)

既視感

この映画を観終わった後にすぐ沸き起こった既視感

真相は藪の中。

真実は人の数だけ存在する。

本人不在のまま、周囲の人の証言から事件を解明しようとする。

人は他人に自らの一面しか見せていない。

人は他人の一面しか見ていない。

事件や人への解釈(それぞれの真実)はひとつではない。

そして、帰り道にふと思い浮かんだのが、有吉佐和子氏の「悪女について」という小説でした。転落死、死の真相を探る……設定までも似ている!
(この小説を大正生まれの女流作家が書いたという事実がまず驚きです)

この本については以前記事にしています。


キミコと名乗る女がビルから転落死した。

小説で明らかな事実は、これだけです。
たった一文、19字で表せる事実が、文庫500頁強のストーリーになるという……!

事故なのか自殺なのか他殺なのか。確固たる証拠がないなかで、彼女の謎めいた過去と彼女のひととなりが27人の関係者のインタビューから語られていきます。

「きみちゃん」「君子さん」「公子様」「おキミ」……呼ばれ方だけでもこれだけのバリエーション。キミコ評も27人それぞれ。とても同一人物について話されているとは思えないほど違う印象とエピソードの数々。

知れば知るほどキミコ像がぼやけてくるというのか、一人の人間の持つ多面性とともに、人の記憶というのは実に曖昧で不確かなものだと思わされます。人は自分の都合の良いように物事を見、解釈するものです。見たいようにしか見えないし、記憶に留めたいことも留めたくないこともある意味その人次第です。

それぞれの人にキミコとの真実の繋がりがあり、真実の数だけ彼らのキミコが存在する……どのキミコもキミコであるけれど真のキミコではない、では真のキミコとは何だろう。

自分が見ているこの人は、この出来事は本当のところ何なのだろう。

【真実】について考えるとき、ある種自動装着されている自分のフィルターの心許なさを、言い換えれば【確証バイアス】の存在を考えてしまいます。確証バイアスとは「ある状況について直感的に信念を抱いた後、その信念を裏付ける情報を探してしまい、結果判断を誤る」ことです。情報収集段階で、元々の考え方、信念、行動を裏付ける情報ばかり(つまり自分の都合の良い情報ばかり)をピックアップしてしまう恐れがあるのです。

真実の数々を積み重ねて何とか真相に近づこうという試みは、あまり意味のないことかもしれないなと思いました。

残された者たちの為の

話を映画に戻します。
ダニエルは証言前に自分の【真実】を見定めたく、ある「実験」を行います。自分のなかにある疑念を確信に変えるために。この実験はダニエルの大切な愛犬スヌープを危険に晒す行為でしたが、この実験の結果から、ダニエルは過去にあった父サミュエルとのやり取り、父の発言に対する自分の解釈、【自分なりの真実を語る決心】をします。

とはいえ、今更ダニエルが何を言ったところで、亡くなった父サミュエルは戻ってきません。どのように亡くなったかは明らかになったとしても、残された家族の救いにはならないのです。ましてや、母サンドラに殺人の嫌疑をかけられている状況で、ふたりの間の子であるダニエルはすでに十分辛い立場に置かれています。

ダニエルの【真実】が残された家族の命運を握っている、彼は何をどう見て、どう生きていきたいのか。11歳の少年が下すには重すぎる判断であり決断です。

ダニエルは残された者として、自分の見聞きしたことを淡々とした様子で話します。映像としては回想シーンのようになっていて、ダニエルが話すのに合わせて在りし日の父サミュエルが話している様子とぴったりシンクロする演出になっているせいで、単なる回想シーンとしてではなく、法廷にいる人々も観客であるわたし達も、ダニエルの言葉に圧倒され納得させられてしまうのです。そんな法廷の雰囲気というか傍聴席の空気感を察して、それを必死で打ち消そうとするかのように検察官が叫ぶ言葉は、皮肉にも検察側の主張の脆弱性をも露呈するようなものでした(特大ブーメランとはこのこと)。

映画のラスト近くでダニエルとサンドラが抱き合う場面も印象的でした。
冒頭で父を発見した時は母に抱きかかえられ、母にしがみついていたダニエルでしたが、ラストでは母のことを包み込むように抱きしめている……少年っぽさから男らしさに変わったのが感じられ、ダニエルが一連の裁判を経て傷つきながらも大人になった様子が描写されているようでした。

今回はこの辺で。
また別の切り口からこの映画を語りたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました^^

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